中田 喜直 | |
---|---|
1952年 | |
基本情報 | |
生誕 | 1923年8月1日 |
出身地 | 日本 東京都渋谷区 |
死没 |
2000年5月3日(76歳没) 日本 東京都新宿区[1] |
学歴 | 東京音楽学校本科器楽部ピアノ専攻卒業 |
ジャンル | 新しい子どもの歌 |
職業 | 作曲家、社会運動家 |
中田 喜直(なかだ よしなお、1923年〈大正12年〉8月1日 - 2000年〈平成12年〉5月3日[1])は、日本の作曲家。
『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』、『夏の思い出』などを作曲した日本の職業作曲家の一人である。
父は『早春賦』で知られる作曲家の中田章。喜直は三男であり、兄は作曲家・ファゴット奏者の中田一次である。妻の中田幸子は、音楽出版ハピーエコーの代表であり、喜直の作品を多数出版している。
1923年8月1日、東京府豊多摩郡(後の東京市、現在の東京都渋谷区)で生まれる[2]。父が音楽家だったため、幼少より作曲等音楽に興味をもったが[2]、物心がついた頃には、父はすでに病床に伏しており、音楽については兄の一次から教わった。
1933年には最初の歌曲を書いた。1935年には、映画『別れの曲』の影響でショパンに心酔しピアニストを志望するようになる。
1935年に千代田区立番町小学校を卒業[2]。青山学院中学部に進学し、東京音楽学校(現:東京芸術大学)予科に入学、翌年に本科器楽部ピアノ専攻に進学した[2]。田中規矩士と豊増昇にピアノを、橋本國彦に作曲を師事。戦時(太平洋戦争)のため1943年9月に繰り上げ卒業[3]。同年10月に特別操縦見習士官(第1期)となり宇都宮陸軍飛行学校に入校、帝国陸軍航空部隊の戦闘機操縦者となる。陸軍少尉に任官し、四式戦闘機「疾風」を装備する飛行第51戦隊附としてフィリピン戦線やインドネシアに赴き、本土で終戦を迎えた。
ピアニスト志望であったが、手が小さいことから断念し、終戦後の1946年には作曲家グループ「新声会」に入会。歌曲の伴奏を務めるかたわら、作曲家としての活動を本格的に開始する[2]。NHK「ラジオ歌謡」や「歌のおばさん」、「えり子とともに」などラジオ番組にも積極的にかかわり、これらの番組において「夏の思い出」や「かわいいかくれんぼ」「雪の降るまちを」などを生み出している。
1953年にはフェリス女学院短期大学音楽科講師に就任し、その後40年にわたって教職を勤め上げた。在職中、教え子であった幸子と出会い結婚。同校とのかかわりの中で生まれたものに、プロ合唱団「フェリス女声合唱団」(のちの日本女声合唱団)のために書いた多くの女声合唱曲や、著書『実用和声学』(音楽之友社)がある。1988年からは神戸山手女子短期大学でも教えた。
1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。 1979年サトウハチローから日本童謡協会の会長を引き継ぐと時代の移り変わりに低迷しつつあった童謡を盛り立てるために尽力。作詞家、作曲家の新作発表のために童謡祭を新たに立ち上げると、1983年に「日本の童謡」展を開催する。1984年には7月1日が童謡の日に制定される。
一方で、晩年は自らの作品のみならず、古くからの名曲の普及にも尽力するようになった[4]。
2000年5月3日、直腸癌のため死去[2]。享年76歳。
死去するまでに書かれた作品は3000近くといわれている。その全貌はまだ明らかになっていない。校歌や社歌・自治体のための歌も少なくない[2]。
父は「早春賦」が有名で、喜直も日本の四季を題材にした曲を多数作った。春については、「もうすぐ春だ」(内村直也作詞)、「もう春だ」(夢虹二作詞)、「春のむすめ」(立原えりか作詞)、「ああプランタン無理もない」(サトウハチロー作詞)等がある。生前、喜直は、春の歌に関しては、次のように書き残している。
春の歌を色々作ったのだが、どうもヒットしない。そこでなぜか考えていたら、ふと思い当たることがあった。「早春賦」という歌が今でもよく歌われているが、これは私の父(中田章)の作曲した唯一知られている歌曲で、あとは何もない。歌われている曲がたった一つしかないのである。それが春の歌であるから、私はなるべく邪魔をしないで、敬意を表することにした。などと言って、講演の時に聴衆を笑わせることがある。[5]
中田には社会運動家・提唱者としての側面もあった。とりわけ嫌煙運動家としての顔が知られており、1980年には渡辺文学と『嫌煙の時代』(波書房)を出版している。『随筆集 音楽と人生』(音楽之友社)では、第2章「タバコについて」、第9章「もう一度タバコについて」、第10章「野球のこと、そしてまたタバコのこと」と、全10章中3章がタバコ関連の文章で占められており、これら以外の章にも散見される。熱心な嫌煙家になったきっかけは、父が晩年に結核に倒れてもなおタバコを吸い続けるほどの愛煙家であり、その彼を見ていた母からタバコの害を聞かされていたことだという。「中田はよく音楽にまつわる講演を頼まれたが、普通なら忙しくて断わるときでも、『タバコの話』さえできれば、喜んでどこへでも出かけて行った」[6]。嫌煙の厳しい態度は他者に対しても及び、「木下さんはヘビースモーカーだったから、完全に十年は早く死にましたね。日比谷公会堂のステージの袖に「火気厳禁」と書いてある。そこでタバコを吸ってましたね」[7]「いつか中田先生がおかあさんコーラスの全国大会の選考委員になられた時、途中で気持わるくなられたでしょう。あの時吉村副理事長が『タバコを吸わなくても、そうなるじゃありませんか』って言ったら『タバコを吸わないからこのくらいで済んだんだ』って(笑)」[7]。自分の手が小さく、ピアノを弾くのに苦労したという中田は、ピアノを習う子供たちのために鍵盤の幅を細くすることを提唱した。提案だけでなく実際に作らせ、自身の作曲に使用した。「コンクールなどで手の小さな人が必死になって弾いているのを見ると、かわいそうだなと思いますよ」[8]「外国から来たピアノという楽器は、日本人の体に全く合っていない。ヴァイオリンなどは小さい楽器で始めるし、大きくなっても8分の7を弾いてる人がいるし、セロなども大型の外人用では弾けないというので、ちょっと小さいので美しく弾けばいいということになっている。ピアノだけはLLサイズ、靴でいえば27とか28サイズぐらい(笑)。それを小さい時から弾くというのは大間違い」[8]。「細幅鍵盤運動」は嫌煙に次いで力を注いだ分野であったが、「いくら言ってもわからない。もう信じてるんだね。ピアノはこの大きさだって。スポーツだって子どもの時に大人のプロが使う道具でやることはないですよ」[8]と嫌煙運動ほどの反響を得ることはできなかった。また、政治や社会の問題に対しても積極的に発言し、読売新聞「気流」欄や朝日新聞「声」欄に熱心に投稿した。騒音問題(駅や飛行機のBGMも彼にとっては「騒音」であり、車掌やスチュワーデスに音楽を止めるよう直接要求したことさえある)、反核・反地雷、憲法改正など彼の発言は多岐にわたる。
君が代について、次のように述べ、君が代のメロディによく合った日本国民のみんなが納得するような内容の歌詞をつけ直してはどうか、と提言し、自ら国歌改作者として名乗りを上げたという。
メロディはいいのだが、言葉とメロディが全く合っていないのだ。歌詞が短くて、メロディが長い。それを無理に合わせようとしたので最低の歌曲になってしまった。(中略)歌曲は、言葉(歌詞)とメロディがよく合っていて、自然にきこえなければ駄目です、ということなのだ。「なつがくーればおもいだす」ならば不自然ではないが、
「なーつがくれーばおーもいだすう」では気持ち悪くて誰も歌わないだろう。(中略)
私はいろいろな会で「君が代」が演奏された時、必ず立上がってきちんとした姿勢をとる。しかし決して歌わない。出来そこないの歌だから歌えない[5]。
憲法改正について、日本国憲法は、「かなり短い時間で作られたもので、あの戦争や日本が負けたことを考えれば、それなりによく出来ており、特に戦争放棄やその後自衛隊が出来てからの海外派遣の禁止等も、日本の運命の重大な不幸を未然に防いだ効果は非常に大きい」としながらも、「世界情勢と日本国憲法を普通に常識的に見てみると、今の憲法が日本と世界の現実と合っていないことがわかる」として、憲法改正を主張した。皇室について、「黛敏郎氏とはまったく違うが、皇室を大切にしたいという気持は十分にある」とし、天皇を日本国および日本国民統合の象徴とする規定は、物体でない人間に国民の精神的な連帯の絆を求められては「天皇はたまったものではない」と述べ、むしろ「『天皇は、日本国の伝統文化の象徴である』という風に直したいと思っている」と述べている[5]。
のちに合唱曲に編曲された作品も少なくない。
閉校した学校も含む