上川郡(かみかわぐん)は、北海道(石狩国)上川総合振興局の郡。
人口49,140人、面積2,723.4km²、人口密度18人/km²。(2024年9月30日、住民基本台帳人口)
以下の8町を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記8町に旭川市を加えた区域にあたる。
郡名は石狩川の上流部にあたることから命名。北隣の天塩国上川郡とは塩狩峠で、東の十勝国上川郡とは大雪山系でそれぞれ隔てられている。
江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属する松前藩領となっており、石狩十三場所の範囲に含まれた。田沼意次時代の天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた、と書いている[1]。
江戸時代後期になると、国防上の理由から文化4年上川郡域は公儀御料(幕府直轄領)とされた。文化8年(1811年)幕吏間宮林蔵は上川郡域を調査。文政4年には一旦松前藩領に復した。安政2年再び公儀御料(幕府直轄領)となり、上川郡域付近まで幕府(箱館奉行)によって置かれた石狩役所の所管となる。警固は庄内藩がおこなった。松浦武四郎は安政4年と安政5年上川郡域を調査、安政4年の案内役アイヌ・ヒヤテキの父親は間宮林蔵の調査に同行しているという。
このころ松田市太郎や松浦武四郎らによって層雲峡温泉が発見されている。
戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して上川郡が置かれた。