なかにし すすむ 中西 進 | |
---|---|
2013年(平成25年)公表 | |
生誕 |
1929年8月21日(95歳) 東京府豊多摩郡高井戸町松庵 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 文学 |
研究機関 |
成城大学 筑波大学 国際日本文化研究センター 帝塚山学院大学 大阪女子大学 京都市立芸術大学 池坊短期大学 |
出身校 |
東京大学文学部卒業 東京大学大学院 東京大学大学院文学研究科修士課程修了 東京大学大学院 文学研究科博士課程修了 |
博士課程 指導教員 | 久松潜一 |
主な指導学生 |
リービ英雄 三浦佑之 小宮山洋子 桑原征平 |
主な業績 |
万葉集の比較文学的研究 万葉史の研究 |
影響を 受けた人物 |
高木市之助 土居光知 |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1964年) 日本学士院賞(1970年) 和辻哲郎文化賞(1990年) 大佛次郎賞(1997年) 菊池寛賞(2010年) |
プロジェクト:人物伝 |
中西 進(なかにし すすむ、1929年〈昭和4年〉8月21日 - )は、日本の教育者・文学者(日本文学・比較文学)。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1962年)。国際日本文化研究センター名誉教授、大阪女子大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授、奈良県立万葉文化館名誉館長。文化功労者。文化勲章受章。
東京学芸大学附属高等学校教諭、成城大学文芸学部教授、筑波大学歴史人類学系教授、国際日本文化研究センター教授、帝塚山学院大学教授、帝塚山学院大学国際理解研究所所長、大阪女子大学学長、日本学術会議会員、学校法人帝塚山学院理事長、京都市立芸術大学学長、池坊短期大学学長、奈良県立万葉文化館館長、高志の国文学館館長などを歴任した。元号「令和」の考案者と目されるが、「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」と発言している[1]。
東京府出身の日本文学者、比較文学者、万葉学者である。『万葉集』の比較文学的研究、および、万葉史の研究で知られており[2]、日本学士院賞などを受賞している[2]。
高等学校の教員を経て、成城大学[3]、筑波大学[3]、国際日本文化研究センターなどで教育や研究に従事した[3]。大阪女子大学[3]、京都市立芸術大学[3]、池坊短期大学においてはそれぞれ学長を務め[3]、帝塚山学院では理事長や学院長を務めるなど[3]、教育研究機関の要職を歴任した。
1929年、東京府[4]豊多摩郡高井戸町松庵(現・東京都杉並区松庵[5])にて生まれた。父新太郎は内閣統計局に勤める官僚、母は元小学校教諭[5]。4人兄弟の長男[5]。父が鉄道省に出向していたため、戦中の1942年広島県広島市に転勤となり[5][6][7]、小学校5年から約4年間を広島で過ごす[5][7]。広島大学附属中学校を経て[7][8]、旧制東京都立武蔵中学校、東京大学に進学した[9]。
『百人一首』は小学生時代から暗記していた[10]ものの、後にライフワークとなる『万葉集』との本格的な出会いは、太平洋戦争終戦で復学した旧制中学校4年生の授業で、最初は教師に「赤人とか黒人とかへんな名前ですけど」と意味を尋ねるほどであった[11]。
東京大学では文学部国文学科にて学び[9]、国文学者の久松潜一に師事した[4]。1953年、東京大学を卒業し[9]、文学士の称号を取得した[9]。同大学の大学院に進学し[9]、文学研究科にて学んだ[9]。卒業論文は「上代文藝における散文性の研究」[10]。大学院生になってからも、引き続き久松に師事した[4]。1954年には東京都立雪谷高校の定時制で講じた[12]。1955年に修士課程を修了し[9]、文学修士の学位を取得した[9]。1959年に博士課程を退学したが[9]、30代で博士論文「萬葉集の比較文学的研究」[13]を執筆し、1962年に文学博士の学位を取得した[9][14]。また、この論文により1963年に第15回読売文学賞を受賞した[3][15]。以後、日本古代文学と中国文学との比較研究を始める。また、国文学者の高木市之助に私淑してその美学を学ぶとともに[4]、英文学者の土居光知よりユーラシア文化学を学んだ[4]。
東京学芸大学附属高等学校教諭などを経て、1970年に成城大学にて文芸学部の教授に就任した[9]。また、プリンストン大学客員教授を兼任した[3]。1984年、筑波大学に転じ歴史人類学系の教授に就任した[9]。1987年、国際日本文化研究センターに転じて教授に就任した[9]。また、トロント大学客員教授を兼任した[3]。1995年、帝塚山学院大学に転じ[9]、教授に就任するとともに[9]、国際理解研究所の所長を務めた[9]。
そのほか、京都大学[9]、大阪大学[9]、神戸大学[9]、兵庫教育大学[9]、名古屋大学[9]、広島大学[9]、静岡大学[9]、金沢大学[9]、富山大学[9]、東京電機大学[9]、東京学芸大学[9]、静岡女子大学[9]、日本大学[9]、上智大学[9]、二松學舍大学[9]、藤女子大学[9]、ノートルダム清心女子大学[9]、広島女学院大学[9]、サイバー大学にて[9]、それぞれ講師を兼任していた[9]。また、サンパウロ大学[9]、プラハ・カレル大学[9]、復旦大学[9]、天津師範大学[9]、鄭州大学[9]、蘇州大学[9]、中国社会科学院[9]、在中国日本研究中心[9]、高麗大学校にて[9]、それぞれ客員教授を兼任した[9]。
1997年、大阪女子大学にて学長に就任した[9]。2001年、帝塚山学院にて理事長および学院長に就任した[9]。2004年、京都市立芸術大学にて学長に就任した[9]。2011年、池坊短期大学にて学長に就任した[9]。なお、学長退任後、大阪女子大学や京都市立芸術大学から名誉教授の称号が授与された[9]。また、姫路文学館館長[3]、奈良県立万葉文化館館長[3]、などといった要職を歴任した。1993年から1999年まで日本比較文学会の会長を務め、歌壇賞の選考委員や日本ペンクラブの副会長も務めた。
1994年、歌会始にて召人を務めた。1997年、全国大学国語国文学会にて代表理事となり、組織改編後は会長となった。2012年7月6日に開館した高志の国文学館においては、初代館長に就任した[16]。そのほか、京都市中央図書館館長[3]、京都市右京中央図書館館長[3]、田辺聖子文学館館長[3]、堺市博物館名誉館長[3]、奈良テレビ放送文化スタジオ・こころ大学学長、平城遷都1300年記念事業協会理事なども務めた。また、NARA万葉世界賞、親鸞賞、読売あをによし賞、大阪文化賞、山片蟠桃賞においては、それぞれ選考委員を務めた。
世界の宗教的和解を目指すインドの仏教高等研究センター「ナーランダ大学」の復興・創設の賢人会議・理事会メンバー。
専門は文学、日本文学・比較文学・万葉学といった分野の研究に従事した。『万葉集』研究の第一人者とされており[17]、万葉集の比較文学的研究、および、万葉史の研究で知られる。万葉集の成立過程を論じた業績は「中西万葉学」とも評され[17]、「現代国文学界の象徴的存在」[9]と謳われるに至った。
30代にて「万葉集の比較文学的研究」が評価され[15]、第15回読売文学賞を受賞している[15]。また、漢字本文・現代語訳・注を収めた、文庫『万葉集』のテキスト講談社文庫『万葉集』(全4冊と万葉集事典1冊)を編集。研究・評論も多く著書は100冊を超える。角川書店にて上梓した『万葉と海彼』が評価され[18]、第3回和辻哲郎文化賞を受賞している[18]。また、岩波書店にて上梓した『源氏物語と白楽天』が評価され[19]、第24回大佛次郎賞を受賞している[19]。
さらに、小学生に万葉の魅力を伝えるため、「万葉みらい塾」を開催し全国の小学校を訪れている。この活動が評価され、2010年に菊池寛賞を受賞している[3]。高校生にも万葉の魅力を伝えるため[3]、「万葉青春塾」も開催している[3]。また、奈良テレビ放送の『中西進の万葉こゝろ旅』にレギュラー出演し[9]、万葉集の故地を探訪して歌の解説をしていた。それが評価され、奈良テレビ放送文化賞を授与された[9]。長年にわたる万葉集の比較文学的研究、万葉史の研究が評価され[2]、1970年5月29日には日本学士院賞を受賞した[2]。
また、山上憶良を朝鮮半島からの帰化人とする説を提唱した。しかし、この説には青木和夫や佐伯有清が歴史学の立場から批判を加えている(詳しくは山上憶良の記事を参照)。
高校教師時代の教え子に、エジプト考古学者の吉村作治(早稲田大学教授)、大沢悠里(獨協高校時代の教え子)、近藤崇晴(元最高裁判所判事)、プリンストン大学時代の学生にリービ英雄(法政大学教授)、成城大学時代の教え子に三浦佑之(千葉大学名誉教授)、辰巳正明(國學院大學名誉教授)、小宮山洋子(元厚労相)、桑原征平(元関西テレビアナウンサー)、石川雅之(映画演劇評論家・鎌倉市文化担当課長)[31]、塩沢一平(二松学舎大学教授)、斎藤由香(エッセイスト、北杜夫の娘)がいる。