一条内政

 
一条 内政
時代 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年[1]
死没 天正13年6月5日1585年7月2日[2]
改名 万千代、吉房子[3](幼名)→内政
別名 大津御所(通称)
戒名 天叟守有大居士
官位 従四位下、左近衛中将
氏族 土佐一条氏
父母 父:一条兼定、母:宇都宮豊綱の娘
兄弟 内政按察使局
正室:長宗我部元親の娘
政親、女[4]
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一条 内政(いちじょう ただまさ)は、安土桃山時代の大名・公家土佐一条氏第6代当主。権中納言一条兼定の嫡男。

生涯

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永禄5年(1562年)、一条兼定の嫡男として、土佐国幡多郡中村に生まれる。

天正元年(1573年)9月、長宗我部元親によって父・兼定が隠居させられ、形式的な土佐国主となった。これにより、元親が土佐国内に実効支配を行ったとされるが(大津御所体制論)[5]、この御所体制という概念の存在を疑問視する研究者もいる[6]。また、この際に元服し、土佐に下向していた宗家の当主・一条内基(うちもと)から偏諱を受け、内政と名乗る(ただし「内」の読みは異なる)。

信長公記』天正8年6月26日条では、明智光秀を介して織田信長に献上した長宗我部元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現しているが、これは信長の織田政権が一条内政を土佐国主と認識していた、もしくは意図的に国主と認定することで陪臣である長宗我部元親の土佐支配を否認して信長ー内政ー元親の秩序に服従するように要求したと解する秋澤繁の説がある[5]

ところが、天正9年(1581年)2月に長宗我部氏家臣の波川清宗謀叛に加わった嫌疑により、伊予法華津に追放された。同国の法華津氏豊後大友氏に援助を求めるが、その地で病死した[7]とも、元親によって毒殺された[8]ともいう。あるいは天正8年(1580年)5月に伊予国邊浦に放たれて殺害されたともされる[3]。前述の秋澤説では、長宗我部側からすれば信長が認めた土佐国主・一条内政の追放によって、元親は織田政権への服属拒否の姿勢を示し、両者の関係は断絶・交戦状態に入ったと解している[5]

官歴

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歴名土代』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 弘治3年(1557年)説もある。
  2. ^ 高野山成福院所蔵の『土佐一条家長曽我部家過去帳』による。『一条家譜略』は天正8年2月15日1580年2月29日)に逝去とし、『系図纂要』は同年5月に元親によって毒殺されたとするが、何れも疑問が残る。
  3. ^ a b 『公卿辞典』本文編17頁
  4. ^ 『陰徳太平記『[1]
  5. ^ a b c 秋澤 2000.
  6. ^ 中脇 2013.
  7. ^ 土佐物語』羽林逝去の事
  8. ^ フロイス日本史』第1部106章
  9. ^ 『公卿辞典』本文編17頁では従四位上
  10. ^ 『陰徳太平記『[2]

参考史料

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  • 秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面-土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって-」(初出:『土佐史談』215号(2000年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』戎光祥出版、2014年 ISBN 978-4-86403-125-7))
  • 中脇聖「土佐一条兼定権力の特質について」(『十六世紀史論叢』2号、2013年)
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年
  • 坂本武雄編、坂本清和補訂『公卿辞典 三訂増補』国書刊行会、1994年 ISBN 4-336-00008-5