一木 喜德郞 いちき きとくろう | |
---|---|
1933年(昭和8年)男爵叙爵の頃 | |
生年月日 |
慶応3年4月4日 (西暦換算1867年5月7日) |
出生地 | 遠江国佐野郡倉真村 |
没年月日 | 1944年12月17日(77歳没) |
出身校 | 帝国大学法科大学卒業 |
前職 | 帝国大学法科大学教授 |
現職 | 大日本報徳社社長 |
称号 |
大勲位菊花大綬章 男爵 法学士(帝国大学・1887年) |
親族 |
岡田良一郎(父) 岡田良平(兄) |
第16代 枢密院議長 | |
在任期間 | 1934年5月3日 - 1936年3月13日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第9代 宮内大臣 | |
在任期間 | 1925年3月30日 - 1933年2月14日 |
天皇 |
大正天皇 昭和天皇 |
第29代 内務大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1915年8月10日 - 1916年10月9日 |
第26代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1914年4月16日 - 1915年8月10日 |
選挙区 | 貴族院勅選議員 |
在任期間 | 1900年9月26日 - 1917年8月30日 |
一木 喜德郞(いちき[1][2] きとくろう、慶応3年4月4日(1867年5月7日) - 昭和19年(1944年)12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。
公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。枢密顧問官として宮中入りしてからは、宮内大臣や枢密院議長を務めた。また、父岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた。
遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市)に岡田良一郎の次男・丘平として生まれた[3][4]。1873年(明治6年)に一木家の養子となる[5]。冀北学舎に学び、兄の良平が東京府第一中学を経て大学予備門に在学しているのに触発され上京、成立学舎に入学した。同期に町田忠治らが、教師には当時帝大生だった有賀長雄や山田喜之助らがいた。
大学予備門には良平の助言に従い最低級の三年級ではなく一級上の二年級から入った。同期に林権助らがいる。その後帝国大学文科大学にあった政治科に入学。1887年(明治20年)に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。
1887年、内務省に入省。1890年(明治23年)、自費でドイツに留学して行政法を学ぶ[6]。1894年(明治27年)、帰国して帝国大学法科大学教授となり、明治39年(1906年)に帝国学士院会員となる。法学者として天皇機関説を唱えるとともに、美濃部達吉らを育てた。 法科大学教授(憲法国法第一講座担当)とともに、1900年(明治30年)10月まで内務省に勤め、大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官を歴任する[7]。
1900年(明治33年)9月26日、貴族院勅選議員に勅任される[8]。1902年(明治35年)には、法制局長官に就任。第2次大隈内閣においては大正3年(1914年)より文部大臣を務め、大正4年(1915年)からは内務大臣に転じた。
1917年(大正6年)8月14日、枢密顧問官に任命されると[9]、それにともない同30日には貴族院議員を辞職した[10][11]。大正14年(1925年)には、宮内大臣に就任した。1933年(昭和8年)4月25日、多年の功により男爵に叙された[12]。
1934年(昭和9年)には枢密院議長に就任した。在任中は天皇機関説の提唱者の一人として、弟子の美濃部達吉とともに非難に晒されるが、その裏には一木と対立関係にあった平沼騏一郎の工作が取り沙汰された。昭和11年(1936年)に二・二六事件が起きると、宮中において昭和天皇の相談相手を務め事件終息に尽力した。この事件で内大臣の斎藤実が殺害されたため、後任の湯浅倉平の親任式においては制度上必要となる前任者を臨時に兼任している。
1938年(昭和13年)枢密院議長を退任。一木はすでに1922年(大正11年)から旧制武蔵高等学校の初代校長を務めていたが、1938年(昭和13年)に枢密院議長を退任すると武蔵高校と強い関係にあった根津育英会理事に就任した。その後社団法人大日本報徳社社長や帝室経済顧問も務めている。1944年(昭和19年)12月17日、肺炎により東京都本郷区の自宅で死去。78歳だった。鈴木貫太郎が葬儀委員長になり、同21日に青山斎場で葬儀が行われた[13]。墓所は谷中霊園。
一木の実家の岡田家は、政治家や学者を輩出した一族として知られる。一木の父は報徳思想の啓蒙に努めた衆議院議員岡田良一郎であり、兄は京都帝国大学総長や文部大臣を歴任した岡田良平である。一木の実子には、検事の一木輏太郎、行政法学者の杉村章三郎がいる。また、輏太郎の長男充は松下電器のシステム推進部長であったが日本航空123便墜落事故の犠牲者となった。一木の実弟で母の実家・竹山家の養子となった純平の息子には、東京大学教養学部で教授を務めた小説家の竹山道雄、元建設省官僚、東京都立大学、日本女子大学教授で建築構造学の重鎮であった竹山謙三郎がいる。山梨大学教育学部教授の竹山護夫、東京大学名誉教授の平川祐弘は、一木の姪孫にあたる。
猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)イ一六二頁によれば、
公職 | ||
---|---|---|
先代 倉富勇三郎 |
枢密院議長 第16代:1934年5月3日 - 1936年3月13日 |
次代 平沼騏一郎 |
先代 倉富勇三郎 |
王侯族審議会総裁 1934年 - 1936年 |
次代 平沼騏一郎 |
先代 大隈重信 (首相兼任) |
内務大臣 第33代:1915年8月10日 - 1916年10月9日 |
次代 後藤新平 |
先代 大隈重信 |
明治神宮造営局副総裁 港湾調査会会長 1915年 - 1916年 |
次代 後藤新平 |
先代 大岡育造 |
文部大臣 第30代:1914年4月16日 - 1915年8月10日 |
次代 高田早苗 |
先代 岡野敬次郎 奥田義人 |
法制局長官 第14代:1912年12月21日 - 1913年2月20日 第10代:1902年9月26日 - 1906年1月13日 |
次代 岡野敬次郎 岡野敬次郎 |
先代 岡野敬次郎 奥田義人 |
文官高等試験委員長 1912年 - 1913年 1902年 - 1906年 |
次代 岡野敬次郎 岡野敬次郎 |
先代 吉原三郎 |
内務次官 第15代:1908年7月20日 - 1911年9月4日 |
次代 床次竹二郎 |
先代 吉原三郎 |
東京市区改正委員長 神職高等試験委員長 1908年 - 1911年 |
次代 床次竹二郎 |
先代 奥田義人 |
鉱毒調査委員長 1902年 - 1903年 |
次代 (廃止) |
その他の役職 | ||
先代 岡田良平 |
大日本報徳社社長 第3代:1934年4月27日 - 1944年12月17日 |
次代 河井弥八 |
先代 近衛文麿 |
日本青年館理事長 1924年 - 1925年 |
次代 丸山鶴吉 理事長事務取扱 |
先代 (新設) |
大日本連合青年団理事長 1924年 - 1925年 |
次代 丸山鶴吉 理事長事務取扱 |
先代 山県伊三郎(→廃止) 警察監獄学校長 |
警察官練習所長 1909年 - 1911年 |
次代 床次竹二郎 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 一木(喜徳郎)家初代 1933年4月25日 - 1944年12月17日 |
次代 一木輏太郎 |