ヴァレンシュタイン Wallenstein | |
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出身地 | ドイツ 下ラインラント フィールゼン |
ジャンル |
プログレッシブ・ロック クラウトロック |
活動期間 | 1971年 - 1982年 |
レーベル | ピルツ |
旧メンバー |
ユルゲン・ドラゼ ビル・バローン ハラルド・グロスコフ ジェリー・ベルカース ヴォルフガング・ステイニケ ヨアヒム・ライザー ディテア・マイア ユルゲン・プルタ Gerd Klöcker Nicky Gebhard Jakob "Jaky" Diener Michael Dommers Pete Brough Charly Terstappen Joachim "Kim" Merz Kurt Schmidt |
ヴァレンシュタイン[1] (Wallenstein)は、1970年代のいわゆるクラウトロックと呼ばれるようになる、1971年から1982年に活動したドイツのロック・バンド。下ラインラントのフィールゼンで結成され、後にメンヒェングラートバッハに拠点を置いた。
ヴァレンシュタインは1971年の夏に、(デュッセルドルフ芸術学園にて)野心的な芸術を学ぶ学生、フィールゼン出身のユルゲン・ドラゼ (Jürgen Dollase)によってBlitzkrieg (ブリッツクレイグ=電撃戦)のバンド名の下に結成された。彼はすでにクラシック音楽の訓練を受け、ピアノとダブルベースを演奏していたものの、スキッフルやジャズの編成で演奏していた。さらに、メンヒェングラートバッハ・ヘナホルトのPeter Gielen(Octopus Productions)と、ドラゼの後のロード・マネージャー兼イタリア人仲間であるCorrado Faccioniがバンドの基礎から関与していた。ヴァレンシュタインは、ドラゼとFaccioniが他のバンドからの最初のラインナップを集めたため、ある種の「テストチューブの子供」としてスタートした。グループの最初のソロ・ギタリストは、エルケレンツ出身で、今日では有名な天文学者として知られるヴォルフガング・ジンジャー・ステイニケだった。しかし、このスミディス・ブルース・バンドの元メンバーは、フィラデルフィア出身のアメリカ人、ウィリアム(ビル)・ジョセフ・バローンと交代した。ステイニケにとって物理学や天体物理学、数学の研究が最優先だったからだ。ユルゲン・ドラゼはすでにヒルデスハイムのハラルド・グロスコフを獲得し、ブルンスム出身のオランダ人、ジェリー・ベルカース(現在死去)をビル・バローンのすぐ後にバンドに引き入れていた。
「Blitzkrieg」という名前がすでに英国のバンドに使用されていた(英国の音楽出版社は「Blitzkreig」とスペルを間違えていたが…)のと、当時のドイツのレコード・レーベルでは政治的に正しい名前ではなかったため、三十年戦争の指揮官アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインからグループ名をいただき、1972年初めにバンドは誕生した。また、1972年初めには古典的なアート・ロックのデビュー・アルバムがリリースされた。それは1971年9月から12月までケルン近郊のストメルンにあるディーター・ディルクスのスタジオで録音され、以前のバンド名がそのままタイトルにされた。同年、ドイツのレコード・レーベル「ピルツ」が『マザー・ユニヴァース』をリリースし、デビュー・アルバム『ファースト (電撃戦)』(こちらも「ピルツ」レーベルから発売)を稲妻(Blitz)と同じくらい速く成功させた(注: 『マザー・ユニヴァース』のアルバム・カバーは、ハラルド・グロスコフが撮影したドラゼの祖母の肖像写真である)。
1978年に、ドラゼは音楽スタイルをかなり変えた後、バンドの全メンバーを置き換えた。1979年にイリヤ・リヒター (Ilja Richter)とのZDF放送におけるディスコ番組でのパフォーマンスをきっかけに、ドイツのポップ・チャートでシングル「Charline」が17位に到達した。そして、シングル「Don't Let It Be」(アルバム『Blue Eyed Boys』より)は、かなり成功し、売れ行きもかなり好調だった。1981年3月から6月まで、ヴァレンシュタインは最後のツアーを行った。グループは1982年、ついに解散した。