中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家[1]。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。
和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。
紀伊半島(紀伊)を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上は被差別部落の出身で、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」[2]とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
主要作品に『枯木灘』(毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞)『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『奇蹟』などがある。
1992年、腎臓癌の悪化により46歳の若さで死去した[1]。
和歌山県新宮市で父、鈴木留造(とめぞう[3])と母、木下ちさと[3](千里)[4]との間に私生児として生まれた[5]。ちさとは、健次を妊娠中に、ある女性から、留造には他に女が二人いてそのうちの一人は妊娠しているという事実を知らされる。ちさとは留造と別れて一人で健次を産んだ[6]。留造はこの女性と結婚し、この女性は健次の異母弟を産む。留造はこの女性との間にさらに二児をもうけた[注釈 1]。
ちさとには死別した前夫の木下勝太郎との間に既に四人の子供がおり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる。1953年、ちさとは、後に健次の義兄となる男児と二人で暮らす中上(なかうえ)七郎と出会い、まだ7歳と幼かった末子の健次だけを連れて同居、四人での生活をはじめた。七郎はこの頃は日雇いの土木作業員であったが、のちに土建請負業者になる。
1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。1959年、小学六年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平(いくへい[11])が24歳で、アルコール中毒の果てに縊死するという事件が起こる。行平は、ちさとと健次が中上七郎と暮らすために引っ越した後、もとの家に一人残され、鶏を飼いながら孤独に暮らしていた[12]。見捨てられたと感じていた行平は、酒に酔っては斧を手にして、健次たちの家に何度もどなり込んできたという[12]。行平の自殺は健次の大きなトラウマとなった[注釈 2][注釈 3]。
1962年、中学校卒業の直前、ちさとと健次は、七郎のもとに入籍する[17]。同年、和歌山県立新宮高等学校に入学する。マルキ・ド・サド、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、ジャン・ジュネなどを読む[注釈 4]。また、当時新進作家だった大江健三郎[注釈 5][注釈 6]や石原慎太郎などの日本人作家の作品も読んでいる[27][28][注釈 7][注釈 8]。
1965年、早稲田大学受験の名目で同級生とともに上京するが、実際に大学受験をしたかどうかは定かではない[36]。その後入学した早稲田予備校には三ヶ月も通っておらず[38]、仕送りを受けながら、仕事もせずに、新宿あたりをうろつくといった生活をしていた[注釈 9]。当時盛んだったフリージャズを中心とするモダンジャズにのめりこみ、ジャズ喫茶のジャズビレッジ[注釈 10] やビレッジバンガード[注釈 11]に入り浸った[注釈 12]。
1965年の秋、原稿を投稿するために月会費を払い込んで同人誌『文藝首都』[注釈 13]の会員となる。翌年、投稿した『俺十八歳』が掲載される[注釈 14]。その後、同誌の同人となりエッセイ、創作を同誌に発表していく[注釈 15]。この頃は、盛んに詩作をしており『文藝首都』『詩学』『文學界』などへ詩を発表している[34][注釈 16]。また『文藝首都』を通じて、後に妻となる山口かすみ[注釈 17] や津島佑子[注釈 18]と知り合っている。
1967年頃には新左翼運動に関わっている[56]。偽学生として早稲田大学でブント系の組織と接触して羽田闘争に参加している[31][57]。1968年、『三田文学』誌を通じて柄谷行人 と知り合い[注釈 19][注釈 20] 、柄谷からウィリアム・フォークナー[注釈 21] 、エリック・ホッファーなどを勧められて大きな影響を受けた。1970年、交際していたかすみの妊娠を機に結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する[注釈 22]。結婚をきっかけにして、中上は肉体労働を始め[63]、その夏から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する[34][64][注釈 23]。
1973年『十九歳の地図』が芥川賞候補となる。これを受けて1974年から文芸誌への作品掲載が増え始める[注釈 24] 。羽田での仕事を辞めて、その後二年間、築地魚河岸や運送会社などでフォークリフトの運転手をして生計をたてながら[34][67]執筆を続ける。1975年『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年、熊野の「路地」を舞台に、家業の土方仕事に従事[注釈 25]する青年を中心とした複雑な血族の物語を描いた『岬』[注釈 26]で第74回芥川賞を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。
1976年『岬』の続編として、自身初の長編小説で代表作となる『枯木灘』を上梓する。本作は『岬』の土着的世界に、父と子の対決という構図を前面に出してオイディプス的な神話的相貌を与え、また雑賀孫一伝説を取り入れ歴史的な重層性を持たせることで、格段にスケールを大きくした作品で、高い評価を獲得した。同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞する。1977年、紀伊半島全域を旅して巡るドキュメント『紀州 木の国 ・根の国物語』[注釈 27]を『朝日ジャーナル』に連載する。この旅行は作家にとって自らの文学の背景である紀州熊野というトポスを再発見する機会であった。同年、ニューヨーク、ハーレム地区に滞在する[71][72]。1978年、郷里の文化振興のため、吉本隆明[注釈 28] らを招いた連続公開講座を開催する[75]。
1979年、一家でロサンゼルスへ移住する[76][77][78]。1980年、実母をモデルにした小説で『岬』の前日譚にあたる『鳳仙花』を発表する。1981年、ソウル汝矣島に滞在し金芝河ら韓国の文学者と交流する[79]。1982年、「淫蕩な歌舞音曲好きの澱んだ血」[80]筋により愉楽に満ちた生を送り、一方で引き換えに早死にも宿命づけられた、高貴な血を引く若者たちの短い生涯を描いた短編連作『千年の愉楽』[注釈 29] を発表する。代表作の一つとされる。同年、アイオワ大学インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワに滞在してプログラムに招聘された世界の文学者と対話する[82]。
1983年、『岬』『枯木灘』の続編にあたる書き下ろしの大作『地の果て 至上の時』[注釈 30]を発表する。本作と連作短編集『熊野集』(1984年)では,自身の文学的トポスである「路地」の経済開発による消滅が主題とされた[注釈 31][注釈 32]。続く1984年発表の長編『日輪の翼』[注釈 33][注釈 34][注釈 35]では「路地」の消滅後に、故郷を捨てて流浪する若者の姿が描かれた。1986年、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに滞在している[87][注釈 36]。1988年、三島由紀夫賞が創設され[注釈 37] 選考委員となる。1989年、『千年の愉楽』の続編となる長編『奇蹟』[注釈 38]を発表する。同年、地元文化交流の組織である「熊野大学」の開設 [93]をする。
1990年、『日輪の翼』の続編となる『讃歌』を発表する。1990年に永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している[94][34]。
1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。
作家として多忙をきわめ、それまでの「路地」を主題とした作風からの転換を示す『軽蔑』を上梓した矢先の1992年夏、腎臓癌のため和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内の日比病院で死去した[注釈 39]。連載または休載中だった『異族』『鰐の聖域』『熱風』『大洪水』[注釈 40] 『宇津保物語』などが未完となり、『異族』[注釈 41]『鰐の聖域』が没後刊行された(それ以外の未完作品は全集にのみ収録されている)。
没後、1995年〜1996年に集英社から柄谷行人、浅田彰、四方田犬彦、渡部直己を編者として全集(15巻)が刊行された。その後、1998年〜2000年に小学館より文庫選集(12巻)が刊行された。2012年〜18年、インスクリプトより選集(10巻)が刊行されている。2016年〜17年、小学館より電子書籍として中上健次電子全集(21巻)が刊行されている。
2023年、岩波文庫より『中上健次短編集』が刊行された。
現在も「熊野大学」主催による「熊野大学夏季セミナー」が毎夏に新宮市で開催されている。講師には、柄谷行人、浅田彰などが参加している[34]。受講生にはモブ・ノリオなどがいた[95]。
- 豊富な素材
- 自身の境遇について、作家としての素材を豊富に持つと自負していた。実際、多くの作品において言及される異父兄の自死、『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』に描かれる複雑きわまる血縁関係[96][97]、『蝸牛』『岬』で取り上げられた姻戚の間で生じた殺人事件[98]、『千年の愉楽』『奇蹟』において狂言まわしとなる産婆オリュウノオバ[100]や『奇蹟』において非業の死を遂げる主人公のヤクザ者タイチ[101]の存在等は事実をもとにしている。
- 犯罪事件への関心
- 自身の親族に関すること以外で、中上の創作のインスピレーションの源となったものとして大きなものは、現実に起きた三面記事に記載されるような犯罪事件である[注釈 42]。小説『蛇淫』の主人公の青年による親殺し[102]、『地の果て至上の時』の新興宗教の儀式により親族内で生じた死体遺棄[103]、『火まつり』で描かれる猟銃による一家全員殺害[104]は現実の事件を参考にしている。
- 執筆スタイル
- 無名時代は肉体労働のかたわら、作家としての成功後も喫茶店などを書斎代わりにして[105]、執筆をおこなった中上が、原稿用紙のかわりに、持ち運びの容易な集計用紙をもちいて執筆をおこなっていたことはよく知られている。中上によると集計用紙一枚が、原稿用紙五枚から七枚の分量に相当するという[106]。升目の無い集計用紙に、改行や空白も設けず、独特の字体の文字がびっしりと埋めつくされた原稿の見た目は異様な迫力を有している。死後すぐに編纂された集英社版全集の見返しの装丁(菊地信義による)に使われた[注釈 43]。
- 酒豪
- 中上は酒豪として名を馳せた。酒乱の気味もあったようで酔って暴れることもあったという。酒乱のエピソードはエッセイで自嘲的に綴られたり[107][108][109]、私小説的な作品(『火宅』『楽土』など)に題材として取り入れられた。西新宿に仕事場を構え、ゴールデン街や新宿二丁目の文壇バーなどに足繁く通った。夜の新宿の盛り場は、後期の作品『讃歌』『軽蔑』の舞台になっている[110]。
- 幅広い交友
- 人的な交流は幅広く、作家や批評家以外にも、文化人(例:坂本龍一[注釈 44] 、唐十郎など)、芸能人(例:都はるみ、ビートたけし、宇崎竜童など)、学者(例:阿部謹也、中村雄二郎、上野千鶴子など)らと時代や世相、思潮、文化、歴史など多岐のジャンルにわたる対談、座談を数多く行った。それらのほとんどはのちに発言集、対談集に編纂されている。
- 多彩な活動
- 中上は単なる純文学の作家であることにとどまらず、文化的な寵児であった[注釈 45]。次のように、多様なやり方で作品を発表している。映画『火まつり』(1985年) においては、自作脚本を映画化するとともに、インタビュー本(『火の文学』)、原作小説(『火まつり』)を出版するというようなメディアミックスの試みをおこなっている[注釈 46][注釈 47]。小説『物語ソウル』、エッセイ『輪舞する、ソウル。』では、それぞれ、写真家の荒木経惟、篠山紀信とのコラボレーションをおこなっている。野外劇のための台本『かなかぬち ちちのみの 父はいまさず』を外波山文明[注釈 48]のために書き下ろした[注釈 49]。本作は1979年浅草稲村劇場での初演以降、場所を変えて何度も上演された。1986年には故郷の熊野本宮大社での上演が行われている[116]。また、文芸誌にとどまらず若者向けの週刊誌や情報誌への連載を旺盛におこなっている(1978年『週刊プレイボーイ』誌 『RUSH』[注釈 50] 、1984〜85年『BRUTUS』誌『野性の火炎樹』、1984〜85年『平凡パンチ』誌『Heat Up』[注釈 51]、1986年『Hot-Dog PRESS』誌 『KENJI' S MAGICAL TOUR IN U.S.A.』[注釈 51] 、1990〜92年『週刊SPA』誌『大洪水』)。中上は海外渡航や滞在も多かったが、その見聞は多数のエッセイ(『America, America』『輪舞する、ソウル。』『スパニッシュ・キャラバンを捜して』[注釈 52] など)、創作(『町よ』[注釈 53] 『物語ソウル』『野生の火炎樹』『火ねずみの恋』[注釈 54] など)の素材ともなった。
- ニューアカデミズムとの関係
- 中上の文学を高く評価した批評家である柄谷行人、蓮實重彦と交流[注釈 55][注釈 56] があったこともあり、1980年代に流行した思潮であるニューアカデミズムに大きな関心を示し、言及も頻繁におこなっている[118][119][120]。ニューアカデミズムに属するとされる思想家(山口昌男[注釈 57] 、栗本慎一郎[123][124][125][注釈 58] 、四方田犬彦[126][注釈 59] など)との活動や対話もおこなった。1986年にはパリ、ポンピドゥ・センターで開かれた「前衛の日本 」展に柄谷行人 、蓮實重彦、浅田彰と参加し、ポスト構造主義の思想家ジャック・デリダと公開対談をおこなっている[128]。
- 音楽への関心
- 中上と音楽との繋がりは深い。最初に音楽に出会ったのは中学生の頃、コーラス部に所属したことである。クラシック音楽に目覚め、その道に進みたいという希望もあったが、両親の理解が無く断念している[129]。高校を卒業して上京すると高校の先輩が経営しているジャズ喫茶でジャズに開眼し、シャズ喫茶に入り浸るようになった。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラー等を愛好した[130]。中上はジャズに関するエッセイを多く物しており、それらは現在では『路上のジャズ』に纏められている。『紀州 木の国 ・根の国物語』取材の頃ボブ・マーリーの「エクソダス」のプロモーションテープを送られたことでレゲエを知り熱中する[131]。1980年にはボブ・マーリーにインタビューを行い、「週刊プレイボーイ」に掲載された[132]。エッセイ集『バッファロー・ソルジャー』のタイトルはボブ・マーリーの同名曲から取られている[133]。中上は夜の酒場では主に演歌を歌った[134]。歌手都はるみとはファンが高じて、雑誌『月刊カドカワ』の取材で対談し[135]、その後も親交を持った。都はるみについての本を二冊(『天の歌 小説都はるみ』『都はるみに捧げる』)執筆し、コンサート(1991年 都はるみ in熊野神社)のプロデュースも行なった。1980年代に韓国に取材したおりに、音楽集団サムルノリを知り、その音楽性の高さに衝撃を受けた。多数のエッセイで熱心に紹介している[136][137]。1986年六本木ピットイン公演をはじめとしたサムルノリの日本でのコンサートにはエグゼクティブ・プロデューサーとして参画している[34]。
- 国文学への関心
- 日本の古典、国文学にも大きな関心を寄せた。中古の古典のなかで強い関心を寄せたのは宇津保物語である。同名の翻案小説を連載したが、この試みは頓挫し未完成作品として残っている。さらに狭く宇津保物語に限らず「うつほ」という概念がいかに文学に、または自分の小説創造において重要であるかの文学論を述べた講演がある[138]。他に中上にとって重要な古典作家は、怪異小説集『雨月物語』[139]で知られる江戸中期の国学者[140]上田秋成である。中上はこの怪異物語、悪漢物語の作者を論争の相手である[141]本居宣長と対置したうえで称揚している[142][143]。中上の作品『蛇淫』のタイトルは『雨月物語』の「蛇性の婬」から取られている[144]。故郷の俳人、松根久雄との親交もあり[104][145]中上は俳句にも関心を寄せた。俳句に造詣が深い文芸評論家山本健吉や、彼から紹介された角川書店社長にして俳人角川春樹とは毎年、花見の吉野詣をするほどの親交があった[146]。角川とは『俳句の時代』という対談集をだしている。また設立した「熊野大学」において山本の著作『いのちとかたち』の購読会を行っている[147][注釈 60]。
- 韓国への関心
- 中上は世界を股にかけて活動したが、韓国への思いはとりわけ強い。1978年、パンソリ、仮面劇などの民俗芸能の取材旅行を行い[153]、文化や風土に魅せられた。その後も韓国への旅行や滞在を重ね、ソウルを舞台にした小説(『物語ソウル』)、韓国の文化や風土を論ずるエッセイ(『輪舞する、ソウル。』)を著した。また金芝河ら尹興吉らの韓国の文学者と交流をはかり[79][154]、『韓国現代短編小説』(1985年 新潮社)を編纂するなど韓国文学の日本への紹介にも努めた。
- 谷崎潤一郎
- 谷崎は中上が最も畏敬した作家の一人である[155][注釈 61] 。長編評論『物語の系譜』(『風景の向こうへ・物語の系譜』所収)においては、一章をさいて谷崎を論じて、谷崎を「物語のブタ」と呼び、愛憎半ばする感情を吐露した[155]。また連作短編集『重力の都』では谷崎作品のパスティーシュを行い[157][注釈 62]、「あとがき」において同作を「大谷崎の佳作への、心からの和讃」とし、執筆にあたり「物語という重力の愉楽をぞんぶんに味わった」と述べた[155]。対談において、谷崎作品のベスト3として、『吉野葛 』『春琴抄』『少将滋幹の母 』を挙げたことがある[158]。受賞に執念をみせた[159][160][161]谷崎潤一郎賞には6回(『枯木灘』[注釈 63] 『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『奇蹟』[注釈 64] 『讃歌』[34])候補となったが、受賞を逸した。中上健次の抗議をきっかけに、谷崎賞は候補作の発表をやめて、受賞作だけが発表されることになった[164]。
- ノーベル賞
- 1980年代半ば、フランス、ファイヤール(Fayard)社と契約し、1988年の『千年の愉楽』を皮切りにして順次フランス語訳が出版されている。ファイヤール社はガブリエル・ガルシア=マルケスをノーベル賞に押し上げた出版社で[165]、中上はノーベル文学賞に手が掛かったと考えていたとされる[165][166][注釈 65]。文学的盟友であった柄谷行人は、中上がノーベル賞を意識することからその言動が変わり、晩年の湾岸戦争反対などの運動もノーベル賞を意識したものであったとしている[165][168]。だが日本人二人目のノーベル文学賞は中上の死の二年後、中上が影響を受け[159]、また愛憎なかばする思いを抱き続けた[159][22][注釈 66] 大江健三郎に授与された[159]。
西暦 |
年齢 |
出来事 |
出版
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1946 |
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和歌山県新宮市に生まれる。 |
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1953 |
7 |
新宮市立千穂小学校に入学する。 母ちさと(千里)が義父となる中上七郎と同棲を始める。 |
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1959 |
13 |
異父兄、木下行平が自殺する。 新宮市立緑丘中学校に入学、中上姓を名乗る。合唱部に所属し歌唱の才能をしめす。 |
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1962 |
16 |
和歌山県立新宮高校に入学する。高校では文芸部に入部する。 |
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1965 |
19 |
和歌山県立新宮高校を卒業して大学受験を名目に上京する。以後、高田馬場、代々木、沼袋、練馬[要曖昧さ回避]と移り住む。 新宿でのフーテン生活が始まる。 同人誌「文藝首都」に入会する。 |
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1966 |
20 |
処女作「俺十八歳」が「文藝首都」に掲載される。 |
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1967 |
21 |
羽田闘争に参加するなど新左翼運動に関わる。 |
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1968 |
22 |
「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う。 |
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1969 |
23 |
「一番はじめの出来事」が「文藝」に掲載され商業誌デビューする。 |
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1970 |
24 |
山口かすみ(紀和鏡)と結婚する。 日野自動車羽村工場に期間工として勤務する。 羽田空港で貨物専用航空会社で貨物の積み降ろし業務に従事する。 東京都国分寺市西町に転居する。 |
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1971 |
25 |
長女・紀が誕生する。 |
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1973 |
27 |
「十九歳の地図」が芥川賞候補作となる。 次女・菜穂が誕生する。 東京都小平市小川町へ転居する。 |
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1974 |
28 |
羽田での仕事を辞め、文筆のかたわら築地魚河岸の軽子などで生計をたてる。 |
創作「十九歳の地図」
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1975 |
29 |
「鳩どもの家」、「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補作となる。 |
創作「鳩どもの家」
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1976 |
30 |
「岬」で芥川賞を受賞する。 「PLAYBOY」掲載小説の取材で初の海外渡航、香港、マカオを旅行する。 映画「青春の殺人者」が公開される。 |
創作「岬」「蛇淫」 エッセイ等「鳥のように獣のように」
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1977 |
31 |
「枯木灘」で毎日出版文化賞を受賞する。 「枯木灘」が谷崎賞候補となるも落選する。 ドキュメント「紀州木の国・根の国物語」のため紀伊半島全域の取材旅行をおこなう。 ニューヨーク、ハーレム地区近くのアパートメントに滞在する。 |
創作「枯木灘」「十八歳、海へ」 エッセイ等「中上健次VS村上龍」
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1978 |
32 |
「枯木灘」で芸術選奨新人賞を受賞する。 韓国ソウルから全羅北道全州にかけて民俗芸能の取材旅行をおこなう。 「部落青年文化会」を組織し「連続公開講座」を開催する。 長男・涼が誕生する。 この年、新宮の土地改良事業の工事が着手され「路地」の解体が始まる。 |
創作「化粧」 エッセイ等「紀州木の国根の国物語」
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1979 |
33 |
野外劇「かなかぬち」が初演される。 映画「赫い髪の女」が公開される。 映画「十八歳、海へ」が公開される。 映画「十九歳の地図」が公開され、翌年カンヌ映画祭に出品される。 家族でカリフォルニア州ロサンゼルスに移住する。 |
創作「水の女」 エッセイ等「夢の力」「破壊せよ、とアイラーは言った」「小林秀雄をこえて」
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1980 |
34 |
「鳳仙花」が谷崎賞候補となるも落選する。 アメリカ生活をきりあげ三重県熊野市新鹿町に転居する。 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦[要曖昧さ回避]にマンションを購入し仕事場を構える。 |
創作「鳳仙花」
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1981 |
35 |
韓国のソウル特別市汝矣島のアパートで単身生活する。 東京都八王子市谷野町に転居する。 |
エッセイ等「東洋に位置する」
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1982 |
36 |
インドからパキスタン、イラン、トルコ経由でロンドンまで「マジックバス」の旅行をおこないTV放映される。 インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワ大学に滞在する。 |
創作「千年の愉楽」
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1983 |
37 |
「地の果て 至上の時」が谷崎賞候補となるも落選する。 東京都新宿区西新宿のマンションに仕事場を構える。 |
創作「地の果て至上の時」 エッセイ等「風景の向こうへ」
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1984 |
38 |
「日輪の翼」で谷崎賞候補となるも落選する。 「物語ソウル」「輪舞する、ソウル。」のためソウルへ取材旅行をおこなう。 香港、マニラ、ペシャワール、ジャカルタ、バリ島などアジア各地に取材旅行にでている。 |
創作「日輪の翼」「物語ソウル」「熊野集」「紀伊物語」 エッセイ等「君は弥生人か縄文人か」
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1985 |
39 |
映画「火まつり」が公開されてカンヌ映画祭に出品される。 フランス・ファイヤール社と翻訳出版契約の話し合いをもつ。 ベルリン自由大学主催フェスティバル参加でドイツへ向かうも急性B型肝炎のため急遽帰国入院する。 パリ、エコールノルマルで三島由紀夫について講演をおこなう。 |
エッセイ等「都はるみに捧げる」「アメリカ・アメリカ」「火の文学」「輪舞する、ソウル。」「俳句の時代」
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1986 |
40 |
映画「火まつり」で毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞する。 野外劇「かなかぬち」が熊野本宮大社で上演される。 コロンビア大学客員研究員としてニューヨークに滞在する。 サムルノリ日本公演のプロデュースに携わる。 パリ、ポンピドゥ・センター「前衛の日本」展でジャック・デリダと公開対談をおこなう。 |
創作「野生の火炎樹」「十九歳のジェイコブ」 エッセイ等「スパニッシュ・キャラバンを探して」「オン・ザ・ボーダー」
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1987 |
41 |
フィンランド、ラハティで国際作家会議に参加し、講演をおこなう。 品川ウォーターフロントでイベント「吉本隆明25時──24時間講演と討論」を吉本、三上治と主催する。 |
創作「火まつり」「天の歌」 エッセイ等「アメリカと合衆国の間」
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1988 |
42 |
三島由紀夫賞が創設され選考委員となる。 BBC 他、英仏西共同制作のTVドキュメンタリー「ライターズ・オン・ザ・ボーダー」の取材を受ける。 東京都八王子市谷野町の自宅が火災で全焼、東京都府中市栄町に転居する。 |
創作「重力の都」 エッセイ等「時代が終り、時代が始まる」「バッファロー・ソルジャー」
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1989 |
43 |
「奇蹟」が谷崎賞候補作となるも落選する。 新宮市で「熊野大学準備講座」を発足させる。 東京都・中野に単身生活のためのマンションを借りる。 |
創作「奇蹟」
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1990 |
44 |
「讃歌」が谷崎賞候補作となるも落選する。 永山則夫の日本文藝家協会入会拒否に抗議して同会を脱会する。 フランクフルト日本ブックフェアのシンポジウムに大江健三郎らと参加、講演をおこなう。 |
創作「讃歌」 エッセイ等「20時間完全討論 解体される場所」
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1991 |
45 |
「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人らと発表する。 奉納コンサート「都はるみin 熊野神社」をプロデュースする。 フランス、ブロワ市の日仏文化サミット参加後、ドイツへ渡り、ハイデルベルク大学で戯曲「ふたかみ」を演出する。 |
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1992 |
46 |
血尿をみて年初より入院し、8月12日、腎臓癌により死去する。 |
創作「軽蔑」
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中上健次電子全集21巻収録の中上健次年譜(作製・高澤秀次)による。
- 覇王の七日(1977年 河出書房新社) - 銅版画と小説のコラボレーション作品集で100部限定で出版された。(銅版画 中林忠良)[注釈 72]
- 南回帰船(2005年 角川書店) - 晩年に劇画の原作[注釈 73] としてかかれたもの。小説およびシナリオ形式。
- 中上健次全発言 -1970〜1978(1978年 集英社)doi:10.11501/12542065
- 中上健次全発言II -1978〜1980(1980年 集英社)doi:10.11501/12542066
- 『中上健次発言集成 1 - 6』中上健次著、柄谷行人・絓秀実編(1995年〜1999年 第三文明社)
- 『中上健次発言集成 1(対談 1)』(1995年)
- 破滅と抑制―作家にとっての環境(丸山健二)/物語世界に逆巻く風(五木寛之)/物語の源泉(津島佑子)/作家と〈責任〉(野間宏)/われら二人、この生ぬるい時代に屹立する(立松和平)/悩む肉体・悩まない肉体──《肉体》の現在を間う(唐十郎)/母の地勢学──文学の現在(尹興吉)/血と風土の根源を照らす──『地の果て 至上の時』をめぐって(小島信夫)/マルチ物語論──『今昔物語集』『宇治拾遺物語』をめぐって(川村二郎)/同窓の頃の健次くん──紀州・初恋・恋愛詩(田村さと子)
- 『中上健次発言集成 2(対談 2)』(1995年)
- 大正行動隊と路地の論理──『無の造型』をめぐって(谷川雁)/中世ヨーロッパ被差別民・熊野(阿部謹也)/混風と声(吉増剛造)/今こそ等身大の「昭和史」を語れ(安岡章太郎)/暴力と性、死とユートピア──シナリオ『火まつり』と小説のあいだ(上野千鶴子)/物語とは何か──一回限りの神殺し(藤井貞和)/非行・戦後史・飽食日本(西部邁)/三浦和義の「物語」と「現実」(木村駿)/三島由紀夫の「復活」(坂本龍一)/転生・物語・天皇──三島由紀夫をめぐって(四方田犬彦)/ゾーンを生きる文学(ノーマ・フィールド)/日本という収容所列島(今村仁司)
- 『中上健次発言集成 3(対談 3)』(1996年)
- 穢れということ(ジャック・デリダ)/本当の歌にあいたい(都はるみ)/川端康成の妖と気(辻井喬)/感性について(島田雅彦)/今、言葉は生きているか(江藤淳)/さてもめずらし河内や紀州(朝倉喬司)/「マハーバーラタ」の音の森で(ピーター・ブルック)/南の熱い文学――大いなる母とマチョの世界(野谷文昭)/天皇裕仁のロゴス(岡野弘彦)/一つは音、一つは光、もう一つは色(陳凱歌)/批評的確認──昭和をこえて(柄谷行人)
- 『中上健次発言集成 4(対談 4)』(1997年)
- 日本文学の枠を超えて―『ベトナムから遠く離れて』を中心に(小田実)/ロシア、大いなる「問い」(レフ・ドージン)/存在の耐えがたきサルサ(村上龍)/女と男の関係性を超えて(松浦理英子)/東アジアの新しい世界観(金芝河)/知識の散財・想像力の解放──南方熊楠をめぐって(谷川健一)/今、書くことのはじまりにむかって(金井美恵子)/アラブをめぐるヨーロッパと日本(浅田彰)/湾岸危機と孤立する日本(本田靖春)/映画・差別・新宿(北野武)/路地の消失と流亡──中上健次の軌跡(柄谷行人)
- 『中上健次発言集成 5(談話・インタビュー)』(1996年)
- 【談話】宗教と労働/ふるさと私考/なぜ『紀伊物語』なのか/坂口安吾・南からの光/ペーパーマネーを俺は信じない/「熊野大学」構想を語る/【インタビュー】ジャズから文学へ、文学からジャズへ(小野好恵)/路地と神話的世界の光学──「地の果て 至上の時」を中心に(高橋敏夫)/『物語ソウル』と韓国(脇地炯)/小説の可能性と南方的想像力(筑紫哲也)/日本を根こそぎ否定する(つかこうへい)/果てしなきゾーン=ボーダー(絓秀実)/永山則夫の存在を否定した文学者たち(「月刊TIMES」編集部)/発熱するアジア(富岡隆夫)/夏芙蓉と金色の烏(藤森益弘)/日本語のダイナミズム(夏石番矢)/世界のなかの日本文学(三浦雅士)/シジフォスのように病と戯れて(渡部直己)
- 『中上健次発言集成 6(座談・講演)』(1999年)
- 【座談】市民にひそむ差別心理(野間宏・安岡章太郎)/パンソリのコスモロジー(大江健三郎・山口昌男・草野妙子)/人間の「根」に踏みこむ(安岡章太郎・水上勉)/エイズはここにいる(生井英考・三浦雅士)/故郷と俳句(山本健吉・森澄雄)/時代が模索する──「早稲田文学」創刊百周年に(三田誠広・絓秀実)/【講演】物語の定型/小説のヴァイブレイション/音が告知する/フォークナー衝撃/病いの果てに──ボルヘスとラテンアメリカ/初期の大江健三郎―『飼育』を中心に/小説家の想像力Ⅰ /いま、安吾が見える/私は〈日本〉人なのか/小説家の想像力Ⅱ
- 『中上健次[未収録]対論集成』中上健次著、高澤秀次編(2005年 作品社)
- 中上健次全短篇小説(1984年 河出書房新社)
- 中上健次全集 全15巻(1995年〜1996年 集英社)(連作短編集◆)
- 初期小説集I:十八歳 / 海へ / 日本語について / 灰色のコカコーラ / 十九歳の地図 / 黄金比の朝 他
(JAZZ / 隆男と美津子 / 不満足 / 愛のような / 一番はじめの出来事 / 眠りの日々 / 蝸牛 / 補陀落)
- 初期小説集II:鳩どもの家 / 浄徳寺ツアー / 蛇淫 / 臥龍山 / 水の女 他
(羅漢 / 火宅 / 荒くれ / 水の家 / 路地 / 雲山 / 荒神 / 鷹を飼う家 / 鬼 / 神坐 / 藁の家 / 幻火 / 赫髪 / 女形 / かげろう / 吉野)
- 化粧◆ / 岬 / 枯木灘 / 覇王の七日
- 鳳仙花 / 紀伊物語
- 千年の愉楽◆ / 熊野集◆
- 地の果て 至上の時
- 日輪の翼 / 讃歌
- 町よ / 物語ソウル / 輪舞する、ソウル。 / 火まつり / 天の歌 小説都はるみ / 戯曲
- 十九歳のジェイコブ / 野性の火炎樹
- 重力の都◆ / 奇蹟
- 天の歌 / 大鴉 / 軽蔑 / 青い朝顔
- 未完小説集I:宇津保物語 / 異族 / 火ねずみの恋 / 吉野 / 蘭の崇高
- 未完小説集II:鰐の聖域 / 大洪水 / 熱風
- 評論・エッセイI:初期創作・詩編 / 初期文集 / 鳥のように獣のように(抄) / 単行本未収録作品(1975年~1976年) / 夢の力(抄) / 単行本未収録作品(1977年~1979年) / 紀州 木の国・根の国物語 / America, America(抄) / On the Border(抄) / スパニッシュ・キャラバンを捜して(抄)
- 評論・エッセイII:破壊せよ、とアイラーは言った(抄) / 風景の向こうへ(抄) / 単行本未収録作品(1976年~1983年) / 時代が終り、時代が始まる(抄) / 単行本未収録作品(1983年~1992年) / バッファロー・ソルジャー(抄) / 選評・文芸時評 / 年譜
- 中上健次選集 全12巻(1998年〜2000年 小学館)
- 枯木灘 / 覇王の七日
- 異族
- 紀州 木の国・根の国物語
- 鳳仙花
- 日輪の翼
- 千年の愉楽
- 奇蹟
- 讃歌
- 熊野集 / 火まつり
- 地の果て 至上の時
- 十九歳の地図 / 蛇淫 他
(一番はじめの出来事 / 鳩どもの家 / 浄徳寺ツアー / 水の女)
- 岬 / 化粧 他
(臥龍山 / 藁の家 / 修験 / 重力の都)
- 中上健次集 全10巻(2012年〜2018年 インスクリプト)
- 中上健次電子全集 全21巻(2016年〜2017年 小学館)
- 中上健次短編集(2023年 岩波書店)
隆男と美津子/ 十九歳の地図/ 眠りの日々/ 修験/ 穢土/ 蛇淫/ 楽土/ ラプラタ綺譚/ かげろう/ 重力の都
- (1988年)『千年の愉楽』Mille ans de plaisir:訳 Véronique Perrin
- (1989年)『枯木灘』La Mer aux arbres morts :訳 Jacques Lalloz 大浦康介
- (1993年)『鬼の話』Une Histoire de démon :訳 Jacques Lévy
- (1994年)『日輪の翼』Sur les ailes du soleil:訳 Jacques Lalloz
- (1995年)『讃歌』Hymne :訳 Jacques Lévy
- (1998年)『岬』Le Cap :訳 Jacques Lévy
- (2000年)『地の果て至上の時』Le Bout du monde, moment suprême:訳 Jacques Lalloz
- (2004年)『奇蹟』Miracle:訳 Jacques Lévy
- (1983年)「半蔵の鳥」Hanzo's Bird:訳 リービ英雄
- (1986年)「不死」The Immortal :訳 Mark Harbison
- (1998年)『蛇淫』Snakelust:訳 Andrew Rankin
→「蛇淫」の他に「修験」「草木」「化粧」「紅の滝」「鬼の話」「重力の都」を収録
- (1999年)『岬』The Cape : And Other Stories from the Japanese Ghetto:訳 Eve Zimmerman
→「岬」の他に「火宅」「赫髪」を収録
- (2021年)『千年の愉楽』(王奕紅と劉国勇訳、南京大学出版社,中国語名《千年愉乐》)
- 四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』新潮社、1987年。増補版、1996年。ちくま学芸文庫、2001年
- 明石福子『中上健次論:幻視の地が孕むもの』編集工房ノア、1988年
- 柄谷行人『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996年。講談社文芸文庫、2006年
- 『群像 日本の作家 24 中上健次』小学館、1996年
- 渡部直己『中上健次論:愛しさについて』河出書房新社、1996年
- 高澤秀次『評伝中上健次』集英社、1998年
- 柄谷行人・渡部直己 編『中上健次と熊野』太田出版、2000年
- 張文頴『トポスの呪力:大江健三郎と中上健次』専修大学出版局、2002年
- 高澤秀次『中上健次事典:論考と取材日録』恒文社、2002年
- 辻章『時の肖像:小説・中上健次』新潮社、2002年
- 『文藝別冊 中上健次:路地はどこにでもある』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2002年。増補版2011年
- 守安敏司『中上健次論:熊野・路地・幻想』解放出版社
- 中上紀『夢の船旅:父中上健次と熊野』河出書房新社、2004年
- 井口時男『危機と闘争 大江健三郎と中上健次』作品社、2004年
- 中上菜穂『秘密の小道:陶芸コト始め』ぴあ株式会社、2004年
- 高山文彦『エレクトラ : 中上健次の生涯』文藝春秋、2007年。ISBN 9784163696805。全国書誌番号:21348377。「「オール讀物」(2003年11月号-2007年6月号) の連載をまとめ、加筆訂正を施したもの」
- 柴田勝二『中上健次と村上春樹 <脱六〇年代>的世界のゆくえ』東京外国語大学出版会、2009年
- 『別冊太陽:中上健次 没後二〇年』高澤秀次 編、平凡社、2012年。文学アルバム
- 渡部直己『言葉と奇蹟:泉鏡花・谷崎潤一郎・中上健次』作品社、2013年[注釈 80]
- 安岡真『中上健次の「ジャズ」:1965年新宿から古層へ』水声社、2013年
- 浅野麗『喪の領域 : 中上健次・作品研究』翰林書房、2014年
- 河中郁男『中上健次論:死者の声から、声なき死者へ』鳥影社、2014年
- 河中郁男『中上健次論:父の名の否、あるいは資本の到来』鳥影社、2015年
- 三上治『吉本隆明と中上健次』現代書館、2017年
- 今井亮一『路地と世界:世界文学論から読む中上健次』松籟社、2021年
- 劉国勇『中上健次文学における「路地」: 語誌的研究から抑圧の構造論へ』デザインエッグ社、2021年
- 渡邊英理『中上健次論』インスクリプト、2022年
- 特集号
- 「特集=中上健次と村上春樹─都市と反都市」『國文學 解釈と教材の研究』1985年3月号、学燈社
- 「特集=中上健次─風の王者」『國文學 解釈と教材の研究』1991年12月号、学燈社
- 『ユリイカ 特集=中上健次』1993年3月号、青土社
- 関井光男編集『中上健次』『国文学 解釈と鑑賞 別冊』至文堂、1993年
- 『ユリイカ 特集=中上健次』2008年10月号、青土社
- 『kotoba』2016冬号「特集 中上健次 ふたたび熊野へ」集英社、2015年
- Nina Cornyetz, Dangerous Women, Deadly Words: Phallic Fantasy and Modernity in Three Japanese Writers . Stanford University Press, 1999.
- Mats Karlsson, The Kumano Saga of Nakagami Kenji. Stockholm, 2001.
- Eve Zimmerman. Out of the Alleyway: Nakagami Kenji and the Poetics of Outcaste Fiction. Harvard, 2008.
- Anne Thelle. Negotiating Identity: Nakagami Kenji’s Kiseki and the Power of the Tale. Iudicium, 2010.
- Anne McKnight. Nakagami: Japan, Buraku and the Writing of Ethnicity. University of Minnesota, 2011.
- Machiko Ishikawa. Paradox and Representation: Silenced Voices in the Narratives of Nakagami Kenji, Cornell University Press, 2020.
- ^ 中上の異母の妹・弟については『中上健次電子全集21』収録「中上健次年譜 作製・高澤秀次」によると中上には異母妹が二人、異母弟が二人いるとされている。また「犯罪者宣言及びわが母系一族」というエッセイではこう記したことがある。「図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)(注:勝三ママ)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平(ママ)、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。」[7]
- ^ 兄の自死について安堵したり、恥ずかしいと感じたりしたことが、罪障感となってトラウマになっている。兄の自死についての子供の頃の感情について著作に以下のような記述がみられる。「その時も、酔って兄は義父の家へやって来た。」「「われらア、四人ともブチ殺したろか!」兄は口から怒りを一気に吐きだそうとしてどなった。」「兄のアルコール中毒の症状は自殺する三カ月ぐらい前から出ていた」「母はやっかいものの兄を精神病院へ入れるかどうか父に相談した、ぼくは早くほうりこんでしまえと思っていた。」「生臭い腐った肉のかたまり、きちがいめ、ぼくは兄を憎んだ」「昭和三十四年の三月の朝、姉の夫が「兄やんが首吊って死んどる」と息をきらせながら伝えてきた」「生きている人間が突然死ぬということをぼくは理解できなかったが、やっかいものの兄が暴れこんでこなくなったのだということだけはわかった、これでなにもかもすべてうまくいくと思い、安堵して柔らかく弛緩した感情が体の内部にひろがっていくのを感じとめた。」「なぜおまえはその時、安堵のような感情を抱いたのか?」「子供の時ぼくはせっかくうまくいっているこの家での父と母と父の子と母の子の四人の生活を、誰にも壊されたくないと思った、そして鉄斧や出刃包丁を持って、ぼくたち四人をほんとうに惨殺することもできないくせに「殺したる」と言って暴れに来る兄を憎悪した。それはほんとうなのだ、嘘いつわりのない十二歳の時のぼくの感情なのだ。」(以上『眠りの日々』)「何度モ小説ニ書イタ二十四歳デ自殺シタ兄カラ与エラレタ様々ナとらうまヲ私ハソノ時カラ今ニ至ッテモ解ケナイデイル。」「私ノ家デハ苦ノ種ダッタあるこーる中毒ノ兄ガスデニ首ヲククッテイルノデ何モ起コラナイ。母一人子一人、父一人子一人ノ四人家族デ平穏ニ暮ラシテイル。四人ノ誰モガ兄ノ死ガアッテソノ平穏ヲ維持デキテイルコトヲ知ッテイル」「ソノ頃ハ私モ私ノ母モ義父ノ戸籍ニ入ッテイズ私生児トシテ届ケラレテアッタ私ハ、木下トイウ兄ラノ姓氏ヲ名乗ッテイタガ、三月三日ニ自殺シタ木下郁平(注:ママ)ト木下健次ガ兄弟デアルコトヲ知ラレルカモシレナイ、知ラレタト思ッタノダッタ。(中略)兄ノ葬儀デ三日学校ヲ休ミ、出テ行クト先生ガ私ヲ呼ンデ、自殺シタト新聞ニ出テイタノハ君ノ親戚カ?ト訊イタ。私ハ違ウト首ヲ振ッタノダッタ。知ラン、トサエ言ッタ。」(以上『鴉』)[15][16]
- ^ 中上の作品には、この出来事は繰り返し登場する。『一番はじめの出来事』『眠りの日々』(初出時タイトル『火祭りの日に』)『補陀落』『岬』『楽土』『鴉』『奇蹟』などである。彼の文業を貫く重要な主題であった。
- ^ 出版社気付でサドを翻訳紹介していた澁澤龍彦にファンレターを送ったことがあるという[19]。
- ^ 最初期の中上健次は大江健三郎のエピゴーネンであることはよく指摘される[20][21]。中上自身も「僕は昔 、大江さんの書き方にとても影響を受けた。あの人のすごい言語感覚が俺の言語感覚みたいのに反応して、それを使いたくてしようがなくなる」と述べている[22]。
- ^ 「俺が喧嘩する相手は 、ほとんどこっちがやきもちを焼いている人間なんだよ 」[22]の言葉の通り、先行する優れた小説家、大江健三郎は作家として一人前になった中上の攻撃の対象となった。大江の海外文学理論を援用するブッキッシュな小説作法や、反核や戦後民主主義擁護のような理想主義的な言動を批判的に見た[23][24]。もちろん同時に尊敬もあり雑誌「ダカーポ」で連載した文芸時評などにおいて大江の『人生の親戚』や『夢の師匠』の出来の素晴らしさに瞠目したことを語り[25][26]「他の人と横並びに読んでみると 、大江さんはダントツなんだよ」という賛辞を率直に述べたりもしている[22]。両者は一度、文芸誌『新潮』において主に海外の文学や理論を巡って意見を交わす直接対談をしている(「多様化する現代文学」『中上健次全発言II -1978〜1980』所収)。晩年はフランクフルト日本ブックフェアのシンポジウム(1990)、共に選考委員を務めた三島賞の選考会など公的な場所で同席することも多かった。
- ^ 中上の母親のちさとは、幼い息子にせがまれて口承の昔話をした人だったが[30]、ひらがなとカタカナしか読めなかった。(中上は後年こう述べている。「おふくろなんか文盲だし、周りもみんな教育受けてないのと同じみたいなものです。じゃ何があるかというと、語りの世界ですよね、文字を読み書きするというよりは。おふくろはもともと婆さん子だったから、物語をどっさり知っていて、僕にも話して聞かせてくれる。そういう語りの言葉がいっぱいある。」)[31]近所にたまたま頭がおかしくなった本好きがいたことから、ちさと(千里)は、字を読んでいるとノイローゼになって果ては自殺にいたる、と思い込んでおり、中上が本を読んでいるとそれを奪い取った。中上には医者の息子の裕福な親友がおり、読みたい書物や聴きたいクラシックのレコードをリストアップして買ってもらって、親友の部屋でそれらに触れた[33]。
- ^ 文学に目覚めた中上は、新宮高校の文芸部の機関紙「車輪」に小説『赤い儀式』や詩を発表している。『赤い儀式』はエッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』に収録された[34]。
- ^ 中上の実家はこの頃には土建の仕事が成功して裕福になっており(中上自身の言によると「土方の親方の家ですから 。成金の家ですね 」)[31]、大卒の初任給が1965年当時平均2万3千円の時代に、高澤秀次著『評伝中上健次』によると月3万円の仕送りを受けていたという[40]。一方、(『エレクトラ : 中上健次の生涯』)によると仕送りの額は月に5万円から6万円で、それを7日間から10日間で使い果たすと姉に無心し5万円から6万円の仕送りを受けていたともいう。1966年には亜細亜大学に合格したと嘘をついて親から入学金と授業料をせしめていた。また亜細亜大学の学費とは別個に、アテネ・フランセの入学手続きに必要な金を送らせたこともある。
- ^ ジャズビレッジでは牧田吉明、鈴木翁二などの知己を得た[44][45]。
- ^ ビレッジバンガードではビートたけし、永山則夫とすれちがっている[46]。自分と似た境遇の永山則夫の起こした連続射殺事件にショックを受けた若き中上は「ぼくはなぜ書くのか? なぜ実際の犯罪でなく 、書くことの犯罪(中略)であるのか? なぜピストルでなく万年筆なのか?」との問題意識から「犯罪者永山則夫からの報告」という長編エッセイを書いている。(『鳥のように獣のように』所収)。
- ^ 当時のジャズ狂いのフーテン生活をこう綴っている。「西武線沼袋に住んだ頃は、いつも歩いて新宿まで出た。職なしのチンピラ風の、彼らや、オイラが、スケアな奴を尻目に、たとえばコルトレーンを、テイラーを、ある時はデビス(注:ママ)を、スキャットしながら町を行く。金を持っている時、駄菓子屋で、パンを買った。コロッケを買った。それを食いながら、歩いた。マリワナ、エフェドリン、ハイミナール、ドローラン、ソーマニール、ナロン、くすりは手に入る限り、なんでもやった。しかし頭も体も狂いはしなかった。くすりのようなジャズ、知りたての女の、よがり声のようなジャズ、注射器にすいあげられた血のジャズ、魂のジャズ。」[47]
- ^ 1933年から70年まで発行された、主宰保高徳蔵の老舗文藝同人誌。著名な同人は林京子、加賀乙彦、勝目梓、津島佑子など。
- ^ 「俺十八歳」は高校在学中に書き始め、東京に出てから完成した。出身高校の文芸誌に載せようと送付したところ、内容的に大人向きの雑誌に投稿した方が良いと教師に言われ、『文藝首都』に投稿することになった[49][31]。芥川賞受賞後初期作品集として『十八歳、海へ』として単行本に纏められるときに『十八歳』に改題された。また初出時には冒頭で主人公が自転車を漕ぎながら歌う歌は次のようであった。「鑑別所のくらしは良いもんだ/飯もくえるし 太陽も照るぞ/文句は云えまい 誰にもよ」しかし、単行本化にあたりビートルズの「ミッシェル」の歌詞に変更された[50]。
- ^ 同人誌掲載のの最初期の創作は、芥川賞受賞後、1977年『十八歳、海へ』に纏められた。
- ^ 中上健次の全国発売の商業文芸誌へのデビューは、1968年9月「文學界」に掲載された短い詩『季節への短い一章』となる。なお小説家としての商業誌デビューは翌1969年『一番はじめの出来事』(「文藝」8月号)である。
- ^ 山口かすみは、紀和鏡の筆名で1985年『Aの霊異記』でデビューし、伝奇小説を数多く執筆する。筆名は中上が「気は狂」から命名した[52]。
- ^ 同じ同人誌から出発した同世代の作家の津島佑子は、中上の文学的な「盟友」ないしは「妹分」とされることがある[53][54]。津島は、中上の『文藝首都』時代の習作をあつめた『十八歳、海へ』(集英社文庫)の解説を執筆している。中上が東京新聞連載の長編『鳳仙花』を出版した頃、津島もちょうど『山を走る女』の新聞連載を終えており、それらを巡って、また『文藝首都』時代の思い出や文学論を語りあった対談をしている[55]。中上の早逝時に津島が執筆した追悼文や中上との思い出を記したエッセイは津島の著作『アニの夢 私のイノチ』(講談社)にまとめられている。
- ^ 中上健次と柄谷行人は終生、公私にわたり特別な関係を持ち盟友、朋輩ともいうべき間柄であった。彼らは時代やキャリアの転換期などの節目に、重要な対談を行い、それらは現在では『柄谷行人中上健次全対話』に纏められている。柄谷が作家の名前を冠して著した批評集は夏目漱石、坂口安吾、中上健次の三名のみである。柄谷は中上没後の全集の編集委員を務めている。また私的には中上の結婚時の媒酌人、葬儀委員長も務めている[58]。
- ^ 『三田文学』における伝説的な出会いのシーンを対談においてこう回想している。《中上》「『三田文学』の編集室に遠藤周作がいてさ、オレはほら、やっぱり大先輩だって感じあるじゃない。ヘェーッて、こう笑いながらでも、やっぱり会えてよかったなってとこあるわけだよね、読んでたから。」「ヘラヘラ笑ってるのはさ、やっぱり、こっちのなんか弱みをカバーするために笑ってるわけですよ。」「その時、あんたはね、そばに煎餅があってさ、それに大胆にも手をのばしてさ、その恨みを忘れないね。一所懸命、ポリポリ齧ってんだよね。こんなに食べるなんて生意気だなあ」「この男、オレがこんなに困ってるのに、勝手に取りやがってポリポリやって、オレも食いたいなあって感じあったのよ。その男が、柄谷行人なのよ。あの生意気さってのは、忘れないね(笑)」《柄谷》「人のことばっかり言ってるけどね、君がまた生意気な男でさ。ぼくは、君の外見では年齢がわかんなかったですからね。なんか偉そうに言っててさ、なんだろ、このフンドシかつぎみたいなやつは、と思った(笑)。ぼくに、「君は何やってるの」なんて言うんだからね。」「それが、まあ出会いですね。そういうのはほんと偶然で、ぼくもまた、この男が中上健次であろうとは、やっぱり、そのときは思わなかったよね。君も思わなかっただろ。」[59]この出会いのシーンは『鳥のように獣のように』に収録されたエッセイ「わが友」にも記されている[60]。
- ^ 中上の小説では「路地」に咲き誇り、甘い匂いをふりまく「夏芙蓉」が登場するが、これはフォークナー『響きと怒り』のスイカズラに着想を得ている。小説の中に「噂」を導入してポリフォニックな効果をあげることもフォークナーから学んだという[61]。また、素性のしれぬ男が土地にやってきて成り上がること(『岬』三部作の龍造)が『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンに着想を得ているのではないかという指摘はよくされる[62]。
- ^ 苗字についてこう述べたことがある。「天王寺にいると昔を思い出す。私は天王寺を歩き廻りながら、自分がナカガミという姓ではなく、中学卒業するまでキノシタ姓だったのを思い出し、体がしびれる気持ちになる 。実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。十八歳で東京に出て、私はナカガミと呼ばれ自分でもナカガミと名のった。正直、私に、ナカウエという姓は縁遠かった。義父のナカウエが、母の連れ子である私を可愛がり、私は実子と何らわけへだてなく何不自由なく育てられたが、私にナカウエという姓は妙に重い。漢字で名前を書けばナカウエでもナカガミでも一緒だが、自分の事にこだわるが、ナカガミとは私には抽象的な感じを与え安堵させる。私には冠する苗字がないのだ 。」(天王寺『紀州木の国・根の国物語』所収)
- ^ この職業選択は柄谷行人から紹介されて深い感銘を受けた「沖仲仕の哲学者」エリック・ホッファーへの憧憬からくるブッキッシュな側面がある。当時書かれた東京新聞掲載のエッセイ「働くことと書くこと」(『鳥のように獣のように』所収)では、現代作家としての自分がなぜ現業労働をしながら小説を書くのか、その必然をホッファーを引用しながら語り内向の世代の小説家に苦言を述べている。
- ^ 1972年『灰色のコカコーラ』1作、1973年『十九歳の地図』1作が、1974年『鳩どもの家』含む6作、1975年『浄徳寺ツアー』『蛇淫』『岬』含む12作と増加する[34]。
- ^ 小説の内容や、実家の家業、中上の独特の風貌から芥川賞受賞時、彼は「土方作家」と称されたが、実際は中上は、若干の手伝い程度で、本格的な土方仕事の経験はない[68][69]。
- ^ 中上はもともとは『岬』以前に、最終的に『岬』に結実した複雑な親族の物語を、ギリシャ神話「エーレクトラー」をもとにして『エレクトラ』という220枚の長編に仕上げていたという。しかし、これは未熟な作であるとして、編集者から発表を拒否されている。この原稿は、自宅の火災により焼失し、残っていない[20]。「芥川賞受賞のことば」(昭和51年3月『文藝春秋』)に中上はこう記している。「言ってみれば、書きたくてしょうがなかった小説だった。ずいぶん昔から、まだ力がない、まだ駄目だ、と、はやる腕を、筆を、おさえてきた。書きあげて、ゲラ刷りになった小説を読んで、ぼくは、一人、部屋で泣いた。暑いさかりだった。よく、いままで、じっとがまんしてきたと、自分の、小説家としての男気を、汗のような涙で、慰めた。その小説が、芥川賞をいただいた。」(『中上健次電子全集4』所収)
- ^ ドキュメントの狙いをこう記している。「半島をまわる旅とは 、当然 、さまざまな自然とそれへの加工や反抗 、折り合いを見聞きする旅である。観光用の名所旧蹟には一切、興味はない。私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすことである。」「隠国の町々、土地土地を巡り、たとえば新宮という地名を記し、地霊を呼び起こすように話を書くとは、つまり記紀の方法である。」(序章『紀州木の国・根の国物語』所収)
- ^ 吉本隆明は中上が無名の頃から読み込んだ思想家で[73]この講演を機縁に交流が始まった。『地の果て至上の時』出版の折、1980年代当時吉本は『マス・イメージ論』を上梓しており、二つの書物へのお互いの感想を枕にして文学や時代全般に関する対談を行なっている[74]。晩年には三上治も交えやはり文学と社会をめぐる対話を行い鼎談を出版している(『20時間完全討論 解体される場所』)。吉本の主著である『共同幻想論』が角川文庫に収められた際には中上の「性としての国家」という解説が付された。中上の死後『千年の愉楽』が文庫化された際には吉本の『マス・イメージ論』より『千年の愉楽』を論じた章「世界論」が抜粋され解説代りに付された。
- ^ 本作を読んだ音楽家坂本龍一はブラック・アンド・ホワイトのヘビメタのような映像をベルトルッチに撮ってもらうといい、と考え、中上に話をし、中上もそのアイディアが気に入った。二人で資金調達のために角川春樹とミーティングをしたという。ところがその席で角川が自分が監督をやると言い張って話は流れたという[81]。なお、本作は後年、2012年若松孝二によって映画化されている。
- ^ 新潮社の「純文学書下ろし特別作品」として発表された。新潮社が力をいれた文芸書シリーズで、この企画から著名な大作が多く誕生している。前後して発表された作品は大江健三郎『同時代ゲーム』、安部公房『方舟さくら丸』、筒井康隆『虚航船団』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などである。
- ^ 路地無きあとの後期の中上は文学的に苦戦した。1994年雑誌「批評空間」において中上健次のよき理解者であった蓮實重彦、渡部直己、浅田彰、柄谷行人により「中上健次めぐって 双系性とエクリチュール」という座談が行われている。ここでは「地の果て」以降の中上文学をどう受け止めるかに重点を置いて議論されているが、後期の中上作品の大抵が「平板な図式…エクリチュール[要曖昧さ回避]は非常に貧しく」(浅田)「(後期の中で)『奇蹟』は奇蹟的によかった」(柄谷)という見方で参加者の意見は一致しており、その事態をどう理解すべきなのかを議論している[83]。
- ^ 中上自身の手による地区改良事業直前の「路地」の最期の姿を撮影した16mmフィルムが残されていた。そのフィルムを素材にして、2000年青山真治監督、井土紀州出演により『路地へ 中上健次の残したフィルム』というドキュメンタリー映画が制作されている。
- ^ 1985年頃、中上健次と俳優原田芳雄の間で本作を映画化する話がまとまり具体的にシナリオの受け渡しを4回以上やって決定稿まで完成していたという。ただ中上の死によりこの話は立ち消えとなった[84]。
- ^ 1999年 NHKにより本木雅弘主演でテレビドラマ化された[85]。
- ^ 本作は、二人の若者が消滅した路地を後に7人の老婆を冷凍トレーラーに乗せて聖地を巡礼する、というストーリーである。ヨコハマトリエンナーレ2014において、現代美術家やなぎみわにより、本作を自らデザインしたデコトラの移動舞台で日本中を移動しながら演劇上演する、というプロジェクトが発表された[86]。
- ^ コロンビア大学には当時、新世代の日本文学研究者ポール・アンドラーがおり、彼の招聘による。前後して四方田犬彦、島田雅彦、津島佑子らも客員研究員として招聘されている。なお1999年に『岬』を英訳したイヴ・ジマーマンは当時のアンドラーの学生であった[88]。
- ^ 中上が設立当初から関わった賞がその名前を冠した三島由紀夫は、中上にとって重要な国内作家であった。1985年フランスのエコール・ノルマルで「三島由紀夫をめぐって」[89]と題するレクチャーを行なっている。前後して坂本龍一、四方田犬彦、宮本輝と三島をめぐり対談をおこなっている[90][91][92]。中上の三島への関心は、ホモセクシュアリティとアウトカースト(天皇とその裏返しとしての被差別部落)という三島を巡る問題群が彼自身のアイデンティティまたは当時展開していたボーダー論と重なるところから来ている。(その真偽は不明ながら中上は三島は被差別の出自と考えていた)
- ^ 『千年の愉楽』『奇蹟』の二作は「中本の一統」と称される血筋の者を描いた作品である。この他に「中本の一統」が登場する作品は『聖餐』(『紀伊物語』第二部)『野生の火炎樹』『熱風』『異族』である。
- ^ 闘病の状況についてのインタビューが残されている(「シジフォスのように病と戯れて」(渡部直己)『中上健次発言集成5』所収)このインタビューで中上は快癒に自信を見せて、その後の執筆について「いま自分で見えているのは、『岬』や『地の果て至上の時』の主人公の秋幸が動き始めてるんだよね。秋幸は要するに僕に一番近いけど、遠くに行ってしまったやつなんです。それが動き始めてて、これはどういう具合になるのかなということですよ。」と述べていたが、死により実現しなかった。
- ^ 『鰐の聖域』は『枯木灘』の主人公秋幸の異父姉の娘の夫の五郎、『熱風』は『千年の愉楽』のオリエントの康の息子のタケオ、『大洪水』は『地の果て至上の時』のヨシ兄の息子の鉄男、がそれぞれの主人公であり、続編とみなすことができる。
- ^ 1984年〜5年、1988年、1991年と中断を挟みながら断続的に書き続けられ、結局、作者の死によって未完作品となった。刊行時にハワイの事務所のフロッピーから発見されたシノプシス「異族最終回三〇〇枚」が付された。
- ^ エッセイ「夢の力」(『夢の力』所収)において中上はこう述べている。「他人事とは思えないという三面記事はある 」「新聞記事がことごとく怪異譚や説話に見えてくる」「どの男でもこのような情態になれば 、こんな風にしてしまうのではないか 。男の見る悪い夢が 、この現実にふっと顕在化した 、という奇妙に強い力」「小説のリアリティーとはその夢の力ではないだろうか 、いやリアリティ ーと文学言葉を使うのではなく 、小説を書いたり読んだりする楽しさ 、醍醐味である 」
- ^ 原稿の写真は『別冊太陽:中上健次』、『kotoba』2016冬号「特集 中上健次 ふたたび熊野へ」などで見ることができる。
- ^ 坂本龍一の父親は戦後文学の名作を数々手がけた伝説的な文芸編集者、坂本一亀である。坂本が一亀に中上と知り合いになったと話したところ、一亀は新宿のバーで中上に殴られたことがあったらしく、坂本に「あいつは暴力的なやつだ、気をつけろ」と忠告したという[111]。坂本とは音楽にとどまらず、三島由紀夫[90]や戦後派作家[要曖昧さ回避][112][113]など文学に関する対談、座談もおこなっている。
- ^ 1980年代、筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』に「若者たちの神々」と題した連載企画があった。当時、若者の人気を博した文化人を毎号一人取り上げ編集長自らインタビューを行うという企画で、中上も「神々」の一人として取り上げられている。企画の詳細や「神々」の顔ぶれはリンク先参照。筑紫による中上への実際のインタビューは「小説の可能性と南方的想像力」(『中上健次発言集成5』所収)。
- ^ 映画『火まつり』の公開にあわせて、配給のシネセゾンの系列出版社リブロポートから山口昌男編『火まつり』が出版されている。同書には、中上と上野千鶴子による対談「暴力と性、死とユートピア」のほか、出演女優の太地喜和子と山口昌男による対談、監督の柳町光男と小松和彦による対談、川本三郎、栗本慎一郎、中村雄二郎、ヴィクター・ターナーによる論考などが収録されている。
- ^ 映画『火まつり』のプロモーションとしてフジテレビ「笑っていいとも!増刊号」に出演し嵐山光三郎と対談している[34]。
- ^ 2019年、外波山文明の主宰する椿組は「岬」三部作を原作とする野外劇「「芙蓉咲く路地のサーガ 」~熊野にありし男の物語~」(青木豪脚本・演出)を制作して東京花園神社で上演している[114]。
- ^ 熊野を中心とした一帯を荒らす中世の悪党を主人公とするこの劇のタイトルは釈迢空の「古代感愛集」から採られている。公演パンフレットにこう記している。「農耕神を殺して現れる金属神」「農耕より遊牧を、水より火を、重い音よりメタリックな音を、菜切包丁ではなく剣を」[115]
- ^ 『破壊せよ、とアイラーは言った』に収録された。
- ^ a b 『バッファロー・ソルジャー』に収録された。
- ^ エッセイ中で描かれるインドのニューデリーからイラン、トルコを経由してロンドンまでのマジック・バスによる旅は日本テレビのドキュメンタリー特集 「爆走!3000キロ インド発ロンドン行き直行バス I 、 II 」としてテレビ放映されている[34]。
- ^ 『町よ』と題される連作は二つある。ここでいうそれは芥川賞受賞直後、香港、シンガポール、スペイン、モロッコに海外取材し書かれ「PLAYBOY日本版」に掲載されたものである。もう一つは初期の兼業作家時代に書かれもので、天王寺などの町をさまよい歩きながら自殺した兄の幻影と対話する悲痛な調子のものである。後者は『鳥のように獣のように』所収。
- ^ 掌編連作で「BRUTUS」に出稿されたサントリーローヤルの広告ページ掲載用に執筆されたものである。この掌編は『岬』三部作の主人公「アキユキ」が登場することで特筆される。
- ^ 柄谷行人、蓮實重彦とは草野球チーム「カレキナダズ」という草野球チームを結成して活動していた。柄谷は無論であるが蓮實ともプライヴェートでもかなりの程度親しさがあったことが窺われる[117]。
- ^ 蓮實重彦には『小説から遠く離れて』と題された書物がある。1980年代の代表的な小説(『羊をめぐる冒険』『吉里吉里人』『裏声で歌へ君が代』『コインロッカー・ベイビーズ』『同時代ゲーム』)を総覧し、それらが説話論的に類型化された同じ物語になることを指摘しながら批判した。そして物語に抗う小説の擁護をし、その意味において中上の『枯木灘』を称揚した。蓮實は執筆の裏の目的として、当時中上が大作として取り組んでいた『異族』がまさにここで批判された作品と同じ平板な物語図式に堕してしまっていることを示唆し中上に『異族』の執筆を止めさせたいという動機があったことを吐露している[83]。
- ^ 1984年に連れ立ってバリ島と韓国への取材旅行をおこなっている。雑誌「GS」を出版してニューアカデミズムを盛り上げた出版社、冬樹社において山口との長編対談の企画が進行していたようだが結局出版に漕ぎ着けずに終わっている[121][122]。
- ^ 当時、栗本慎一郎はニュー・アカデミズムなどの思潮を概括する軽めの解説書『鉄の処女 血も凍る現代思想の総批評』をカッパ・ブックスからだしている。それには高橋春男の漫画が添えられており、そこに中上健次が登場する。
- ^ 四方田犬彦は中上存命中の1987年に『貴種と転生』と題する「中上のテクストを矛盾なき体系として了解する」[127]中上の主著を包括的に論じた作家論をだしている。後期の中上を理論的にバックアップする同伴者となった。
- ^ 中上は俳句の実作は不得手だったようである[148]。『いのちとかたち』の講読会と同時に開かれた句会においては専ら選者に徹している[149][150]。中上の手になる句としては、筆の代わりに醤油を割箸につけて自筆された「あきゆきが聴く幻の声夏ふよう」という俳句色紙が残されている[151][152]。
- ^ 1980年代に刊行された谷崎潤一郎全集のパンフレットに「大谷崎讃」として次の文章を載せている。ここからは中上の谷崎への想いのみならず中上自身の文学観も窺い知ることができる。「王朝と江戸と文明開化から分けへだてなく滋養を吸い 、言葉の一語一語にたっぷりと血をたくわえた文章 。かつて三島由紀夫が言ったように彼は大谷崎でなければならぬ 。桜の幻のふく郁たる香 、物語の自転運動 、なににもまして輪舞する物語それ自体 、それが現代文学の最先端でありながら 、現代文学をくつがえす意志を語りかける 。まんえんする貧血の現代文学を蔑視せよ 。物語の毒と物語の愉悦が汲めども尽きぬ泉としてここにある 。」[156]
- ^ 各編は、刺青、盲目、擬古典風のつくりなど谷崎潤一郎の諸作品へのオマージュとなっている[157]。
- ^ 『枯木灘』が毎日出版文化賞に決まったという知らせが届いたとき、編集者らと講演先で酒を飲んでいたが、知らせの電話を切ったあとで荒れて「なんでや、おれはこんな賞はいらんど。おれは谷崎賞がほしい。こんなもんでお茶を濁されるんか」と怒り嘆いたという。
- ^ 『奇蹟』は平林たい子賞に内定したが辞退している。中上はこうコメントしている。「理不尽な状態にあったんですね、『奇蹟』が…。『奇蹟』という作品の名誉を守るために、『奇蹟』という作品で平林賞をいただくと、なんかなだめられたような気がするんだ 。そうじゃない、怒っているぞ、ということを示すために、僕は断ったんだね 。まあ、谷崎潤一郎が生きていたら、どう言うのかって聞いてみたい気がするね(笑)」[163]
- ^ 親交のあった夏石番矢によると「ノーベル文学賞は次は日本の番だ。何でか知っているか。アジアで、被差別民出身として初めて文学の言語を獲得したオレがもらうんだ」とのセリフをいくどか口にしていたという[166]。
- ^ 大江を論じた講演の最後に、大江についての思いをこのように述べている。「僕にとって、大江さんという作家は、あるときは非常に激しく対立したり、あるときは仲よくなったりという、そういう嫉妬の対象であり(笑)、尊敬する先輩であり、すごく影響を受けたし、あるいは、一遍どこかでぶん殴ってやろうとも思ってる作家だし、なくてはならない作家であり、もしこう言うことが許されるなら、じつに信頼できる、現代文学の敵に立ち向かう強力な同僚であると、十年遅れなんですが、あえてそう言いたいです。」[169]
- ^ 「紀伊物語」は当初は連作短編として1977年から文芸誌「すばる」において「古座」「那智」「大島」と書き継がれた。しかし当初の案は放棄され、古座、那智はそれぞれ「鷹を飼う家」「鬼」と改題されて、短編集『水の女』に組み入れられられた。「大島」については放置されたのち、5年後「聖餐」と題した全く文体の異なる第二部が執筆され、二部構成の長編として『紀伊物語』に纏められて出版された[170]。
- ^ 1978年〜80年の「野性時代」での連載時タイトルは『焼けた眼、熱い喉』であった。連載完結から5年放置されたのち単行本化された。単行本化にあたり主人公の名前が順造からジェイコブに変更されている[171]。
- ^ オリジナルで書き下ろした脚本に基づく映画『火まつり』(柳町光男監督)を小説化したものである。
- ^ 1981年初版の文庫に「羅漢」も追録されていたが講談社文芸文庫版で取り除かれた。
- ^ 「路地」を描いた最後の連作短編集で谷崎潤一郎への「心からの和讃」[172]であるとしている。各編は、刺青、盲目、擬古典風のつくりなど谷崎潤一郎の諸作品へのオマージュとなっている[157]。
- ^ 『枯木灘』の後日譚であり、2015年初版の新装新版『枯木灘』に併録されている。
- ^ 南回帰船 (アクションコミックス、双葉社、1990-1991年)原作:中上健次、作画:たなか亜希夫、全4巻(未完)
- ^ 1982年に文庫化された際にタイトルが『ジャズと爆弾 中上健次vs村上龍』に変更された。
- ^ 冬樹社版は全三部の構成で、第二部は『國文学』に連載された長編評論「物語の系譜」であった。第二部について、冬樹社版では収録されていなかった折口信夫を論じた回の後半部分と円地文子を論じた回を収録している。一方で、冬樹社版の第三部にあたる多様な内容の短めのエッセイ19編が全て割愛された。
- ^ レクチュア・ブックスシリーズの一冊として出版された。
- ^ 週刊本の一冊として出版された。収録対談: 「さようなら、アンコ椿」(都はるみ)
- ^ 収録対談: 「音は神、そしていま甦る新たなる異神」(坂本龍一)/「仕事の現場から」(村上春樹)/「爆発させろ、漂泊のパワー」(栗本慎一郎)/「知識人よ覚悟しろ!」(ビートたけし)
- ^ 本書にはこの講演と並行して東京堂書店が行ったブックフェア「中上健次氏の本棚 物語/反物語をめぐる150冊」に選定された書物の一覧が付されている。中上の文学的なルーツや同時代的な知的関心を知るうえでの大きな参考になる。
- ^ 著者による既刊『中上健次論:愛しさについて』を再編集したもの。
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1930年代 - 1950年代(第1回 - 第42回) |
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 - 1970年代(第43回 - 第82回) |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 - 1990年代(第83回 - 第122回) |
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1980年代 |
- 第83回 該当作品なし
- 第84回 尾辻克彦「父が消えた」
- 第85回 吉行理恵「小さな貴婦人」
- 第86回 該当作品なし
- 第87回 該当作品なし
- 第88回 加藤幸子 「夢の壁」/ 唐十郎「佐川君からの手紙」
- 第89回 該当作品なし
- 第90回 笠原淳「杢二の世界」、高樹のぶ子「光抱く友よ」
- 第91回 該当作品なし
- 第92回 木崎さと子「青桐」
- 第93回 該当作品なし
- 第94回 米谷ふみ子「過越しの祭」
- 第95回 該当作品なし
- 第96回 該当作品なし
- 第97回 村田喜代子「鍋の中」
- 第98回 池澤夏樹「スティル・ライフ」/ 三浦清宏「長男の出家」
- 第99回 新井満 「尋ね人の時間」
- 第100回 南木佳士「ダイヤモンドダスト」/ 李良枝「由煕」
- 第101回 該当作品なし
- 第102回 大岡玲「表層生活」/瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」
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1990年代 | |
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2000年代 - 2010年代(第123回 - 第162回) |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 - 2030年代(第163回 - ) |
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2020年代 | |
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カテゴリ |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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