この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
| |
生年月日 | 1869年10月31日 |
出生地 |
日本 長州藩佐波郡江泊村 (現:山口県防府市大字江泊) |
没年月日 | 1938年7月30日(68歳没) |
死没地 |
日本 東京府東京市芝区高輪南町 (現:東京都港区高輪) |
出身校 |
山口高等中学 帝国大学法科大学法律学科 |
称号 |
正五位(1906年) 勲三等瑞宝章(1910年) 大礼記念章(1915年) 勲二等瑞宝章(1916年) 第一回国勢調査記念章(1921年) |
在任期間 | 1918年9月21日 - 1935年12月14日 |
第11代 台湾総督 | |
在任期間 | 1926年7月16日 - 1928年6月16日 |
在任期間 | 1935年12月9日 - 1938年7月30日 |
上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869年10月31日(明治2年9月27日) - 1938年(昭和13年)7月30日)は、日本の官僚、政治家。農商務次官、台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官。また、郷里では、旧藩主毛利敬親、毛利元徳の伝記編纂所の所長として携わり郷土史研究の出版や史跡跡保存事業などにも私費を投じて、支援を行った。防府市立三哲[1]文庫(現・防府市立図書館)として開館したさせたことから、防府図書館の父と呼ばれている
周防国(後の山口県佐波郡江泊村、現・防府市大字江泊)出身。庄屋格・上山与左衛門の二男として生まれる。周陽学舎)、山口中学、山口高等中学を経て、1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省県治局勤務となる。1895年11月、文官高等試験に合格。同年12月、青森県参事官に就任し、同県内務部第1課長を経て、1896年(明治29年)5月、山口県参事官に転じた。1897年(明治30年)12月、同県内務部第3課長に異動。
1898年(明治31年)12月、法制局参事官に就任し同第1部勤務を経て、1906年(明治39年)10月、行政裁判所評定官兼法制局参事官に就任。1908年(明治41年)8月、農商務省に転じ山林局長となる。1912年(大正元年)12月、熊本県知事に就任し、1913年(大正2年)6月まで在任し休職した。1914年(大正3年)4月、農商務次官となり、1918年(大正7年)10月、寺内内閣の総辞職に伴い次官を辞した。
1918年(大正7年)9月21日、貴族院勅選議員に任命され[2]、同和会に属し1935年(昭和10年)12月まで活動した。 1926年(大正15年)7月16日、第11代台湾総督に就任[3]。1928年(昭和3年)6月、台中不敬事件により台湾総督を辞任。1935年(昭和10年)12月、枢密顧問官となり、1938年(昭和13年)7月まで在任した。
晩年は、生まれ故郷に図書館を建てることを計画。資金や蔵書を寄付するが、工事が遅延した為に図書館の完成を待たずに1938年(昭和13年)に病没。子の上山勝と甥の小野幸吉が図書館建設の意志を引き継ぎ、1941年4月1日に引き継がれ、防府市立三哲[1]文庫(現・防府市立図書館)として開館した。その後、防府市立図書館が移転したため、三哲文庫跡地は公園となって記念碑が建てられている。
公職 | ||
---|---|---|
先代 橋本圭三郎 |
農商務次官 1914年 - 1918年 |
次代 犬塚勝太郎 |
先代 中村雄次郎 長官 |
製鉄所長官心得 1914年 |
次代 押川則吉 長官 |