みつだ けん 三津田 健 | |||||
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本名 | 満田 健児(みつだ けんじ) | ||||
別名義 | 高須 健児 | ||||
生年月日 | 1902年4月29日 | ||||
没年月日 | 1997年11月28日(95歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市牛込区矢来町[1](現在の東京都新宿区) | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||
活動期間 | 1931年 - 1995年 | ||||
配偶者 | 各務伊佐子(長女) | ||||
主な作品 | |||||
映画 『生きものの記録』 / 『世界詐欺物語・日本篇』 舞台 『女の一生』 『シラノ・ド・ベルジュラック』 | |||||
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三津田 健(みつだ けん、1902年〈明治35年〉4月29日 - 1997年〈平成9年〉11月28日)は、日本の俳優。本名は満田 健児(みつだ けんじ)。別名に高須 健児。
文学座創立メンバーの1人であり、杉村春子と並んで同劇団の中心的俳優[2]として亡くなるまで在籍した。同座公演『シラノ・ド・ベルジュラック』では、初演以降141回もシラノを演じ、「シラノ役者」として知られた[3][4]。映画、テレビドラマにも脇役で活躍。同劇団内などでは「おとうちゃん」の愛称で呼ばれていた。
1902年(明治35年)4月29日、東京府東京市牛込区矢来町(現在の東京都新宿区)に生まれる。4男1女の5人兄妹の末っ子で、父は英語教師をしていた[3]。1920年(大正9年)、東京府立第四中学校を卒業後、第一早稲田高等学院に入学するが、長兄の反対に遭って退学し、家出して東京駅の改札係になる[3]。翌1921年(大正10年)に長兄と和解し、杉浦重剛の称好塾を経て同校に再入学する[3]。
1924年(大正13年)、早稲田大学文学部英文科に入学[4]。1926年(大正15年)に投身自殺と服毒自殺を図るが、2度とも未遂に終わっている[3]。1927年(昭和2年)、劇作家を志して大学を中退、地球座に加入し、高須健児を芸名とする[4]。旗揚げ公演の『戦争の蠅』に出演し、加藤長治に師事した[3]。
1930年(昭和5年)、尾上菊五郎が創設した日本俳優学校予科に入学[3][4]。同期に植村謙二郎、里木佐甫良、山形勲らがいる。翌1931年(昭和6年)、日活太秦撮影所現代劇部に入社し、村田実監督の『海のない港』に本名で出演し映画デビューを飾った。やがて大部屋生活に飽き足らなくなり[3]、日本俳優学校本科に再入学した[4]。1935年(昭和10年)、俳優学校卒業と同時に日本俳優学校劇団に入った。
1937年(昭和12年)、杉村春子らと文学座の創立に参加し、芸名を三津田健とする。1940年(昭和15年)5月に同座運営委員、同年12月に代表者となった[3][5]。戦中は移動演劇隊の隊長として地方を巡演し、1945年(昭和20年)5月から9月にかけて劇団ごと石川県小松市に疎開する。戦後は1960年(昭和35年)に同座理事、1962年(昭和37年)に常任委員となり、文学座を支えた[3]。舞台では、『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノ役の演技が有名で、1951年(昭和26年)の初演以降141回も公演が行われた。その他『女の一生』の章介、『十三夜』の斎藤主計、『大寺学校』の光長などの当たり役がある[3]。
映画にも早くから出演しており、渋谷実監督の『やっさもっさ』を始め、今井正監督『にごりえ』、溝口健二監督『山椒大夫』、木下惠介監督『楢山節考』などで地味な脇役を演じたが、日伊仏蘭合作のオムニバス映画『世界詐欺物語』の日本篇では、見せ金で女をひっかけようとして、餅をのどにひっかけて死ぬケチな老作曲家[4]役で主演した。
高齢になっても演劇活動は衰えず、晩年は演劇界最長老[2]の俳優として、1995年(平成7年)まで舞台に立った。晩年期は別役実作品に多く出演し、1987年(昭和62年)の『ドン・キホーテより 諸国を遍歴する二人の騎士の物語』では当時85歳ながらも、元文学座座員だった中村伸郎とW主演し、芸術祭賞と紀伊國屋演劇賞を受賞した。
1997年(平成9年)11月28日午前8時7分に脳梗塞のため死去(享年95歳)[6]。