にだいめ なかむらばいじゃく 二代目 中村梅雀 | |||||
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本名 | 三井進一 | ||||
別名義 | 中村まなぶ(初名) | ||||
生年月日 | 1955年12月12日(68歳) | ||||
出生地 | 日本・東京都武蔵野市 | ||||
血液型 | AB型 | ||||
職業 | 俳優・ベーシスト・作曲家 | ||||
ジャンル | テレビドラマ・映画・舞台 | ||||
活動期間 | 1965年 - | ||||
配偶者 | 瀬川寿子(2006年 - ) | ||||
著名な家族 | 四代目中村梅之助(父) | ||||
事務所 | 土屋企画 | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『八代将軍吉宗』 『毛利元就』 『葵 徳川三代』 『信濃のコロンボ事件ファイル』 『赤かぶ検事奮戦記』 映画 『釣りバカ日誌』 | |||||
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二代目 中村 梅雀(なかむら ばいじゃく、1955年〈昭和30年〉12月12日 - )は、日本の俳優、ベーシスト、作曲家。本名、三井 進一(みつい しんいち)。血液型はAB型。所属事務所は土屋企画。
歌舞伎役者としての続柄は以下の通り。
屋号は成駒屋。
1955年12月12日、四代目中村梅之助の長男として東京都武蔵野市に生まれる。
5歳で芝居の稽古、日本舞踊、義太夫、長唄、三味線、茶道、書道などの習い事をはじめた[1]。
1965年に「中村まなぶ」として初舞台を踏み、劇団前進座で歌舞伎・演劇を学んでいる。
東京都立荻窪高等学校、桐朋学園短期大学演劇専攻を卒業後、祖父の三代目翫右衛門の「基礎を固めろ」との指示に従い、吾妻徳穂 (初代)の内弟子となって日本舞踊を学んだ。4年後に師範名取となっている。
1980年の前進座創立50周年記念公演を機に、曾祖父・二代目中村翫右衛門がかつて名乗った梅雀を襲名、「二代目梅雀」となった。
歌舞伎役者の家系出身者であり、前進座所属であるが、積極的にテレビドラマなどへの外部出演を行っている。
NHK大河ドラマには、ナレーションを含めると11作品に出演。初出演作となった1969年の『天と地と』では祖父・父とも共演しており、1995年の『八代将軍吉宗』で演じた徳川家重役が話題となって知名度をあげた。
2時間ドラマ『信濃のコロンボ事件ファイル』での主演(竹村岩男役)が好評を博してシリーズ化され、映画では『釣りバカ日誌』シリーズでの草森秘書室長役が当たり役となった。
舞台では、1991年に前進座特別公演『煙が目にしみる』の演技が評価され、第46回文化庁芸術祭賞を受賞する[2]。2000年に『大石内蔵助 おれの足音』で主演(大石内蔵助役)[3]、2006年までに全国で縦断公演を行うほどの人気作となり、一躍当たり役となる。その事にちなみ、2016年には赤穂市の第113回赤穂義士祭のイベントで再び内蔵助を演じている[4][5]。
巡業公演『お登勢』の千秋楽(2007年10月5日)をもって前進座を退団し、現在はフリーで活動している[6]。
2006年9月21日、前進座に所属する25歳年下の女優・瀬川寿子と再婚した[注 1]。瀬川は当時25歳だった。2015年7月27日、夫人の妊娠を発表[7]。8月23日、女児が誕生[8]。梅雀にとっては30代の時に前妻との間に儲けた長女に次ぐ第2子となる。
ピアニストだった母の影響で幼い頃ジャズに傾倒し、12歳でベースを始め、中学生時代にバンド活動を開始する。松原正樹、安田裕美らと結成したジャズ・フュージョンバンドで自らエレクトリックベースを弾き、作曲も手がける[注 2]。また、ベースを中心としたギターコレクターとしても知られている。特にジャコ・パストリアスの熱狂的なファンとしても知られており、2009年1月にはパストリアスが使用していたブラックのフェンダー・ジャズベース(シリアルナンバー #028100)を入手している[11]。
梅雀の述懐によると、吾妻徳穂 (初代)に日本舞踊を学んだのは祖父の伝手であった[12]。稽古場では他の弟子からお坊ちゃん扱いを受けており、師匠のお付きをしていても自分の世話をやいてもらっていたという。しかし前進座では自分のことは全部自分でやらなくてはならないうえに先輩の世話もしなくてはならず、梅雀は入座してからその世界になかなかついていけなかった。
前進座は梨園の門閥主義からの独立を目的に立ち上げられた劇団であり、祖父はその創立メンバーであった。実力主義であるべきと考える祖父にならい、父親も後輩には厳しかった。梅雀は何も出来なかったため先輩から総攻撃を受け、在籍していた26年間ずっと梅雀を目の仇にしてきた先輩もいたという[13]。こうして確執が生まれ、それが深まっていった[14]。
また実際の前進座内部は年功序列の世界で、何年経っても32番目であったうえ、外部出演による収入は9割以上劇団に納めなくてはならず、昇給もわずかであった。退座の時点で収入は一般企業の大卒初任給以下であったが、インタビューを受ける際の衣装代・舞台用の化粧品代の出費は自前で、劇団が認めない音楽活動でも出費していたため、借金まみれの状態となっていた。そして、劇団内にモチベーションとなってくれる役者がいなかったことなどから退座を決意[15]。
父親の四代目梅之助は「本来なら止める立場だけれど、できない。お前の苦しさがよくわかるから」と理解を示したという[16]。