中峰明本 | |
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景定4年11月2日 - 至治3年8月14日 (1263年12月3日 - 1323年9月14日) | |
諡号 | 智覚禅師・普応国師 |
尊称 | 仏慈円照広慧禅師 |
生地 | 杭州銭塘県 |
宗派 | 臨済宗楊岐派(破庵派) |
寺院 | 大覚寺、幻住庵 |
師 | 高峰原妙 |
著作 | 『天目中峰和尚広録』 |
中峰明本(ちゅうほう みんぽん)は、中国の元代の禅僧。諡は智覚禅師。俗姓は孫。号は中峰、または幻住道人。杭州銭塘県の出身。南嶽懐譲下の第22世に当たる。
9歳で母と死別し、幼くして仏に帰心し、15歳で出家を志した。若くして『法華経』・『円覚経』・『金剛経』などの経典を読誦し、燃指供養を実践するなど、講学と修行につとめた。
至元23年(1286年)、天目山獅子巌の高峰原妙に師事して剃度し、至元25年(1288年)に具足戒を受け、翌年には師の心印を伝授された。原妙の没した元貞元年(1295年)、師は明本に住寺の大覚寺を継がせようとしたが、明本は頑として受けず、第一座の僧に継がせて、自身は山を下りた。
その後、各地を遊方行脚して、修行と教化につとめた。定住処を持たず、「幻住庵」と名づけた庵を各地に造って、そこに仮寓した。また、時に天目山にも帰山したりした。霊隠寺や径山から招かれても応じず、延祐5年(1318年)には仁宗によって宮中に召されたが、応じなかった。それでも、金襴の袈裟を下賜され、仏慈円照広慧禅師の号、さらに「師子正宗寺」の院号を賜った。また、英宗からも尊崇され、顕貴の中にも、明本に師事した者が少なくない。趙孟頫とも交遊した。
明本は儒と仏との調和融合を主張し、また一方で「教禅一致」や「禅浄一体」をも主張している。実際、明本は浄土信仰者であり、「観念阿弥陀仏偈」や「懐浄土詩百篇」を著述している。至治3年(1323年)8月14日、61歳で没した。文宗は智覚禅師と諡し、塔を法雲と号した。
元統2年(1334年)、順帝が『天目中峰和尚広録』30巻を入蔵させ、普応国師と加諡した。