中華法系(ちゅうかほうけい)は、中国という国で生活している人々が長い間に作成してきた法の全体をさす言葉であり、世界史上に、ローマ法系、インド法系、イスラム法系、大陸法系、英米法系とならぶ法系の一つである[1]。
「始於兵」(戦争から始める)、「師出以律」(律で戦争を指揮する)、「兵獄同制」(戦争と処罰は同一制度である)などの言葉からわかるように、中華法系の法源は戦争中の需要から始まり、中華法系における最初の法は軍事行動の過程で形成された軍法から脱皮したものと推測できる[1]。「黄帝以兵定天下、此刑之大者」(黄帝は戦争を通じて天下を抑え、これは最も厳しい刑罰である)とも言われるように、法は「刑」と密接な繋がりをもつ[1]。中華法系のもう一つの内容は礼である[1]。中国法制史に関する主流の説によると、礼は祭祀から発生したものである[1][2]。古代の人々は祭祀活動を行う際、礼器を用いて畏怖の念を表す[1]。その過程で自然神や先祖を祭り上げ、「礼」すなわち幸福を祈願する典礼儀式が形成された[1]。『詩経』「豊年」にも豊作に感謝して農事に関する祭事が行われたとの記述がある[2]。「刑」と「礼」は中国古代法を構成する二つの基本体系である[1][2]。しかし、当時の社会生産力は非常に低く、人々の自然界に対する認識能力も低かったため、社会に素朴な「天命」や「鬼神」の迷信思想が氾濫していた[3]。夏代や商代では例外なく、自己の政権は「受命於天」(天に政権を授与された)とその正当性を主張し、敵への討伐は「代行天罰」(天のかわりに懲罰を行う)として天の力を借りなければならなかった[3]。
紀元前11世紀に、周の武王は商王朝政権を滅亡させ、周王朝を樹立した[3][4]。周代は西周と東周に分かれ、西周王朝は紀元前770年に首都を洛邑に移すまで、12人の国王の交代を経て200年余にわたり支配を続けた[3][4]。西周王朝は比較的発達した宗族国家として商王朝の天命鬼神思想を受け継いだが、「受命於天」(天に政権を授与された)と自称した夏代や商代の政権が「命不於常」(政権が長続きしなかった)という認識から「敬事上帝」(神を敬愛し、それに仕える)のみでなく「不可不敬徳」(道徳を重んじなければならない)ことを悟った[3]。このことから西周王朝の支配者は「敬徳保民」(道徳を尊敬し、民を保護する)という政治思想と「明徳慎罰」(道徳を顕彰し、刑罰を慎む)という法律思想を打ち出した[3]。西周初期の周公旦は、「天惟時求民主」(天はいつも民意を求める)、「民之所欲、天必従之」(民の欲するところ、天は必ずそれに従う)と繰り返し強調した[5]。もちろん「明徳慎罰」の思想は刑罰を放棄するものではない。造反に立ちあがった「小人」に対しては「刑茲無赦」(刑罰を加えて赦すべからず)だった[5]。さらに、これら「明徳慎罰」と「刑茲無赦」の法律思想の下、「刑罰世軽世重」の原則を定め、「刑新国用軽典、刑平国用中典、刑乱国用重典」(社会秩序が良い所は軽い刑罰で臨み、社会秩序が普通の所は中程度の刑罰で臨み、社会秩序の乱れている所は重い刑罰で臨む)を採った[5]。このようにして、西周王朝の支配者は天と徳、徳と刑を巧みに結びつけ、夏、商代の刑罰一点張りから徳礼を以って民を教化し、刑罰による弾圧を控え、人間、事情、時期、地方の相違に応じた異なる刑罰措置を採るように変わった[5]。徳と刑の両立する法律思想と法の実践は西周王朝支配者の統治術の進歩と成熟を表し、中華法系思想の大きな発展を示す[5]。
紀元前770年に周王朝が、首都を宗周から成周へ移転してから、紀元前221年に秦の始皇帝による中国最初の統一政権の成立までは、東周または春秋戦国時代と呼ばれる時代である[4][5]。この時期中国古代社会は大動乱、大変革の時期に入り、各種の政治思想や法律思想の流派が競い合った[5]。「諸子百家」とも呼ばれる知識人たちが各国の為政者に、国をいかに収め、さらにその先に天下を如何に統一させるかという道理を説いて回った[6]。主な流派として、儒家、墨家、道家と法家があげられる[5]。
紀元前202年に立てられた漢王朝は秦王朝の滅亡の教訓を鑑み、法家の法律思想を敬遠し、「無為の治」を主張していた道家の法律思想を採りいれ、「約法省刑」(法律を簡略化させ、刑罰を緩和させる)を指導方針とした[18]。 秦王朝法制を受け継ぎながら、その中の厳しい法律を廃止し、一部肉刑を廃止した[18]。それと同時に、漢王朝前期の数10年間は、朝廷による民衆からの租税徴収を緩和させる政策も施行したため、民衆は秦王朝の恐怖政治から解放され、生産意欲が高まり、国富が史上の最盛期に達した[18]。「文景の治」はまさにこの時期の繁栄を称えるものである[18]。しかし、道家の「無為の治」を極端なまでに推し進めた結果、朝廷の統制力が次第に弱まり、紀元9年についに朝廷が王莽に乗っ取られ、農民一揆が頻発するようになった[20]。光武帝劉秀は漢王朝を立て直し、首都を洛陽に移転し、後漢王朝の支配を始めた[20]。漢武帝は法家の過度な残酷性の弊害と道家の過度な無為性の弊害を見極め、新しい法制の模索に取り組んだ[20]。この過程で漢武帝は、儒学者董仲舒が打ち出した「百家を廃止し、独り儒学を尊ぶ」理論を受け入れた[20]。この理論の核心は、儒家と法家を合流させ、道徳を中心に、刑罰を補助的なものにすることにあった[20]。その理論的基礎は陰陽五行説である[20]。董仲舒は、天地宇宙は陰陽の変化から構成されたものであり、両者はお互いを必要とし、一方は他方を欠いてはならないとする[20]。しかし、両者は対等の地位にあるのではなく、陽が主で陰が二次的で、陰が陽を支えるものと説いた[20]。さらに董仲舒は、天道を人事になぞらえ、天道と人事を一体化させ、道徳と刑罰との関係は陰陽関係と同様に、互いに表裏を為していると主張した[20]。支配者は天道に従い、徳礼による教化を主に、刑罰による懲罰を補助的なものにすべきと主張した[20]。すなわち道徳と刑罰を併用し、令と法を融合すべきと強調した[20]。この法律思想は儒学の倫理道徳や礼教を利用して各種の社会関係を調整し、人々に自動的にそれを順守させ、君主専制主義の支配に服従させようとすると同時に、天道陰陽をもって徳礼と刑罰の関係を論証したため、刑罰に普遍性、永久性と神聖性の特徴を持たせた[20]。そのためこの理論は統治者にとって都合のよいものであり、後漢から清代の崩壊までの約1900年間に亘り歴代支配者は例外なくこれを使い続けた[20]。
三国、両晋、南北朝は王朝の交代が頻繁に行われ、各地で政権が林立する分裂と割拠の時代だった[21]。この数百年にも及ぶ長い期間において、各王朝または国家は法律制定や法制の建設の面でさまざまな模索をしていた[21]。例えば、西晋は史上初めて礼の内容を法律の条文として『晋律』に書きこみ、『北斉律』が新しい法律体系を作ったことなどは後世の法制に大きな影響を与えたものである[21]。隋・唐代になって、中国は再び統一を実現した。特に唐王朝は300年以上続いた長期王朝で、大掛かりな法整備作業を行っていた[21]。唐太宗李世民など唐初期の為政者は、隋王朝が建国後間もなく滅亡した教訓に鑑み、西周時代の「明徳慎罰」、後漢時代の「徳主刑輔」の法思想を参考に、「徳礼為政教之本、刑罰為政教之用」(道徳礼儀は政治教化の本とし、刑罰は政治教化の用立てとする)の法思想を提起した[21]。また、この思想の指導をもとに、「立法寛簡、慎獄恤刑」の法制原則が打ち出された[21]。その意味は以下のように説明される。第一に、刑名、刑期、法律の適用に関する原則、基準および具体的な内容について、立法は緩やかで、刑の適用は適切でなければならない[21]。第二に、法律や法規の制定にあたり、法の条を簡潔化させ、分かりやすく書かなければならない[21]。第三に、法律の条文から厳しい条項を排し、法を執行する時に、厳格に法に従い、有罪者に無罪を言い渡したり、無罪者に有罪を言い渡したりすることなく、刑罰の適用を慎重にしなければならない[21]。
中華法系において、漢字圏で使われている「法律」という用語の登場は遅く、それぞれ「刑」、「法」や「律」が使われていた[22]。この三文字はみな法律のことを意味していたが、二文字の連用はずっと後のことである[22]。清末の法制近代化の過程で、『大清刑律』という法律草案が公表されたが、その刑律とは、刑事法を意味し、広い概念の法律を意味するものではなかった[22]。中国法制史上では、法律としての用語は刑から始まり、法を経て、律に定着したのである[22]。夏、商、西周王朝から春秋時代まで、法律のことは「刑」と呼ばれていた[22]。春秋時代に入ると、法律のことは「法」と呼ばれるようになった[23]。法律のことが「律」として呼ばれたのは、秦国での法制改革を推進した時である[23]。それ以降、清代に至る2100年間において、宋代に『刑統』、元代に『通制』と呼ばれた以外は、全て「律」と呼ばれていた[23]。 唐代は、中華法系を爛熟させた王朝としてその功績を歴史に残している[24]。律令法体系は、「律」「令」「格」「式」の4種類の法典から構成される法典の体系であるが、ここでいう「律」とは、「○○せよ」「○○するな」という規範と、それに違反した者への罰則を規定した刑罰基本法典である[25]。『武徳律』から737年(開元25年)の「律」に至るまで、いずれの「律」も、隋時代の『開皇律』と同じく、名例律・衛禁律・職制律・戸婚律・厩庫律・擅興律・賊盗律・闘訟律・詐偽律・雑律・捕亡律・断獄律の12篇目で構成されていた[26]「律」の文意を逐条的に明らかにする公的注釈書として作成された「律疏」も「律」と同等の効力をもった[26]。一般に「唐律」といえば、開元25年の唐律を指す[26]。この年に完成された『唐律疏議』は正に中華法系の集大成法典といってよい[24]。現存している『唐律疏議』は法律と注釈合わせて全30巻、12編502箇条からなる[27]。第1編「名例律」は、法定罪名、刑名および量刑の適用原則を定め、唐代の立法指導思想や法制原則を定める[27]。第2編「衛禁律」は、皇帝、宮殿、太廟、陵墓および関津、軍隊の駐屯、国境防衛、要塞の守衛について定める[27]。第3編「職制律」は、国家機関の設置と定員、国家官吏の選抜・任用・賞罰に関する行政的規定である[27]。第4編「戸婚律」は、戸籍、土地、賦役、婚姻、家庭、相続に関する民事法律規定である[27]。第5編「厩庫律」は、家畜の飼養・管理や倉庫管理および官有物管理を定める[27]。第6編「擅興律」は、徴兵、軍事指揮、武器管理、戦闘規律および官有物所有に関わる規定である[27]。第7編「賊盗律」は、謀反、反乱、殺人、強盗、誘拐、官私財産の不法占有等社会的犯罪を取り締まる規定である。第9編「詐偽律」は、詐欺、偽造、偽証等の犯罪行為の懲罰を定める[27]。第10編「雑律」は、前記各編に収められない犯罪を規定し、内容は交通、計量、造幣、市場管理、医療衛生、公共施設、環境保護、倫理関係等を定める[28]。第11編「捕亡律」は、主に捜査、逮捕等の手続きに関する規定である[28]。第12編「断獄律」は、審判、判決、刑罰の執行、監獄管理に関して定める[28]。この法典は、法体系の構成、条文の簡潔さ、概念の明晰さ、用語使用の適切さ、論理の綿密さ、注釈の理論的工夫等のあらゆる点で中華法系の空前絶後の高みに達したと言われる[28]。また、この法典は中華法系の歴史に終止符がうたれた1911年まで歴代の法制に深甚な影響を与えた[28]。のみならず東アジア諸隣国にも多大な影響を与えた[28]。例えば日本の『大宝律令』のうち11編の題名と順序は唐律と全く同じであり、内容も似ているものが多かった[28]。朝鮮においては「高麗一代の制度は大体唐を模倣したものであり、刑法についても唐律を採用した」と『高麗史』にも記されている[28]。また、ベトナムや琉球王国および中央アジア諸国の古代法典の中からも唐律との源流関係を持つ法条文を見出すことができる[29]。
中華法系は習慣法時代を入れて計算すれば3千数百年、成文法の登場から起算すれば2千数百年にわたり、中国の法規範として適用され、中華文明の形成に大きく寄与した[29]。世界史上の他の法系と比べて中華法系は共通する特徴もあれば、独特の特徴も持っている[29]。