三沢 光晴 | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
三沢 光晴 タイガーマスク(2代目) カミカゼ・ミサワ[† 1] リオン[† 2] |
本名 | 三澤 光晴 |
ニックネーム |
方舟の盟主 ノアの象徴 全日本の象徵 ミスター三冠 アンタッチャブル エルボーの貴公子 王道の継承者 超世代軍の旗手 ガラスのエース[† 3] |
身長 | 185cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | 1962年6月18日 |
死亡日 | 2009年6月13日(46歳没) |
出身地 |
北海道夕張市生まれ[7] 埼玉県越谷市育ち[7] |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 |
レスリング 器械体操 |
トレーナー |
ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田 ザ・デストロイヤー ドリー・ファンク・ジュニア |
デビュー | 1981年8月21日 |
引退 | 2009年6月13日 |
三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本の元男性プロレスラー。本名:三澤 光晴(読み同じ)。北海道夕張市出身、埼玉県越谷市育ち。血液型O型。1981年に全日本プロレスにてデビューし、同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げした。
1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した[8][9]。そのため、三沢に北海道での記憶は全くないという[10]。三沢の母親は「樹」という文字が好きだったため「秀樹」と名付けるつもりだったが、父親がそれを無視し、当時のテレビドラマの主人公だったという「光晴」名で勝手に出生届を出してしまったため「光晴」と名付けられた[11]。
三沢は子供のころから体が大きかったが、当時から運動神経が良く[12]、小学校時代には越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝したこともある[12][13]。ただし、三沢曰く幼稚園の頃から家に一人でいることが多かったといい、近所でやっていた少年野球チームに入ろうとしたことがあったものの仲間と打ち解けることができず、「意外に内向的な子供だったんですよ」と振り返っている[14]。なお、小学生の頃の三沢はボクサーになりたいと思っていた[15]。
中学校に入学すると器械体操部に入部[† 4]。2年生の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる[16][17]。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、埼玉県内にレスリング部があるのは埼玉栄高校だけだったため、当時2年連続でインターハイを制していた足利工業大学附属高等学校に特待生として進学し、同校のレスリング部に入部した[18][19][† 5]。三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った[† 6]。三沢は入学して1か月が経った頃に行われた練習試合で他校の2年生を相手に勝利し[18]、3年時には国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが[24]、三沢にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった[† 7]。
なお、三沢は高校2年時に寮を抜け出し、当時六本木にあった全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある[26]。この時はジャンボ鶴田から「頑張って高校を卒業してから来なさい。俺は大学を卒業してからプロレス入りしたんだから、決して遅くはないと思うよ」と諭されて断念している[27]。
高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入門。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした[28][† 8]。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった[32]。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、越中に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価した[33]。三沢の1年前に入門したターザン後藤によると、三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したといい[34][35]、またコーチ役だった百田光雄によると、三沢はあらゆる種類の受け身を1回教えれば大体覚えたという[35]。冬木弘道によると三沢は当時から天才タイプで、「(三沢は)誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評している[36]。ジャイアント馬場は、練習において受け身の音を聞いただけで三沢が受け身をとったことがわかったとされている[5][37]。
もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる[38][† 9]。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた[40]。
1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した[† 10]。当初は越中・三沢ともに本名で試合に出場していたが、後に越中は柔道や空手を連想させる白の道着風のロングトランクスに「必勝」と書かれた鉢巻を巻いて日章旗を持った出で立ちの『サムライ・シロー』[42][43]、三沢は赤ラメのジャンパーに白いラインが入った赤のロングタイツという出で立ちの『カミカゼ・ミサワ』というリングネームに改名して試合に出場していた[1][2][44][† 11]。しかし、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた[45][46][47]。三沢は7月22日にメキシコから日本へ極秘帰国し[48]、馬場から2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける[48][† 12]。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、2代目タイガーマスクは全日本、ジャパンプロレス、梶原プロダクション、日本テレビによる一大プロジェクトとなっており[48]、すでにデビュー戦のスケジュールは組まれていた[50]。
2代目タイガーマスクとなった三沢は7月31日の蔵前国技館大会にてお披露目され、8月26日に行われた田園コロシアム大会でのラ・フィエラ戦でデビューした[† 13]。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、初代の佐山を相手に「虎ハンター」と称された小林邦昭との抗争を展開[56]。1985年8月31日には小林を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが[57]、同年10月にヘビー級に転向した[58][59]。
1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に馬場とタッグを組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートに勝利したものの、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した[60][61]。4月20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた[61][62]。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している[63][64]。
タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた[65][66]。これでは三沢が本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し[† 14]、三沢はそのことに苦しんだ[65][66]。そのため三沢はヘビー級に転向した理由について、「ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになったためであった」と説明している[65]。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた[67][68][69][† 15]。
三沢のタイガーマスク時代に全日本プロレス中継の実況アナウンサーを務めていた倉持隆夫によると、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、そのため取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している[54]。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している[54]。タイガーマスク時代の三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた[54]。週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は2代目タイガーマスクとしての三沢について、「ヒーローは常に強くなければいけないのに、『やられてばかりで勝てないタイガーマスク』という印象が強い」とし、日本人・外国人選手にしても相手は格上ばかりだったためどうしても受けのファイトになってしまったこと、また当時の全日本は両者リングアウトなどの不透明決着で終わる試合が多かったことで三沢の勝率も決して高くはなかったため、「その意味で三沢タイガーは気の毒だった」と述べている[74]。ただし、2代目タイガーマスクとして受けに回っている場面を多く経験したことで、「それは後の"不屈の三沢"を培ったと思う」と述べている[74]。
なお、全日本では「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため[† 16]、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス'84」といった具合に開発年がついている[75]。ちなみに、三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で夫人がマスクを脱がせる演出によって4年5か月ぶりに公の場で素顔となって正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行するという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている[68][76][† 17]。
1990年春、天龍源一郎が全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本は天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになり[77]、存亡の危機に晒された[78]。騒動の最中の5月14日、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」と感じていた三沢は[79]、この日の試合中(東京体育館、タイガーマスク&川田利明 vs 谷津嘉章&サムソン冬木)、パートナーの川田にマスクの紐を解くように指示して唐突に素顔に戻り、脱いだマスクを客席に向かって投げ入れた[80]。この試合から2日後の16日にはリングネームを「三沢光晴」に戻すことを発表し[81][† 18]、ポスト天龍に名乗りを上げた[77][83][84]。
三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成[83][85][86]。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴」と見られていた鶴田とのシングルマッチで勝利を収め[87]、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した[83][85]。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍の世代抗争は全日本の新たな名物カードとなった[88]。特に超世代軍は高い人気を獲得し、全日本に大きな収益をもたらした[89]。仲田龍(リングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア取締役)によると超世代軍は女性人気が高く、1993年に「超世代軍といくハワイツアー」を開催した際には、参加者143人のファンのうち140人が女性のファンだったという[89]。永源遙は、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであったと述べている[90]。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した[88]。
1992年7月、ジャンボ鶴田が内臓疾患で長期休養を余儀なくされたことによって超世代軍と鶴田軍の抗争は終了し[91][92][93]、同時に三沢は実質的なエースとなった[87]。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え、以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王[† 19]の一人として全日本プロレスの中心を担った[91][92][93]。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛[† 20][95]。1994年3月5日には全日本の象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった[96][97]。
超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない試合よりも、3カウントフォールによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった[98][99]。プロレス四天王の時代になると、三沢達は次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。馬場は三沢が川田と対戦した1993年7月29日の三冠戦について、「三沢と川田の勝因なんて、テレビ解説者として恥ずかしいが、高度な展開すぎて、俺にはわからないよ」と放送席でコメントし[100]、同じく川田と対戦した1997年6月6日の三冠戦は、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られている[101]。三沢自身はその中でも小橋との戦いを「持てる力のすべてを発揮し、極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており[102]、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった[103]。小橋は1997年1月20日に三沢の挑戦を受けた三冠戦の数日前に、母親に対して電話で「もし俺に何かあっても、決して三沢さんのことは恨まないでくれ」と伝えたことが知られている[104][† 21]。受け身の技術が向上していくのと並行して危険な投げ技の攻防が注目されるようになり[106]、このような大技を連発するプロレスは「王道プロレス」、「四天王プロレス」と呼ばれ[107]、プロレスファンの絶大な支持を集めた[106]。レフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという[108][109][† 22]。
全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍によると、1996年に三沢は元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をしたことがあったという[111]。これがきっかけで三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対して所属レスラーを代表する形で「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった[111][112]。
1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した[113][114][115]。ただし、馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった[116]。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、株式は三沢ではなく元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるように要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった[117][118][119]。
三沢がマッチメイクの権限を所有するようになってからはピンフォールによってのみ決着するスタイルは崩れ、リングアウトやギブアップで決着する試合が出るようにはなったものの[120]、三沢は1998年に当時秋山準と組んでいたタッグを解体して前座での出場が多かった小川良成とタッグを結成して世界タッグ王座を獲得、また中堅に埋もれていた大森隆男が主張を始め、フリーとして全日本に参戦していた高山善廣とタッグを結成してアジアタッグ王座を獲得、さらに四天王の戦いに秋山準が絡むようになり、こうした全日本の変化をマスコミは「三沢革命」と称した[114][121]。しかし、和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出したといい[119]、また仲田龍によると、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが要求され、新たな試みを行うことは一切禁じられたという[122]。三沢は会社の経費削減についても考えなければならず、巡業の際の移動手段や宿泊先なども変更を検討していたが、元子はこのようなことに関しても「馬場全日本の伝統を崩す行為」と捉えていたことで、三沢は会社の収支を考えなければならない一方で、「馬場全日本」の伝統とも向かい合わなければならない板挟みとなっていた[123]。
三沢は全日本の社長としてこうした環境を経験したことで、ノア旗揚げ後に上梓した自伝『船出』において、「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本退団を決意する原因になったと述懐している[124]。さらに三沢は経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本に対する不信感が募り、その結果プロレスそのものに対して愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになったとも述べている[124]。
2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された[122][123]。6月に入って東京スポーツが「三沢 社長解任」と報道し[125]、同月13日に三沢は定例役員会において取締役退任を申し出、これをもって三沢は全日本を退団することになった[122]。三沢は既に退団後に新団体を設立する構想を抱いており、16日に行われた記者会見において改めて全日本退団を発表すると、自身を含めて会見に同席したレスラー24人で新団体を設立することを宣言した[126]。当初の三沢の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本を退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼり[122][127]、スタッフも含めて50人近くの賛同者が出た[128]。一方、全日本への残留を表明した選手は川田利明、渕正信の2人に、当時留学生扱いだったマウナケア・モスマンを含めた3人だけだった[129][† 23]。
予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は仲田龍と共に資金繰りに苦しみ[130][131]、三沢は自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料に充てた[132][† 24]。その後、18日に催された「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」において、鶴田夫人の保子は今回の件について、「主人が生きていたら、三沢君の行動を支持していたと思います。でも、三沢君に全日本の名前を潰す権利はない」とコメントした[133]。
7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され[134][† 25]、三沢は記者会見において自身が目指す「理想のプロレス」について、「抽象的ですが、選手とファンがどっちも楽しめるプロレスを目指していきたいと思います」と語った[136]。8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われ、当日のチケットはわずか20分で完売し[137]、前日夜の時点で当日券を求める100人以上のファンが列をなし、前売券も完売した[137]。当日は三沢の指示で急遽会場外の駐車場に大型ビジョンを設置し、チケットが手に入らなかったファンのために無料で視聴できるサービスを展開し[137]、1300人が大型ビジョンで観戦した[138]。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、ノアの事務所と道場もここに置かれた[134]。
なお、三沢には全日本退団後に興行主(プロモーター)が主催する売り興行に出場する契約があったため、その興行主への配慮から7月に全日本の大会に4日間出場している。全日本所属選手として最後の試合となったのは20日の博多スターレーンでの試合となったが[139]、13日に愛媛県松山市のアイテムえひめで行われた試合では、試合を終えて退場する際に観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた[140][141]。これに対し三沢は「お前にとっての裏切り者ってどういうものなのか聞いてみたいよ[141]」、「オレの人生をその人が保証してくれるのか」と怒りを露わにした[142]。
仲田龍いわく、ノア旗揚げ後の三沢は常に体調が悪く、思うように練習ができない日々が続いた[143]。しかし、三沢はノア旗揚げ以降1度も試合を欠場せず[144][145]、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年にはGHCヘビー級王者として1年間防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビで第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝を果たした。
三沢は激しい試合の代償で視神経や脳神経にダメージが及び、全日本時代から思った通りに言葉が出ない、日中でも立ちくらみがするといった症状に悩まされていたが[72]、晩年は頸椎に骨棘と呼ばれる棘状の軟骨が増殖して下を向くことも後ろを振り向くことも困難になり[146][147][† 26]、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化した[† 27]。頚部は歯を磨く、ガウンの襟の部分が当たる[151]、寝返りを打つ[152]だけで痛みが走る状態にあり、さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた[153][154]。この頃の三沢は周囲に「辞めたい」「引退したい」と口にすることが多くなっていたが[147]、生前の三沢と親交があった徳光正行によると、一度自ら休養することを進言したことがあったが、その時に三沢から次のように反論されたという。
地方に行くとタイガーマスクだった三沢、超世代軍で鶴田と戦っていた三沢―つまりテレビのプロレス中継が充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年に1回しか地元に来ないプロレスの興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う? — 徳光2010、203頁。
2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と吐露していた[153][† 28]。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された[153][155][156][157][158][159]。46歳没。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「試合を止めるぞ!」と問い掛けた際に、かすかに「止めろ…」と応じたのが最後の言葉となった[160]。
翌14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断であると発表した[161]。
週刊ゴング元編集長の小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示している[162]。週刊プロレス編集長(当時)の佐久間一彦は、「本当に普通のバックドロップで、技にも受け身にもミスがなかった。あれは危ないシーンではなかった」と証言し、一連の連続写真は佐久間の判断で週プロにも掲載された[163]。一方でプロレス関係者やファンの中には、三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり[164]、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者もいた[165]。前田日明は「不運な事故ではない」と明言し、「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」という証言を伝えている[166]。一方でザ・グレート・カブキは、三沢の首に激しい試合によってダメージが蓄積されていたことを認めつつも、「(バックドロップでマットに叩きつけられて)首がいったくらいで即死はないと思うんですよ」とし、齋藤に体を持ち上げられた瞬間に心筋梗塞がきたのではないかと推測している[167]。蝶野正洋は当時の三沢の体調面の問題だけでなく、「(2005年に亡くなった)橋本(真也)選手のように、経営者としての心労が大きかったのではないか」と思ったといい[† 29]、加えて試合と治療に追われて身体を休めることができなかったことで、過労死のような形に近かったと受け取っていると述べている[168]。
6月19日に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した[169]。法名は「慈晴院雄道日光」[170]。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選出となった[171]。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったのかもしれないと推測した[171]。同日には日テレジータスが約4時間の追悼特番を編成するなどし[172][173]、ノア中継から撤退していた地上波の日本テレビでも追悼特番が献花式後の深夜に放送された[174][175]。なお、最後の試合になったGHCタッグ選手権試合はFIGHTING TV サムライが収録していたが、試合前のシーンを除きお蔵入りとなった[172]。
7月4日にはディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、会場にはプロレス関係者や徹夜組のファンなどを含めて約26,000人が参列した[176][177]。会場に詰め掛けたファンが作った列は最寄りの有明テニスの森駅から始まり、市場前駅を通過し、次の新豊洲駅のさらにその先まで3kmもの列をなした[177]。かつて全日本プロレスのファンであったルポライターの泉直樹は、この現象について以下のように述べている。
そこまで多くのファンが集まったことに私は驚いた。そのうちの何割かは私と同じようにすでにプロレスから遠ざかっているはずだ。そうでなければ、2万5000人ものファンが会場に駆けつけるはずもない。だが、あの当時の会場の熱狂的な雰囲気を覚えている者からすれば、これだけの人数が三沢との別れを惜しむのも当然、という思いもあった。 プロレスから離れた元ファンが大挙して駆けつけたのは、プロレスから離れた者として「自分が見放したから、今回のような事故が起こった」という罪の意識があったのかもしれない。その感情はもちろん、私自身の中にもあった。 — 泉2010、23頁。
三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行『GREAT VOYAGE '09 〜Mitsuharu Misawa,always in our hearts〜』が9月27日に日本武道館で[178]、10月3日に大阪府立体育会館で[179]行われた。
三沢の死の翌日(14日)には、大阪プロレスにおいてレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6月18日に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者からNOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が、自民党からは同部会長の衆議院議員・馳浩が出席した[180]。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した[180]。
(同年7月極秘帰国し、タイガーマスクに変身)
三沢は「受け身の天才」と評される[210]。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている[211]。
一方で三沢は、2004年に上梓した著書『理想主義者』において、受け身をとりきれない技が多くなっていると述べており[212]、受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げていた[213]。また、三沢は同書において近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた[214]。上述のように「天才」と称されるほど受け身において高い評価を受けていた三沢がリング禍によって死去したことは、世間に大きな衝撃を与えるものであった。
三沢は受け身の巧拙について、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかると述べている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる[215]。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている[213]。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)[215]。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている[215]。
渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評しており[113][216]、三沢の首筋の下は非常に柔らかかったと述べている[216]。秋山準は「三沢の受け身はどの点が上手いか」という問いに「例えば頭から落とされた時は手からつくんです。かばい手でダメージを逃していました」と答えているが[217]、「手だけでは限界がありますから、首や肩も使わなければならない。それが原因で、三沢さんも首と肩を悪くしていきました」と述べている[217]。丸藤正道は三沢の受け身の中でもアームドラッグの受け身について「三沢さんがズバ抜けて巧かったです。あの体の大きさで、あれだけの受け身を取れるのは」と評している[218]。
レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている[211]。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている[219]。
一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった[220]。ただし、全日本の社長に就任して以降はジャイアント馬場が禁じた舌戦などリング外での話題作りを容認した[221]。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した三冠戦の試合後に、退場する小橋に「小橋、ありがとう」と叫んだ時のことであった[222][223]。ただし、三沢はタイガーマスク時代に一度だけ試合後のリングへ乱入したことがあり、それは1988年に行われた「猛虎七番勝負」の最終戦・ジャンボ鶴田戦を4日前に控えた秋田大会で、ジェリー・オーツを相手に勝利を収めた鶴田に攻撃を加えるというものだった[224]。
徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛を掴んで行おうとすることを「下品だ」と嫌っていたという[225]。
三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている[226]。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている[227][† 33]。
三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許可した[229][230]。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、「技の繰り出し方が上手い」と評している[230]。
緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツ[† 34] を着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多いが[95]、週刊ゴング主任の佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった[190]。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある[190]。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した[95]。
三沢は本当によく頑張っていますよ。三沢は性格的にも物凄いものを持っています。絶対に不平不満は言わないし、何回も怪我を克服して伸びてきたのは精神力の強さですよ — ジャイアント馬場[232]
全日本での若手時代にはジャンボ鶴田の付き人を務めたが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかった[233]。徳光によると、これは三沢自身が新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという[234][† 35][† 36]。丸藤正道によると三沢は「基本的に自分のことは自分でやる人」だったといい、プロレス・私生活に関してもあれこれ言われたことはなく、付き人時代に一緒に食事に行った際もプロレスの話は絶対にしなかったという[240]。後輩に対しても先輩風を吹かせたりことさら厳しくせず、小佐野景浩によると酒席では他の先輩に飲まされて酔っぱらった浅子覚や井上雅央に対して「無理しなくていいよ。酒は楽しく飲まなきゃ!」とよく言っていたという[241]。
冬木弘道は三沢の人間的な魅力について、「何をするってわけでもないんだけど、女のほうから寄ってくるんだよね。あれは持って生まれた人間の器だと思うよ。若いころから大将の器を持っていたと思う」と評する一方で[242]、「大人しい温厚な男に見えるし、実際もそうなんだけど、いざとなったら凄いよ。ある一線を超えたら三沢は体を張るし、いつでも体を張れるレスラーだよ」とも述べている[232]。冬木は三沢のそうした人柄を表す逸話として、若手時代に地方の会場でヤクザと揉め事になったことを明かしている[243]。冬木によると、ヤクザは"完全に頭に血が上っている"状態で、三沢に対して「テメエ殺すぞ!」と言ってきたのに対し、三沢はそれに動じることなく「殺せるもんなら殺してみろ!」と言い返したといい[232][243]、冬木は相手に謝ることと三沢をなだめることの両方で大変だったというが、三沢は「いや別に殺すなら殺せばいいんだよ」と言って一切引かなかったという[232]。この出来事から冬木は、「コイツとは絶対にケンカしちゃダメだってのがわかるんだよ。三沢は本当のケンカになったら、最後の最後、息の根が止まるまでやる根性があるってわかるから」、「むやみやたらに凄んでる奴よりも、本当は三沢みたいな男のほうが怖いんだよ」と述べている[243]。
三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語る逸話として、冬木弘道の引退興行が挙げられる[244]。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった[245]。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが、三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002年4月7日にシングルマッチで対戦した[242]。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した[242]。当初冬木は9日の冬木軍興行での試合を引退試合にするつもりで試合後記者会見を行ったが、この事実を知った三沢は急遽6日後のディファ有明を押さえてノアの主催で引退興行を行い、5月5日に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行(川崎球場)にも全面的に協力[246][247]。同大会のチケットは全て当日券で発売されたものの、当日はZERO-ONEの所属選手や大仁田厚が参戦したこともあって超満員の観客を動員する大成功を収め[248]、三沢はその収益の全てを冬木に贈った[247]。徳光正行によると、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と語ったという[249]。
新日本プロレス初参戦となった2002年5月2日の東京ドーム大会、対蝶野正洋戦が実現するまでの経緯についても、蝶野が2019年に小橋建太との対談で明かしている[250]。2002年2月、新日本の札幌大会(北海道立総合体育センター)において、蝶野はアントニオ猪木から突如現場監督に指名された[250]。当時の新日本は武藤敬司が中枢社員らを引き連れて全日本へ移籍した直後で経営面で危機的状況に陥り、3月になっても当日の対戦カードは決まらずチケット販売も行われていなかったため、当日試合を中止する可能性もあった。その中で蝶野は三沢に対して「急な話で本当に申し訳ないけど、ウチのドームで自分と一騎打ちをやってほしい」と電話を入れた。この時点で新日本は一週間の内に三沢から電話がなかったら当日の大会を中止する意見で一致していたが、電話から30分後に三沢は「いいよ、やるよ」と蝶野に折り返しの電話を入れ、出場を快諾した。蝶野は当時を振り返り、「あんな短時間だから、たぶん周りには聞かず、社長の一存で決断してくれたんだと思う」、「本来のノアにとって新日本は競合団体なんだけど、プロレス界全体のことを考えて決断してくれたんだと思う」と述べ、小橋は「三沢さんはちゃんとスジを通す人だから、その30分の間に日本テレビに話したかもしれないです。でも、蝶野さんを待たせちゃいけないっていう男気もあって、すぐ動いたんでしょうね」と述べている[250]。この件で蝶野は「業界全体を考えたマッチメイクを返さなきゃいけない」と思うようになったといい、翌2003年5月の新日本東京ドーム大会では、当時のGHCヘビー級王者であった小橋に自身との選手権試合を行うオファーをし、これを実現させている[250]。
仲田龍は、三沢を「損得勘定で動かない人間[244]」、小佐野景浩は「人に左右されず、しっかりと自分というものを持ち、自分自身の判断で人付き合いをする男だった[251]」と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した[252]。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している[253]。元週刊ゴング記者の鈴木敦雄によると、1994年にUWFインターナショナルが『94プロレスリング・ワールド・トーナメント』の開催を発表し、そこで自身が招待されて優勝賞金1億円が出されることを知った三沢は、「俺が十何年間、全日本プロレスで頑張ってきたのが無になっちゃう。怒るというより呆れたね」、「ファンは観たいかもしれないけど、それをしたら全日本が好きで観に来てくれるファンを裏切ることになるよ」と怒りを露わにしたという[254]。
没後10年を前に三沢の最後の試合で、バックドロップをかけた齋藤彰俊がLINE NEWSの取材に応じ、三沢が事故の2年前に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」と親しい友人に託した手紙を受け取っていたことを明かした。「重荷を背負わせてしまってスマン」「きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う」「それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない」「それでも、お前にはプロレスを続けてほしい」「つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と対戦相手が自らを責めることを予見した内容で、自殺も考えた齋藤は10年たった今もその手紙を巡業用のバッグの中にいつもいれているという。あまり人に見せたことはないものではあったが、節目での公開であった[255]。
2代目タイガーマスクとして覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった[231]。また、額の汗を指を使ってぬぐう癖があった[231]。
三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった[10]。母親は暴れる夫から子供たちを守るために2歳年上の兄と光晴を連れて近所の公園に避難し、いつでも逃げられるように靴や毛布をすぐに持ち出せる準備をしていた[7]。父は兄のことは可愛がり、決して自分に懐こうとしない次男の光晴のことは疎んじていた[256]。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたといい[7][257][258]、自身が酒を飲むようになってからは、父親のような酔い方はしたくないと思うようになった[257]。三沢は「家族4人がそろって飯を食ったという風景がない」といい、父親に対しては「よくうちに来るやつ」「酔っぱらってうちに来るやつ」という印象しかないという[259]。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった[260]。高校時代の同期の渡辺優一によると、1年生時の練習終わりに道場の外にあるトレーニング室で三沢が涙を流していたことがあり、心配した渡辺が声をかけると、三沢は「いや、母ちゃんのこと思い出しちゃってさ」と言ったという[261][262]。プロレスリング・ノアを旗揚げした時期には父親に対して、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露していた[263]。
徳光正行によると、三沢はヒーローものが好きで、三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった[264]。カラオケに行った際もヒーローものの曲やアニメソングを好んで歌い、丸藤正道によると十八番は「ウルトラマンレオ」と「新造人間キャシャーン」だったという[265]。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という[266]。イラストを描くのも得意で、中学時代に人気だった漫画『タイガーマスク』を描くのも上手だった[267]。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという[268]。
学園もののテレビドラマが好きで特に「スクール☆ウォーズ」、「3年B組金八先生」、「GTO」、「ごくせん」が好きだった[269]。2008年にテレビドラマ、2009年に映画が公開された「ROOKIES」に関しては、潮崎豪に勧めるほど熱中していた[269]。またノアの巡業バスにはモニターが備え付けられていたため移動中はこれで映画を見ることが多く、特にジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ[269]。
動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを飼っていた[270]。
スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた[270]。
1999年、交友関係があった一世風靡セピアの武野功雄の結婚披露宴に天龍源一郎や全日本所属レスラーらと出席した際、三沢が下品な内容の祝辞を延々と述べたり武野の女性遍歴を暴露した[271]、天龍が武野の父親の頭を振りまわすなどした[272]ことに激怒した柳葉敏郎とにらみ合いとなったということが伝えられている。天龍と柳葉をなだめていたという哀川翔は伝えられている内容を大筋認めているものの[273][274]、披露宴に同席した目撃者の女性によると伝えられている内容と事実が違うと明かしている。その女性曰く、実際は酔っぱらった柳葉と哀川が一方的に暴れだし、哀川が「俺がタイガーマスクになる予定だったんだ」と言って近くにいた当時の若手レスラーに凄み、柳葉は酩酊状態でグラスを床に落としながら「プロレスなんて強くない、俺がみんなぶっ飛ばしてやる」と叫んで一方的に突っかかっていこうとしていたところを天龍がなだめていたといい、また三沢が下ネタを言っていた時には揉め事にはなっていなかったと述べている[275]。徳光正行によるとこの後二次会が予定されていたが、三沢は酔い潰れてしまったため参加しなかった。三沢が酔い潰れて飲み会をキャンセルしたのはこの時のみだけだったという[271]。
ノアの興行で募金活動を行う[276] など、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった[276]。