ヴィシュキ・ヤーノシュ Viski János | |
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![]() ウィレム・メンゲルベルク(左)と(1939年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1906年6月10日![]() |
死没 | 1961年1月16日(54歳没) |
ジャンル | 近代音楽 |
職業 | 作曲家 |
ヴィシュキ・ヤーノシュ(ハンガリー語: Viski János, 1906年6月10日 - 1961年1月16日)は、ハンガリーの作曲家。
1906年、コロジュヴァール(現・ルーマニア領クルージュ=ナポカ)で地主の家に生まれた。そのため、音楽に関心があったものの、農業に従事しなければならなかった。ヴァイオリンを学び、19歳の時に3回のソロリサイタルを開いた。その後作曲に関心を持つようになり、1927年に農業事業の傍らリスト音楽院に入学。卒業する1932年まで、コダーイ・ゾルターンに師事した。音楽院で音楽を学ぶ一方で、エトヴェシュ・ロラーンド大学で哲学と美術史についても学んだ。1932年に卒業し、故郷に戻った。
農地を経営し農業を営む一方で、作曲活動を続けた。郷里で最初に作曲した交響曲で、1937年にヴィクトル・ヴァジーの指揮でハンガリー・ラジオで発表された。その曲は1939年にブダペストで開催されたコンサートでオランダ人指揮者ウィレム・メンゲルベルクがブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団を率いて演奏し、その後欧州各地で演奏されたため、名を知られるようになった。同1939年には、バラッシ・バーリントの詩に触発されて交響詩『エニグマ』を作曲。
1941年、クルジュ=ナポカ音楽演劇院(現・トゥルグ・ムレシュ芸術大学)の院長に就任[1]。1942年からブダペスト音楽院の作曲科教授となり、作曲を教えた。この時に、ブダペストに居を移した。エトヴェシュ・ペーテルほか多くの後進を育て、1961年に死去。
交響組曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲、バリトンと管弦楽のためのバラード、合唱、歌曲などを作曲した。