丸山 薫(まるやま かおる、1899年(明治32年)6月8日 - 1974年(昭和49年)10月21日)は、日本の詩人。男性。海軍軍人の松田千秋は義弟(妹こまの夫)にあたる。
官吏をしていた父の任地大分県大分市で生まれる[1]。1歳で長崎市へ移り、以後東京、京城、松江などを転々としたが、父が亡くなったあと、小学6年の秋に母方の祖父を頼って家族4人で愛知県豊橋市に移り住んだ[2]。身内はそこで旅館業をしていたという。豊橋市立八町小学校を卒業し、愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業[3]。海洋への憧れから、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を志し、2度目の受験にして合格するが、まもなく脚気のため退学する。この海への憧憬と挫折が、後の詩作の重要なモチーフとなる。その後、第三高等学校(現・京都大学)に移り、そこを卒業する。この時代から、桑原武夫、三好達治、梶井基次郎らと親交を持つ。その後、東京帝国大学(現・東京大学)文学部国文科に入学する。第九次「新思潮」の同人になる。
1928年(昭和3年)に高井三四子と結婚し、同年大学を中退、詩の活動に専念するようになる。船員を志しながらそれを絶たれたことから、船や海、異国にまつわる詩には彼独自の世界が見られる。1933年(昭和8年)に堀辰雄らと「四季」を創刊し、翌年「幼年」で文芸汎論詩集賞を受賞する。晩年の萩原朔太郎と親しく交流する。
終戦を挟んで1944年(昭和19年)から1948年(昭和23年)までは山形県西川町岩根沢に疎開し、そこで岩根沢国民学校の代用教員をした(現在、丸山薫記念館がある)。1948年に身内のいた愛知県豊橋市東雲町に移り、のち東田町東前山へ移る。そこで愛知大学講師(客員)になり、のち客員教授などを務める。1954年(昭和29年)に豊橋文化賞を受賞する。1956年(昭和31年)に、豊橋市多米町蝉川(現・東小鷹野)の家に移る。ここがついの住まいとなる。三好達治などもそこを訪れた。作家の城山三郎がまだ愛知教育大学で経済学の講師だった頃、丸山を自宅に訪ねたこともあるという。1974年10月21日、脳血栓のため豊橋市の自宅で死去[4]。
代表作に、詩集『帆・ランプ・鴎』(第一書房、1932年12月)、詩集『仙境』(青磁社、1948年3月)、詩集『月渡る』(潮流社、1972年9月)など詩集16冊と短編小説集『蝙蝠館』、エッセイ『蝉川襍記』(蝉川は、彼が住んだ豊橋鉄道市内線「赤岩口」電停界隈の地名、川の名前ではない)などがある。1976年に『丸山薫全集』全5巻が刊行され、2009年には第6巻を増補した『新編 丸山薫全集』が刊行されている。
豊橋市は丸山の業績を記念して、丸山薫賞を設けている。2004年3月、丸山薫賞を設けて10周年を記念して、豊橋市は『丸山薫賞名詩選』を刊行している。編集委員は伊藤桂一が務めている。丸山薫の文学碑は、豊橋市高師町北原の高師緑地(たかしりょくち)にある。また、山形県西川町では1994年に西川町制施行40周年を記念して、丸山薫少年少女文学賞「青い黒板賞」詩作コンクールを開始して、今日に至っている。審査委員長は長らく杉山平一が務めた。このコンクールの最初の提案者は、意外なことに小田実である。西川町岩根沢小学校(閉校中)校庭には、1972年に完成した詩碑がある。