二天一流

二天一流
にてんいちりゅう
流祖・宮本武蔵像 下段の構
流祖・宮本武蔵像 下段の構
使用武器 日本刀 
発生国 日本の旗 日本
発生年 江戸時代 
創始者 宮本武蔵(藤原玄信)
源流 筑前福岡の伝承では無二流。肥後熊本での伝承では當理流
主要技術 剣術
伝承地 全国各地
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二天一流(にてんいちりゅう)は流祖・新免玄信(宮本武蔵)が、晩年に熊本市に位置する霊巌洞(れいがんどう)で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。二天流武蔵流などとも呼ばれた。現在も、山東派と野田派が伝承されている。[1]

流祖宮本武蔵の思想

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敵とうちあふ時の利におゐてハ、表にて戦、奥を以てきると云事にあらず

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古代における諸道は、院政期に始まる官司請負制の結果、親-子を単位として受け継がれていくことになる。これが家職の始まりである。[2]

室町以降になると、武家社会が生み出した故実や武芸についても、その専門を担う流派が成立した。[3]

中世に生まれたこれらの家・流派には、多くの場合、競合する家・流派が存在した。ライバルに対して優越すべく、彼らは知識を秘匿化、あるいは神秘化する傾向を示した。これが秘伝である。[4]

そうしたなかにあって、宮本武蔵が『五輪書』風の巻にて、奥義や秘伝書を有する流派に対しては、真剣の斬り合いにおいて、表で戦い奥義で斬るということはなく、最初から神髄を伝え、当人の技量に応じて指導すべし[5]という趣旨を記し、無用な神秘化を避けたことは画期的であった。

歴史

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宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手二刀流などを含む當理流(肥後系の伝承)または無二流(筑前系の伝承)の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流という自流を立てた。[6]晩年、右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ[7]、その兵法理念を『五輪書』の草稿に書き表した[8][9]林羅山の賛(『羅山文集』所収)からすれば、武蔵は江戸にいた時から「円名流」を改め、「二刀一流」を名乗っていたようである。寛文18年『兵法三十五箇条』では「二刀一流」で、『五輪書』になって「二天一流」と称するようになるが、その『五輪書』でも所々「二刀一流」と書いている。[10]、志方系は熊本藩に二天一流兵法と届け出ており[11]、村上正勝系はは熊本藩に二天一流兵法と届け出ていることから[12]、武蔵の死後は二天一流が定着した。[要出典]後世には、二天流武蔵流の名も用いられている。[注釈 1]

宮本武蔵武蔵逝去後の肥後熊本での伝承

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武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが[17]、一流相伝を受けたのは、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をし、『兵法三十九箇条』を相伝された寺尾求馬助信行で[17]、武蔵の死後、二天一流はこのふたりを中心に伝えられた[18]

武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」[17]と書かれている。

寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提次兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている[17]

寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させた[19]

宝暦5年(1755年)に時習館 (熊本藩)が設立されると、武芸稽古所には東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)が設けられ、志方半兵衛之経は東榭の剣術師範のひとりとして、村上平内正勝は西榭の剣術師範のひとりとして登用され[20][21][13]、この二人が当時二天一流の代表的な師範として熊本藩に認知されていたことが分かる[13]

宝暦7年(1757年)に八代に文武稽古所を設立され、武芸所は教衛場と呼ばれた[22]。時期は不明だが、村上平内正勝の弟の村上正之(村上八郎右衛門正之)が剣術の師範として登用され、村上正之の死後は弟子の豊田景英が教衛場の師範となった[15][13]

村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、志方・村上両師範家の教えを統合した。[要出典]

寺尾求馬助の五男である寺尾郷右衛門勝行は、兄である新免弁助信盛からも学び、道統は後に山東家に伝えられた。[要出典]

熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝える楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認された。[23]

宮本武蔵武蔵逝去後の筑前福岡での伝承

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なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門美矩は福岡藩黒田家家臣の吉田太郎右衛門実連に伝えた。

実連の弟子である立花峯均は武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(本来の書名は『武州伝来記』という説がある。また『丹治峯均筆記』という通称も知られる)を著した。

立花峯均の遠島と赦免を経て、道統は立花系と早川系に分かれて伝承された。[24][25][26]

早川系は、大塚作太夫重寧の養嗣の大塚可生重庸のときに、福岡藩から剣術家業を命じられ、重庸の養父の重寧から廃嫡されていた大塚藤郷はその後見教授を命じられ、藤郷自身にも新たな家禄が与えられた。[27]大塚家の現在の薬院にあった道場は、全盛期には3,000坪を越える道場であった。[28]

越後での伝承

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さらに福岡藩の二天一流は江戸後期に、立花峯均の孫弟子の丹羽信英が筑前黒田家の江戸藩邸を出奔し、明和6年(1769年)に越後に至り、享保の紫雲寺潟干拓事業完了後の紫雲寺郷で後半生を過ごしたことによって越後に伝えられ、明治中期までは伝承された[29]

特に丹羽信英の弟子の渡部六右衛門行信を嚆矢とする三日市藩上今泉流がもっとも盛んで、この門流から三日市藩川口流、黒川藩大平流、黒川藩石喜流、桑名藩柴橋流が生まれた。[30]三日市藩上今泉流は門人500人、三日市藩川口流は門人200人と記録される。[31]

丹羽信英の弟子の伊藤理右衛門遠風を嚆矢とする新発田藩流、丹羽信英の弟子の赤見俊平有久を嚆矢とする村上藩流も伝承された[30]

幕末から明治にかけての肥後熊本での動向

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嘉永3年(1850)5月8日に、熊本時習館の師役の山東半兵衛の弟子宮崎政賢(宮崎長兵衛)が、師の子息で、後に熊本時習館の師役となる山東新十郎清武とともに全国開国修行に出立し、同年12月に帰藩した。廻国のルートは、讃岐の多度津・丸亀両家中を振り出しに、狼華の天真館、江戸では斎藤・千葉・伊庭の大道場の他に今治・津・柳河・館林・島原の諸家中、その後は佐倉、香取、土浦、笠間、水戸、棚倉、仙台、山形、会津、白河、宇都宮、壬生、古河、安中、小諸、上田、膳所を歴遊し、最後は高槻で畢っている。手合わせした相手のほとんどは、諸藩師家や著名な大道場の門人たちである。試合数は689名に及び、最も多い日は51名(水戸・神道無念流長尾理平太門人)を数えた[32][33]。この時の長兵衛の足跡は、この3年後の嘉永6年(1853年)から安政元年にかけて佐賀藩士で二刀鉄人流師範の牟田高惇が藩命を受けて廻国修行した時のルート[34][35]と重なり合う部分が多い[33]


明治3年(1870)に熊本時習館は廃止されたが、剣術師家17家中、最大の5家を占めたのは二天一流と新陰流疋田景兼の系統の新陰流)であった[36]

廃藩置県後の明治5年(1872)、熊本県の山東新十郎清武は、加茂川村加惠荒目鶴に道場を開設し、二天一流や揚心流(楊心流)柔術を教授した。門弟の数は6,000名で明治6年から7年にかけて隆盛したが、明治10年に閉場した[37]

1877年(明治10年)の西南戦争の折り、山東山東新十郎清武は熊本隊十六番隊長として西郷軍に加担。清武長男は田原坂の戦闘で戦死。宮崎長兵衛の長男宮崎八郎は協同隊総参謀として西郷軍に加担し、八代で戦死。[38]

西南戦争後に武道を見直す機運が高まり、明治15年(1882)熊本県にて振武會が設立され、山東新十郎清武は創立委員のひとりであった[39]。明治30年(1897)大日本武徳会熊本支部の設立に伴い、振武會は解散[40]

山東新十郎清武は、明治35年(1902年)に京都聖護院で開催された大日本武徳会の演武会に出場。弟子で京大総長の木下広次が打太刀を務めた。[41][42]

明治42年(1908年)、山東新十郎清武は青木規矩男久勝に兵法二天一流宗家師範許状を出した[43]。また青木規矩男久勝は大石永勝から関口流抜刀術第14代宗家を継承した[44]

幕末から明治にかけての筑前福岡での動向

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早川系の二天一流は、大塚家によって継承され、1869年(明治2年)まで道場を開いていたが、廃藩置県後に道場を閉じた[45]

お笑い芸人バカリズムの母方の高祖父にあたり、系統は不明だが二天一流の継承者の原弥平次は、嘉永6年(1853年)黒船が来航した年に二十歳を迎え、二天一流の剣術に長け、藩主の警護に当たった。やがて 御詮議掛・御陸目付といった監視・取り調べなどの役目を担った。 明治維新になると、福岡藩は財政難を打破するため、1870年(明治3年)に明治政府発行の太政官札を偽造した。太政官札贋造事件である。 1871年(明治4年)に判決が下り、原弥平次自身も、監督不行き届きとして35日間の閉門となった。[46]

なお、太政官札贋造事件で切腹を命じられた福岡藩の大参事の立花増美は、二天一流師範の立花増昆の4代の孫で、立花本家4000石の当主で、嘉衛時代より福岡藩の家老として活躍した立花増熊の嫡子であった。[47]

立花系の二天一流は、1887年(明治20年)2月26日に立花種美から吉田一畝に相伝された。[48][49]

幕末から明治にかけての越後での動向

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越後村上藩の師範役であった石黒又右衛門贇広は尊王攘夷論に賛成し、戊辰戦争中に、村上藩の奥羽越列藩同盟の加入に反対したが容れられず、村上藩は慶応4年/明治元年(1868)5月6日に加盟。石黒も従軍を命じられたが戦意はなく、明治維新後に隠遁。[50]

大正以降

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昭和6年11月、昭和天皇の熊本に行幸。11月18日に肥後武道の演武は天覧の栄に浴した。二天一流の演武者は打太刀を野田長三郎が、(系譜野田辰三郎と氏名が異なるが、大浦 辰男『宮本武蔵の真髄―五輪書と二天一流の極意』マネジメント社、1989年10月1日の本文と系譜も異なっている)仕太刀を志水三郎が務めた。[51][52][52]

現在の伝承状況

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現在、山東派と野田派が伝承されている[53]

二天一流の本質に関する現在の師範の考え方

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片手剣法であるという考え方[54]、二刀をフルに活用できるように鍛錬・稽古するという考え方[55][56]、両手で扱う一刀太刀勢法こそ宮本武蔵が実戦で使った技を集大成したもので二天一流の神髄であるという考え方[57]の3つの考え方がある。

系譜

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特に出典がないところは、魚住孝至『日本人の道 宮本武蔵』ぺりかん社、2002年12月20日、424-427頁をもとに作成したが、明らかに誤りがあるところは出典を明記して訂正する。

伝書・伝記類・研究書

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流祖宮本武蔵の文書

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『兵道鏡』(慶長10年版)
宮本武蔵守藤原義軽[231]。慶長10年(1605年)[232]
仮託文書という説もある[233]
多田円明流師範家の多田家の資料であったが、現在は原本の所在不明。森田栄が『日本剣道史』第11号で翻刻。それをもとに、魚住が翻刻し[232]魚住孝至『宮本武蔵―日本人の道』ぺりかん社 2002年12月20日の274~289ページに収録。
『兵道鏡』(慶長12年版増補)
宮本武蔵守藤原義経。慶長12年(1607年)[234]。仮託文書という説もある[233]
森田栄。
森田栄が偶然入手した古写本で、『日本剣道史』第9号で翻刻。それをもとに、魚住が翻刻し[235]魚住孝至『宮本武蔵―日本人の道』ぺりかん社 2002年12月20日の290~293ページに収録。
ただし、森田の『日本剣道史』第9号で翻刻した、裏前六は収録していない。
高知県立図書館蔵。[236]
『兵法書付』
新免武蔵玄信。寛永15年(1638年)。東京大学史料編纂所所蔵影写本。仮託文書という説もある[233]。魚住孝至『宮本武蔵―日本人の道』ぺりかん社 2002年12月20日の303~311ページに収録。
なお、本文に書名はなく、『兵法書付』は魚住孝至のつけた仮名である。[237]
『兵法三十五箇条』
新免武蔵玄信。寛永15年11月。寛永18年(1641年)2月に細川忠利に呈上した[238]。仮託文書という説もある[233]
複数の写本や相伝文書として作成された『兵法三十九箇条』の複数の写本を校合したテキストが、魚住孝至『定本五輪書』新人物往来社 2005年3月10日に収録。
魚住孝至が『定本五輪書』新人物往来社 2005年3月10日に記載した全生庵版(春風館文庫)を底本に、岩波書店版を校合したテキストは、宮本武蔵 佐藤正英 校注・訳『五輪書』ちくま学芸文庫2009年1月7日に収録[239]。 
『宮本武蔵』(宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂・1909 年[初版])所収の文書を原本とし、『定本 五輪書』(魚住孝至・新人物往来社・2005 年)の文献学的考証を基に校閲し,さらに『武蔵「円明流」を学ぶ』(赤羽龍夫・スキージャーナル・2010 年)所収の「円明流兵法三十五ヶ条」および「円明三十五ヶ条の内(柳生本)」を参照しつつ、その全体を再現したとする宮本武蔵筆『兵法三十五箇条』再現テクストは、日本体育大学教授の町田輝雄によって書かれ、日本体育大学紀要(Bull. of Nippon Sport Sci. Univ.),46 (1),45–50,2016に掲載。
『兵法三十九箇条』
新免武蔵玄信。寛永18年(1641年)2月。仮託文書という説もある[233]。魚住孝至『宮本武蔵―日本人の道』ぺりかん社 2002年12月20日の321~322ページに収録。
『兵法三十九箇条』は魚住孝至のつけた仮名[240]
『五方之太刀道』
奥書に作者や作成年月日はないが、宮本武蔵が寛永19年閏9月以降、寛永20年10月までのあいだに書いたと考えられる。[241]
『五輪書』
新免武蔵守玄信が寺尾孫之允に相伝。寛永20年(1643年)~正保2年(1645年)5月12日。その死の1週間前に草稿のまま、譲り渡した。[242]
誤写や脱文のある後発的写本の1つに過ぎない細川家本を底本とし、他の異本との校合をしないで出版されたテキストが、宮本 武蔵,渡辺 一郎 (編さん)『五輪書』岩波書店 1985/2/18 に収録[243]
講談社学術文庫の鎌田茂雄の現代語訳も含め、ほとんどの五輪書の解説書が岩波書店版を底本としている[243]
誤写や脱文のある後発的写本の1つに過ぎない[243]細川家本を底本とし、同系統の楠家本と九州大学本で校合し、さらに丸岡家本と狩野文庫本を合わせて、確定したもの[244]、つまりは相伝文書ではない肥後系の伝書をのみを校合したテキストは[243]、魚住孝至『定本五輪書』新人物往来社 2005年3月10日に収録。しかし、複数の写本を校合し、誤写を修正し、脱文を補ったことは画期的であった。校合に使用した書写本の来歴は、魚住孝至『定本五輪書』新人物往来社 2005年3月10日 49~55ページに記載。写本系統図は、同65ページに掲載。
2003年に発見された福岡藩家老吉田家旧蔵本を底本とし、魚住孝至が用いた肥後系の細川家本を合わせて新たに校訂したものは[239]宮本武蔵 佐藤正英 校注・訳『五輪書』ちくま学芸文庫2009年1月7日に収録。
佐藤正英は後書きで、魚住孝至への学恩に感謝している[245]
相伝文書として作成された福岡藩家老吉田家旧蔵本や中山文庫本などの筑前系の写本、筑前系写本から派生し相伝文書として作成された旧越後諸藩に伝わった『五輪書』の複数の写本、肥後系の写本を校合したものは、播磨武蔵研究会のホームページ掲載[243]
筑前系・越後系、肥後系の五輪書の写本の伝系図については、播磨武蔵研究会のホームページに掲載がある[246]

江戸時代の継承者や関係者の文書

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『小倉碑文』
武蔵卒後九年の承応三年(1654)、つまり武蔵十回忌に、武蔵の養子・宮本伊織が建てた。[247]
碑文の写真と翻刻は、播磨武蔵研究会の資料篇に記載がある。[248]
『寺尾求馬助信行相伝奥書』
寺尾求馬助、寛文6年(1666年)、魚住孝至『宮本武蔵―日本人の道』ぺりかん社 2002年12月20日 323~324ページに収録。また播磨武蔵研究会のホームページに収録。[249]
『寺尾信行五法技解』
寺尾信行。作成年月不明。[250]
『秘之部兵法之書』
高瀬某が寛文12年(1672年)に書写。野田派に伝わる文書。
『五方の形』
寺尾孫大夫重信が寛文12年(1672年)に『二天一流伝』から抜粋して書写。野田派に伝わる文書。
『兵法二十七箇条』
長岡直之。元禄3年(1690年)頃。
『二天流兵法書目註解』
長岡直之。元禄3年(1690年)以前成立。享保6年写し。
大浦辰男『宮本武蔵の真髄 五輪書と二天一流の極意』マネジメント社 1989年10月1日に翻刻。
『五法刀構』
新免弁助信盛。元禄13年(1700年)。
『五方之太刀道』の注釈書[251]
かなり自由な解釈となっており、特に『史記』の故事を踏まえて書かれた部分の注釈には誤りが多くみられる。[252]
『合口修行之口伝』
作者、作成年月不明。野田家の文書。[253]
『二天一流兵法書序鈔』
豊田又四郎正剛。宝永4年(1707年)。『五方之太刀道』の注釈書[251]
『寺尾信行五法技解』の訓点に従いつつ、振り仮名・送り仮名はかなり改めた書き下しと注釈をつけた。[252]
『月影之書』または『月影之巻』
吉田実連 宝永五年(1708年)9月。中山文庫本の五輪書(東京都立図書館所蔵)に添付されている。[243]
筑前の早川系にのみ見られる文書である。[243]                                                                         
『兵法口義』
豊田又四郎正剛。正徳元年(1711年)。
豊田正剛が寺尾求馬助の直弟子の道家平蔵から古伝の術技の要領を聞き書きしたもの[251]
『兵法大祖武州玄信公伝来』
立花峯均。享保12年(1727年)。
宮本武蔵、寺尾孫之允、柴任三左衛門美矩、吉田太郎右衛門実連の伝記と、立花峯均自身の回顧録。当時の稽古の様子についても記載。
『円明流水哉伝備忘譜』
左右田邦俊。享保12年(1727年)。名古屋の円明流の伝書[251]
『太田先生著述之兵法書』
太田善兵衛正英。寛延3年(1750年)。熊本県立図書館蔵。
新免弁助信盛の弟子の術技伝書[251]
内容的には、後掲の『二刀一流極意條々』の『二刀一流剣道秘要』三橋鑑一郎 補注 武徳誌発行所 明治42年(1909年)に翻刻された『二刀一流極意條々』の33ページ以降の内容とほぼ一致。
『二刀一流極意條々』
作者、作成年月不明。
『二刀一流剣道秘要』三橋鑑一郎 補注。武徳誌発行所 明治42年(1909年)に翻刻。
『武公伝』
豊田正脩。宝暦5年(1755年)。
『二天一流兵法秘伝集』
野田一渓種信。明和2年(1765年)~安永7年(1778年)
『村上伝兵法口義』
村上正之。安永5年(1776年)。
『二天記』
豊田景英。安永5年(1776年)。
豊田景英は、八代の長岡家家臣で、『武公伝』の豊田正脩の子息。
村上八郎右衛門正之の弟子。
明治末以来、近年まで、一般に最も信仰され依拠された武蔵伝記ではあるが、『武公伝』にはない文書が登場したり改竄もみられ、肥後の伝説の変質と増殖の軌跡を示す[254]
『師談抄』
豊田景甫(景英)。安永9年(1780年)。熊本県立図書館蔵 富永家寄贈 武道関係資料。
師の村上正之伝の術技の伝承[251]
『兵法先師伝記』
丹羽信英。天明2年(1782年)。
『兵法列世伝』
丹羽信英。作成年月不明。
佐藤泰彦『城下町新発田の剣道史 下巻』平成19年(20007年)12月10日に、口語訳が全文掲載。
『兵法烈世伝』
清水政則。作成年月不明。『兵法列世伝』の増補。
佐藤泰彦『城下町新発田の剣道史 下巻』平成19年(20007年)12月10日に、口語訳が全文掲載。
『五尺木刀伝来之巻』
作者・作成年月不明。越後系の文書。寺尾孫之允から筑前・福岡、越後の二天一流の継承者に伝えられた五尺木刀術の5尺木刀の由来が記載。
『井蛙独語』
岩崎矩忠。天明4年(1785年)頃。熊本県立図書館蔵 富永家寄贈 武道関係資料。
村上正勝伝の書[251]
『丹羽信英伝』
丹羽悳(1795~1846)[255]。作成時期不明。文政7、8年(1824年、1825年)あたりか?[255] 新潟県新発田市市立図書館所蔵の丹羽文庫のなかの積善堂文庫[256]
越後の二天一流を伝えた丹羽信英の伝記。
アリーナ = Arena(中部大学)18号 2015年,p.269-308 鈴木 幸治『「丹羽信英伝」を読む』に翻刻。解説。
『宮本玄信伝』
奥書はないが、筆跡と内容から宇都宮泰長が作者は本庄茂満で、天保9年(1838年)に作成と特定。小笠原文庫所蔵[257]
宇都宮泰長『宮本玄人信伝資料集成』鵬和出版 2005年10月10日に全文が翻刻。
『兵法心気体覚書』、『戦機二天流』、『武蔵流修行心得之事』
肥後・志方系の浅井新右衛門栄広の弟子が師に命じられて書いた。天保9年(1838年)11月19日。[258]
『二刀一流剣道秘要』三橋鑑一郎 補注。武徳誌発行所 明治42年(1909年)に翻刻
『武蔵先生二天一流一刀表』
宮崎長兵衛政賢。作成年月不明。宮崎兄弟資料館蔵。
山東派で行われている一刀の型を江戸期に収録したもの。

明治時代以降の継承者や研究者の文書

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『宮本武蔵』
宮本武蔵遺蹟顕彰会編。明治42年(1909年)。
『二刀一流剣道秘要』
三橋鑑一郎 補注。武徳誌発行所 明治42年(1909年)。『五輪之書』、『兵法五法之巻』、『兵法心気体覚書』、『戦機二天流』、『武蔵流修行心得之事』、『二刀一流極意條々』、『武蔵実伝二天記』(豊田正修)。
『兵法心気体覚書』、『戦機二天流』、『武蔵流修行心得之事』は、江戸時代に肥後・志方系の浅井新右衛門栄広の弟子たちが書いた。
『兵法二天一流太刀勢法解説書』
青木規久男(講述)、馬場清房藤政(著)1960年。私家本。山東派の技法を解説。
『五輪書 附兵法三十五ヵ條 外』
宮本武蔵顕彰五輪の会。1968年8月5日。宮本武蔵顕彰五輪の会。
宮川泰孝による、山東派の五方太刀道序の訓、剣術・棒術の型の名称の紹介。
『二天一流之形』
剣道日本1976年3月号の記事。
宮川泰孝による山東派の一刀の太刀12本、小太刀7本、二刀5本の形の解説。
『新・宮本武蔵考』
宮川伊三郎規心の船曳芳夫・大坪指方との共著。岡山県大原町宮本武蔵顕彰会 1977年12月17日
二天一流鍛錬会(山東派の細川家伝統兵法二天一流)の稽古体系の概要(型の名称)を説明。写真や具体的な手順の記載はなし。
『越後における兵法二天一流 』
飯田素州、飯田素州 1980年。新潟県立図書館蔵。
越後での二天一流の伝系を発掘した画期的な研究書。
『宮本武蔵・二天一流の世界』
一川格治。土屋書店 1984年9月1日。
写真と文章を使って、野田派の技法を解説。
『宮本武蔵 独行道 二天一流勢法』
今井正之。山東派の形の解説(写真はなし)。1987年12月4日。
『宮本武蔵の真髄 五輪書と二天一流の極意』
大浦辰男。マネジメント社 1989年10月1日に翻刻。写真と文章を使って、野田派の技法を解説。
『細川家伝統兵法二天一流勢法解説書』
宮田和宏。平成7年(1995年)5月19日発行。私家版。
山東派の細川家伝統兵法二天一流の勢法の解説。
『宮本武蔵伝説―最強剣士・宮本武蔵の激闘人生を検証! (別冊宝島 574) ムック 』
宝島社 2001年4月1日。
宮田和宏が山東派の細川家伝統兵法二天一流の型を解説。
『史料考證 勧進・宮本武蔵玄信』
谷口覓 私家本 1995年11月1日
『宮本武蔵・伊織と小原玄昌について』
宇都宮泰長 鵬和出版 2001年7月。
『宮本武蔵伝説 (宝島社文庫)』
宝島社 2001年11月1日。
宮田和宏が山東派の細川家伝統兵法二天一流の型を解説。
『宮本武蔵 実戦・二天一流兵法「二天一流兵法書」に学ぶ』
宮田和宏。文芸社 2002年10月15日。
『宮本武蔵 日本人の道』

: 魚住孝至。ペリカン社 2002年12月1日。

『福岡藩家老吉田家旧蔵「二天一流兵法書」について』上、下
大倉隆二 『西日本文化』2003年10月号(395号)、西日本文化』2003年11月号(396号)
九州大学文学部・九州文化史研究所に所蔵される『五輪書』ならびに付属文書の意義について解説。付属文書の翻刻あり。
『宮本武蔵随想録 語り継ぐ剣聖・武蔵の実像と秘話』
日本随想録編集委員会 編 歴研 2003年11月。
稗島政信が山東派の細川家伝統兵法二天一流の形を解説(写真はなし)。
『決定版 五輪書 現代語訳』
大倉隆二 草思社 2004年5月10日
九州大学所蔵の『五輪書』吉田家本の翻刻ならびに現代語訳。
『宮本玄人信伝資料集成』
宇都宮泰長 鵬和出版 2005年10月10日。
『宮本武蔵研究第二集 武州傳来記』
福田正秀。星雲社 2005年12月19日。
立花峯均の『峯均筆記』の全文翻刻、解説。『本庄家「家系譜」』原文復刻(抄)。
『城下町新発田の剣道史 下巻』
佐藤泰彦。刊行発起人会。2007年12月10日。
『兵法列世伝』『兵法烈世伝』の全文の現代語訳が収録されている。
『新編真訳 五輪書 兵法二天一流真諦』
宮田和宏。文芸社 2007年11月15日。
『宮本武蔵 「兵法の道」を生きる』
魚住孝至。岩波書店 2008年12月19日。
『細川家伝統 兵法二天一流 宮川伊三郎派』
稗島政信伊心 監修(表紙による)。私家本。2016年6月29日。山東派の技法解説。
奥付には、「著者 稗島政信」とあるが、表紙は稗島政信監修となっており、「小太刀は習っておりません」(17ページ)と記載があり、大東流合気柔術の技の紹介や伝系の紹介があるので、実際には弟子で大東流合気柔術師範の小関茂義が書いたものと推定される。

流儀歌

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乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め

[259][260]

脚注

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注釈

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  1. ^ 肥後熊本での具体例を挙げる。寺尾求馬助信行の三角半島にある墓には二天流とある[13]。細川家家老・八代城主長岡直之の『二天流兵法書註解』元禄3年以前成立[14]。『豊田氏先祖附』には武蔵流という記載がある[15][13]。浅井新右衛門栄広の弟子たちが、自流の文献に『戦機二天流』『武蔵流修行心得之事』と名づけた。[16]
  2. ^ 『兵道経』二十八箇条 落合忠右衛門宛 慶長10年(1605年)、『兵道経』上二十ニ箇条 下十四箇条 年代不詳[58][59]、『円明三十五箇条』の原本になった『兵法三十五箇条』年代不詳[60]、『兵法書付』14箇条、寛永15年(1638年)11月[61]、『兵法三十五箇条』熊本藩主 細川忠利宛、寛永18年(1641年)2月[62]、『五方之太刀道』寛永18年(1641年)3月、『五輪書』寛永20年(1643年)寺尾孫之允宛[63]、『独行道』正保2年(1645年)5月12日[64]
  3. ^ 1613-1672[65][66]。 終生牢人のまま宇土郡松山に居住、男子1人が生まれたが早世したため、松岡玄壽二男某を養子に迎えた者の牢人のまま、その後断絶した。[67]なお、俗に二代信正もまた夢世と称し、子孫その業を継いで剣法の師範を務めたとされるが[68]、養子某が信正を名乗り夢世と号したのか、子孫が二天一流を継いだのかなにも記載がない。[67] 宮本武蔵から『五輪書』を相伝。『「五輪書」相伝奥書』慶安4年(1652年)、/承応2年(1652年)/寛文8年(1668年)、『五輪書』地の巻「道をおこなふ法」9箇条の解説である『兵法行道口訣九箇條』[69]
  4. ^ 1626[70]-1710[71]豊前国において細川藩士五人扶持十五国の本庄喜助の二男に生まれる(本庄家下家系譜)、寛永9年(1632年)6月主家細川家に従い本庄家も熊本入り。寛永17年(1640年)宮本武蔵が熊本に来たりて、本庄熊介も武蔵門弟となる(圓明流系図)。寛永18年(1641年)主君の細川忠利が崩御し、父喜助殉死。熊介は本庄家の家督を相続、この年本庄に改姓。正保4年(1647年)寺尾孫之允に随仕して兵法修行に務める(武州傳来記)。承応2年(1653年)寺尾孫之允より二天一流の免許を受け、五輪書相伝(「五輪書」吉田家本)。承応3年(1654年)細川家を到仕し肥後離国(武州傳来記、本庄家系譜)。江戸の旗本屋敷で大勢の弟子を指導する(武州傳来記)。万治3年(1660年)8月福岡家老黒田(立花)重種が取り持ち、黒田光之に300石で仕官する(武州傳来記、本庄家系譜)。黒田重種以下諸仕陪臣にかけ大勢の門弟に二天一流を指南する(武州傳来記)。その後黒田家を到仕(武州傳来記、本庄家系譜)。大和郡山藩本多内記政勝に400石で仕官する(武州傳来記、本庄家系譜、大和郡山本多家分限帳)。寛文11年(1671年)本多内記政勝没し、遺領は分割され、柴任は内記の嫡子、出雲守政利に400石で仕える。寛文7年より後、本田出雲守家を到仕。近江大津に浪人する(武州傳来記)。姫路藩本多中務大輔政武に家老梶金平の取り持ちにて500石で仕官(武州傳来記、本庄家系譜)元禄11年(1698年)より後、家老梶金平が本多家を離れるにあたり、柴任も到仕。明石に隠棲(武州傳来記、本庄家系譜)。主君を複数回変え、その都度禄高を上げた。[72]延宝8年(1680年)吉田太郎右衛門実連に二天一流の相伝を行った。[73][74]元禄16年(1703年)より後で宝永6年(1709年)のあいだのいずれかで、多田円明流の継承者であった多田源左衛門祐久に二天一流の相伝を行った。[75][76]
  5. ^ 寛永15年(1638年)~宝永6年(1709年)。さねつら。黒田家分家の直方藩に仕えた[77][78]吉田利貞の二男。初名は忠左衛門利翁(としはる)。父吉田太郎右衛門利貞は、寛永15年(1638年)2月22日、原城で戦死。1650年、13歳のときに黒田之勝(1634~1663)に近仕し、1654年17歳のときに、元服し6人扶持20石を賜る。1663年26歳のときに黒田之勝死去し、その後福岡に召し出され、黒田光之(1628~1707)から新知200石を賜り、馬廻組に加えられ、まもなく扈従(こしょう)又目付を命じられる。その後、長崎目付を命じられたときに100石加増、江戸留守居役を命じられたときに100石加増され、都合400石を賜った。年老いて引退し、初めの実名を法名として利翁(りおう)と号す。[79][78]明暦元年(1655年)18歳のとき、江戸にて柴任美矩に会し、師弟の約諾あり(このとき柴任は浪人中で、後に黒田家に仕えるが到仕し、本多家に仕える)。延宝8年(1680年)4月22日、参府の途中、明石の柴任美矩に会い、一流相伝を受けた。[77][78]
  6. ^ 筑前黒田家家臣。父立花重種は延宝5年(1677年)53歳、知行1万500石余に達する。父立花重種の嫡男平左衛門重敬〔しげたか〕は1万石余の家督と老職を相続し、父の二男の五郎左衛門重根〔しげもと〕は、隠居した光之付頭取となり、2000石。のち加増されて2600石、さらに隠居光之から600石加増されて計3200石となり、光之のいわば院政の鍵を握るポジションにあった。四男専太夫峯均は500石、五男源右衛門重躬〔しげみ〕は800石。元禄二年(1689年)19歳で、筑前福岡藩主黒田綱政に出仕し500石。元禄四年(1691年)吉田実連に入門。吉田実連より、水之巻を元禄4年(1691年)7月26日(峯均21歳)、地之巻を元禄8年(1695年)10月12日(峯均25歳)、火之巻を元禄13年(1700年)8月19日(峯均30歳)に伝授を受ける。元禄14年(1701年)4月、立花峯均は三十一歳、師である吉田実連の師匠で、播州明石の柴任美矩のところに主黒田綱政の参勤交代の随行で立ち寄り稽古を受け、元禄16年(1703年)4月、主黒田綱政が帰国の途に随行して明石に寄り、柴任から「直通伝授」の伝授を受ける。福岡に帰国後、峯均は吉田実連に会い、5月28日、実連から五輪書の「空之巻」を渡され、三箇之大事を再授して、一流成就した。宝永四年(1707年)5月20日、前藩主の黒田光之が没すると、立花一族へのお役御免や減知が始まり、峯均自身は玄界灘に浮ぶ孤島、大蛇島(小呂島)へ8年間遠島になる。赦免後も城下に住むことは許されなかった。享保7年(1722年)正月17日、甥の立花権右衛門勇勝(増時)・弥兵衛種章(増寿)、桐山作兵衛丹英(あきひで)三人に同時に、一流伝授した[24]。なお、丹羽信英によれば、立花峯均の相伝弟子は、この3人のほかに、中山伊右衛門という者があった[80][26] 3人に同時に相伝したときの状況を整理すると、正徳5年(1715年)、立花峯均が流刑地の島から帰還すると、師の吉田実連はすでに死去し、そして宝永五年(1708年)9月に相伝を受けた早川実寛が吉田実連の道統を継いでいた。早川系の大塚藤郷によれば、巌翁(立花峯均)が、早川実寛のもとへ、つまり、兵法の事をお互いに打合せて相談し、あるいは記憶違い、遺忘となっていることも、相互に補い合い、改めたいと思う、そのために、おいで下されば、談じ合たいと人を立てて申入れたことがあった。 この申入れの趣旨からすると、立花峯均はむしろ、同門の早川実寛と合議して、二天流兵法の伝承内容を補完し合って、より確実なものにしたい、という気持だったようである。実際、自分が遠島の間に、吉田実連が早川にどんな内容の相伝をしたのか、それを確認しておきたい、というところもあったであろう。 しかるに、早川実寛の応答はつれないものだった。自分は利翁(吉田実連)の伝えを忘れてしまって、覚えていることは何もない、ようよう差しあたっての事どもを門弟に相談いたしているだけだ、あなたに面接して、何を話すことがあろうか、という調子である。 しかし、その後も、立花峯均は早川に対し、再三この申入れをしたようである。だが、早川からの返答は毎度同じで、結局、この立花・早川会談は実現しなかったということである。[25] かくして、立花峯均からの呼びかけに早川実寛は応じず、両者の関係はこじれて、両派はお互いに、変な業を遣うと批難し合うようになった。[26]兵法大祖武州玄信公伝来』享保12年(1727年)[81]
  7. ^ 1698~宝暦12年(1762)。[83]享保七年(1722年)25歳のときに、立花峯均より相伝を受ける。[24][26][83]。享保2年(1717年)、20歳のとき父重躬の家督のうち八百石を継いで黒田継高に仕え、無足頭。55歳のとき致仕して隠居、号流水。立花実山(重根)の弟子・笠原道桂(勝久)から、南坊流の茶の湯を継承した。[83]子孫は流水家と呼ばれる。[84]
  8. ^ 1701~明和7年(1770)。たねあきら。初名大八、重貞。幼年の頃から、伯父の峯均に二天流剣術を学び、二十二歳のとき相伝を受ける。立花弥兵衛重直の養子になって平七、のち改増寿〔ますなが〕。大坪流馬術を学び、22歳のときこれも免許皆伝。峯均が吉田実連から譲られた五巻の書(五輪書)は、種章に託されている。享保9年(1724年)、24歳のとき養父・弥兵衛重直の家督1,300石を継いで黒田継高に仕え、さらに継高の嫡子・重政に仕えた。61歳とき致仕して隠居、号随翁。[83]立花増寿は、公務繁多なれども、毎朝出仕の時、兵法稽古場で、表二回、喝咄二回ずつ稽古するのが決まりだった。[85][86]
  9. ^ 1724~1785。部屋住みが長かったが、宝暦十一年(1761)三十八歳、父増寿が致仕隠居して家督を嗣ぎ1,300石、弥兵衛を襲名。黒田継高・治之に仕えた。以後、諸要職を歴任し、安永8年(1779年)56歳のときいったん致仕退役を申請したが留任、治高・長嵩の代まで納戸頭を勤め、現役のまま天明5年(1785年)病死した。享年六十二歳。[83]父増寿(種章)から兵法相伝を受けたのは、宝暦13年(1763年)12月20日。[87][83]
  10. ^ 夭折。[48][49]
  11. ^ 夭折。[48][49]
  12. ^ 1100石、大組、養巴町。[89][47]立花種邁の元で修行。立花重哲と立花種規がともに夭折した後に、流水家の養嗣となり、道統を継承。1887年(明治20年)2月26日に吉田一畝に相伝。[48][49]
  13. ^ 吉田家12代。慶応4年(1868年)4月8日、福岡藩は勤王派弾圧の廉で佐幕派の重臣4人を処罰。浦上信濃(45歳)、野村東馬(29歳)、久野将監(59歳)の3名は切腹、吉田一畝(吉田大炊秋年)は若年故に押隠居となる。[49]1887年(明治20年)2月26日に立花種美から相伝を受ける。[48][49]また、後の明治35年10月に出雲大社福岡分院の初代分院長となる廣瀬玄鋹(はるなが)(1855~1916)[90]が、後妻に吉田一畝の次女花子を迎えるが、廣瀬玄鋹は出雲大社教の布教を福岡県内で普及していくなかで、廣瀬玄鋹は明治20年、荒戸町の旧吉田家屋敷300余坪を縁故払下げしてもらうなど、吉田一畝の協力を得て活動を始めた。また廣瀬玄鋹は私立の福岡図書館を創設するが、司書の仕事は舅の吉田一畝が行った。この福岡図書館は、福岡における近代的図書館の嚆矢として象徴的な存在であり、その蔵書は福岡県立図書館、九州大学附属図書館創設時の基盤図書として引き継がれた。[91]
  14. ^ 後を継ぐ者なく、断絶[88]
  15. ^ 立花増寿の息子で、立花種貫の弟で、白水家へ養子に出た人らしい。[83]
  16. ^ (1766~1817)。吉田太郎右衛門実連の本家筋に当たり、立花種貫から二天一流の教えを受け、立花種貫の死後は白水重能からも学んだが、白水重能後が病に倒れた後、立花増昆から相伝を受ける。このとき立花増昆が、吉田家が所蔵していた柴任美矩が吉田実連に与えた吉田家本五輪書の空之巻巻末に相伝証文を継ぎ足して、それを吉田経年に返した。[83]
  17. ^ 丹羽五兵衛信英。1727[94]-1791[95]。筑前福岡城下にて[96]、知行1,300石の中老桐山作兵衛丹英の三男として誕生[97]。享保14(1729)年、父桐山丹英失脚し、知行召上げ。享保18(1733)年兄桐山丹誠へ新知500石。元文5(1740)年、父桐山丹英卒。それまで兄桐山丹誠とともに父から二天一流を学んでいたが、父の遺言でそれ以降は、立花増寿に入門[97]。延享元(1744)年、武蔵百回忌に小倉手向山参詣。寛延元(1748)年、丹羽理右衛門家養子となる。[96]宝暦元(1751)年、宝蔵院流槍術免許。明和6(1767)年、二天一流を相伝。この冬江戸にて主君に諫言の後、出奔[98][96]。明和6年(1769年)この頃、越後に至る[99]。越後の富岡村で行き倒れになっているところを発見され、紫雲寺郷片桐新田の関川助市家に寄寓し、終生そこで暮らす。[100]天明2年(1782年)[99]『兵法大祖武州玄信公伝来』を元に『兵法先師伝記』を著す[101]
  18. ^ 片桐新田の隣の高島新田の庄屋。[102]で、石高208石余[103]。丹羽信英門人髄一[104][30][80]で、渡部六右衛門信行に道統を継承した[103][102]
  19. ^ 紫雲寺郷片桐新田の庄屋。師匠の丹羽五兵衛信英は終生、関川助市家に暮らした。[105][106]
  20. ^ 1752-1804。越後村上内藤家家臣。寛政3(1790)年、丹羽信英から入門後1年という短期間で一流相伝。[108]
  21. ^ 越後村上藩二天一流師範役。平井家に生まれ、石黒直記の養子となり、二天一流を学び藩の師範役となる。幕末の尊王攘夷論に賛成し、奥羽越列藩同盟の加入に反対したが容れられず、村上藩は慶応4年/明治元年(1868)5月6日に加盟。石黒も従軍を命じられたが戦意はなく、明治維新後に隠遁。晩年はキリスト教を信じ、活動した。戊辰戦争時の越後村上藩の藩主内藤信民は新政府への恭順を説いたが、藩士の多くは奥羽越列藩同盟への参加して新政府と戦くことに積極的で、庄内藩や米沢藩から奥羽越列藩同盟に加わるように圧力もかかっていた。庄内藩は奥羽越列藩同盟に加わるが、藩主は自殺し、藩は大混乱に陥る、そうしたなか、新政府軍が村上城下に攻め込んでると、主戦派の若き家老である鳥居三十郎は城下を戦禍から守り、武士の維持を通すため、少数になった主戦派を率いて、庄内藩に向かい、庄内藩に受け入れられ、藩境の鼠ヶ関を守った。村上藩は本領を安堵されたが、庄内藩降伏後、主戦派は村上に戻り、責めを負うことになった。主戦派の鳥居三十郎は東京で刎頸の判決を受け、村上藩が処刑することになった。しかし主戦派が反発し、村上藩は刑を切腹に変更した。しかし、処刑前日に恭順派のリーダーの江坂与兵衛が主戦派に殺害された。このため、村上では明治になっても主戦派と恭順派がいがみ合い、これに町人同士の対立が加わって、混迷を極めた。[110][50]
  22. ^ 越後椎谷堀家家臣[109]
  23. ^ 越後椎谷堀家家臣[109]
  24. ^ 1758-1824。上今泉村の庄屋[112][113]渡部家16代目。医師「安伯」として活躍。渡部道場に学ぶ者、500人とある。丹羽信英に学び、奥義に達し「三ヵ大事」を普及させ、口授口伝に至るまで授かる。三日市藩柳沢家の剣術指南役となった。丹羽信英の33回忌法要を行い、東光寺に新しい丹羽信英の墓を建立し、新発田藩の儒学者丹羽伯弘ぶ『信英伝記』執筆を依頼、画像の賛、画像を完成させるのに尽力[30]。高橋浅右衛門信武から道統の継承を受ける[103]
  25. ^ 上今泉村の渡部道場での門人500人と記録される[103]
  26. ^ 渡部六右衛門信行の嫡男。上今泉村の庄屋で、医師[113]。 忠伯と号す[103]。剣を父について学び、心が広く大きく穏やかで、富貴の風格があった。兵法を以て近隣の侯家の武家の武士に教授し、その門人が数10人であった。父の信行の死の前に、「三ヵ大事」と丹羽信英より相伝の『五輪書』に奥書奥付してあるものを授かる。亡父の教えを慎んで堅守し、少しも私意を加えずに奥義に達する。あるときは兵法修行のため諸国をめぐった。兵法修行の希望者が安信を慕って来たり、試合を望むものがあれば門人が代わる代わる立会って競い合い、その結果、弟子に勝つ者は稀であった。[114][115]
  27. ^ 住田村の三日市藩の大庄屋で、顕信の父長太郎、祖父平次郎は、三日市藩柳沢家の江戸詰で、江戸に滞在中に柳沢吉保の日記や傳記を筆写し、子孫が保存している[103]
  28. ^ 越後三日市柳沢家家臣で、江戸屋敷に奉公。渡部六右衛門信行・渡部六右衛門安信父子から学び、渡部六右衛門安信から相伝を得る[116]。丹羽信英の著した『天下無双二天一流新免武蔵守玄信、兵法先師傳記』を筆録し、今日に伝承した[103]
  29. ^ 渡部六右衛門信行の弟子。-明治5(1872)年。[103]享年76歳。[114][117]川口村(現在の新潟県長岡市の一部)の庄屋の菅作右衛門正一のこと。[103]。菅氏は田貝村(新発田市田貝)の二王子神主の千樹院の分家で、寛文2年(1662年)に川口村を開発した。代々村の庄屋。母が渡部信行の妹と推測される。正一は三日市藩剣術指南役に栄転したときに、妻の「五十嵐」姓を名乗った(妻の実家も渡部氏の親族であった)。賦性寡慾にして細事に拘らず、人に接するに温厚で会った。幼年より渡部信行に指示して二天一流を学び、長じてますます鍛錬研磨して道統を継承する。自宅の裏に稽古場を解説して、有志の子弟を教授した。[114][117]
  30. ^ 菅正一家の邸内に道場があり、門人200人と記録される[103]
  31. ^ 五十嵐平左衛門正一こと川口村(現在の新潟県長岡市の一部)の庄屋の菅作右衛門正一の実弟で、下羽津村(新発田市)石井家の養子となる。[103]
  32. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。関妻村出身。『二天一流兵法烈世伝』を著す。[103]
  33. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。[30]
  34. ^ 俵橋村の庄屋。祖父田中六右衛門は新発田藩士であったが、武士を捨てて塩津潟干拓に尽力し、中川新田・俵橋新田の兼帯庄屋となった。六郎は高島流砲術目録を得て、戊辰戦争では、有栖川宮熾仁親王の東征軍大総督の会津征討軍に参加。[103]
  35. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。[30]
  36. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。[30]
  37. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。[30]
  38. ^ 五十嵐平左衛門正一の弟子。稲荷村の庄屋で、住田村の伊藤顕信と同族。[103]
  39. ^ 安永6年(1777)~天保5年(1834)。[118]渡部六右衛門信行の弟子。越後黒川柳沢家の家臣で、大庄屋の家柄。[103]。黒川村黒川伊藤家の27代目で、黒川藩代官、黒川組大庄屋、3人扶持、幼名藤太郎、家督を継いで、太郎兵衛と称する。宝蔵院の槍術や俳諧も学ぶ。[118]
  40. ^ 伊藤次郎兵衛親輔と大平官兵衛正之が越後黒川柳沢家の許可を得て道場を開き、門人を育成[103]
  41. ^ ~嘉永6年(1853)。[119]渡部六右衛門信行の弟子。越後黒川柳沢家家臣[120]で、大庄屋の家柄。[103]。伊藤家が代官になったときに大庄屋に任命された。幼名を波太郎といい、嘉永3年(1850年)黒川藩の陣屋の旧帝邸で、横3間、長さ13間の剣術道場を設けて、ニ天一流を藩士たちに指導した。御坊主並格、無格2人扶持となった。[119]
  42. ^ 渡部六右衛門信行の弟子。柴橋村(現在の新潟県胎内市柴橋)の庄屋。柴橋村は桑名松平領であった。大沼重蔵の兄[121]。代々 大肝煎、大庄屋、桑名藩士として活躍している[103]
  43. ^ ~明治37年(1904)。大沼紋司美正の子息で、父大沼紋司美正から二天一流を学ぶ、俳諧に堪能であった。地方役人をして方々を廻り歩いた後、明治37年(1904年)8月27日に柴橋で没した。[122]
  44. ^ 渡部六右衛門信行の弟子。柴橋村(現在の新潟県胎内市柴橋)の庄屋大沼紋司美正の弟。[121]
  45. ^ ~弘化3年(1846年)。[118]渡部六右衛門安信の弟子[103]。新発田市石喜の本間家8代目。黒川藩大友組の大庄屋、御徒士格、米10俵ほか2人扶持、慶蔵とも称し、会津浪人召し捕りに尽力した[118]
  46. ^ 渡部六右衛門信行の弟子。関妻村(現在の新潟県新発田市関妻)の庄屋[120]
  47. ^ 渡部六右衛門信行の弟子。加治村(現在の新潟県加治川村の一部)の庄屋で、上館(新潟県新発田市上館)に陣屋のあった越後三日市柳沢家の役人を勤めたようである[120]
  48. ^ 越後新発田溝口家家臣[109]。宝暦8年(1758年)配当帳に、大小姓並中小姓10石、内5石7斗21合[103]
  49. ^ 新発田藩士。小普請方、三人扶持、七石。八軒町裏住。伊藤遠風から二天一流を学ぶ[103]。長野県須坂市に移住した五十嵐隆助のご子孫によると、五十嵐隆助より後の子孫に二天一流が伝承されたという発言はなく、五十嵐謙福が授かった伝書は千葉県の剣道をしている又男叔父さん(神免二刀流の五十嵐一隆、千葉県)にご尊父が差し上げたとのことである。[124][125]
  50. ^ -1740。筑前福岡黒田家の知行1,300石の中老で、一時藩の実権を握るが、敵も多く[97]、二天一流の師匠の立花峯均の実家の立花家の復権に尽力するが[127]、享保14(1729)年、失脚し、知行召上げ。享保18(1733)年嫡子桐山丹誠へ新知500石。元文5(1740)年、卒。立花峯均より相伝を受ける[24][26]。子息桐山丹誠と丹羽信英に二天一流を指導していたが、遺言で以降は立花増寿に入門するように命じる[97]
  51. ^ 立花峯均より相伝を受ける。[85][26]
  52. ^ 1656~1733。筑前東蓮寺黒田家(東蓮寺藩、後の直方藩)家臣。吉田太郎右衛門実連の甥(姉の三男)で、早川与左衛門昌行の養子に入り、寛文12年(1672年)養父早川与左衛門の遺禄100石を受継ぎ、東蓮寺藩主黒田長寛・長清に仕え、鎗奉行・町奉行など段々に出世。享保6年(1721年)66歳の時隠退して、吉田卓翁と号す。宝永5年(1708年)、6月に立花峯均が遠島流刑となり、9月に叔父吉田太郎右衛門実連から二天一流の相伝を受ける。[130] 正徳5年(1715年)、立花峯均が流刑地の島から帰還すると、師の吉田実連はすでに死去し、そして宝永五年(1708年)9月に相伝を受けた早川実寛が田実連の道統を継いでいた。早川系の大塚藤郷によれば、巌翁(立花峯均)が、早川実寛のもとへ、つまり、兵法の事をお互いに打合せて相談し、年あるいは記憶違い、遺忘となっていることも、相互に補い合い、改めたいと思う、そのために、おいで下されば、談じ合たいと人を立てて申入れたことがあった。 この申入れの趣旨からすると、立花峯均はむしろ、同門の早川実寛と合議して、二天流兵法の伝承内容を補完し合って、より確実なものにしたい、という気持だったようだ。実際、自分が遠島の間に、吉田実連が早川にどんな内容の相伝をしたのか、それを確認しておきたい、というところもあったろう。 しかるに、早川実寛の応答はつれないものだった。自分は利翁(吉田実連)の伝えを忘れてしまって、覚えていることは何もない、ようよう差しあたっての事どもを門弟に相談いたしているだけだ、あなたに面接して、何を話すことがあろうか、という調子だ。 しかし、その後も、立花峯均は早川に対し、再三この申入れをした。しかし、早川からの返答は毎度同じで、結局、この両者の会合は実現しなかった。[25] かくして、立花峯均からの呼びかけに早川実寛は応じず、両者の関係はこじれて、両派はお互いに、変な技を遣うと批難し合うようになった。[26] 享保17年(1732年)、実寛は月成八郎左衛門に相伝。[27]
  53. ^ 享保17年(1732年)、早川実寛から相伝を受ける。[27]
  54. ^ 寛保3年(17743年)に、月成八郎左衛門から相伝を受ける。宝暦2年(1752年)に本姓の大塚に改め、杉原助太夫から大塚作太夫重寧と名乗る。[27]
  55. ^ ~文政元年(1818年)。大塚重寧の一人児で、父に随従して二天一流の兵法を極めた。25歳のとき廃嫡された。原因は不明。[27]『五輪書』の継承記録から、月成彦之進実誠と大塚作太夫重寧から伝授を受ける[131]。父大塚重寧の後は父の養子の大塚重庸が継ぎ、重庸が福岡藩より剣術家業を命じられ、藤郷はその後見教授を命じられ、藤郷自身に新しい家禄が与えられた。享年90歳で死去。二天一流に関して、『藤郷秘函』を著す。巻の八「世記」は、武蔵から藤郷に至る二天一流「大塚系の総論」である。[27]
  56. ^ 『五輪書』の継承記録から、大塚初平藤郷から伝授を受ける[131]。福岡藩から剣術家業を命じられ、養父である重寧から廃嫡されていた大塚藤郷はその後見教授を命じられ、藤郷自身にも新たな家禄が与えられた。[27]
  57. ^ ~(文久2年)1862年。天保10年(1839年)、父景扶隠居、嫡子である景陽が1,380石の家督を相続、大組を務める。天保12年(1841年)、陸士頭を務める。天保13年(1842年)、無足頭を務める。弘化元年(1844年)、長崎にイギリス船入港の際、二番御番他を務める。嘉永2年(1849年)、長崎警備、大組として三番御番を務める。嘉永4年(1851年)、長崎御示談御用を務める。嘉永5年(1852年)、納戸頭を務める。嘉永6年(1853年)、江戸詰方を務める。長崎警備の御供を務める。安政3年(1856年)、黒田長知婚礼用掛を務める。安政4年(1857年)、鉄砲大組を務める。安政6年(1859年)、長崎警備、壱番御番を務める。[133]文久元年(1861年)、長崎警備の御供を務める。文久2年(1862年)、黒田長溥の下国途中まで迎え、御供を務める。8月22日卒。嫡子親賢が知行を相続。[134]安政3年5月19日、大塚作太夫重威より相伝を受ける。[128][132]
  58. ^ 弘化4年(1847年)~[135]。文久2年(1862年)、父伊丹景陽卒、享年51歳。嫡子である親賢が1,380石を相続、大組を務める。[134]1869年(明治2年)5月19日に大塚作太夫重威から相伝を受ける。[128][129][132]
  59. ^ 『五輪書』の継承記録から、大塚可生重庸から伝授を受ける[131]
  60. ^ 『五輪書』の継承記録から、大塚初平藤郷から伝授を受ける[131]
  61. ^ 『五輪書』の継承記録から、大塚伊右衛門昭郷から伝授を受ける[131]
  62. ^ 龍野藩の多田円明流の継承者であったが、元禄16年(1703年)より後で宝永6年(1709年)のあいだのいずれかで、柴任重矩より二天一流の伝授を受けた。[75][76]
  63. ^ 18世紀中期龍野円明流史料の『諸流覚書』(仮題)(個人蔵)に讃岐に柴藤道隨(柴任美矩)から学んだ者が関流として伝えるという記述がある。[136][137]
  64. ^ 寛文7年(1667年)寺尾孫之允から相伝を受ける。[138]
  65. ^ 寺尾孫之允から相伝を受ける。
  66. ^ 寺尾孫之允から相伝を受ける[17]
  67. ^ 寺尾孫之允から相伝を受ける[17]
  68. ^ 1641~1731。松井興長家臣の堤九郎右衛門永正の嫡子。明暦元年(1655年)、15歳のとき興長に召し出されるが、その召し放たれ浪人。豊後で、柘植流と妙玉流の鉄砲両流の相伝を受けた。寛文10年(1670年)に長岡直之から召し出され帰参。元禄14年(1701年)隠居して一睡と号す。90歳のとき主君長岡家から長寿を表彰された。[139][140]寺尾孫之允から相伝を受ける[17]
  69. ^ 1706~1764。豊田正剛の嫡子。八代の長岡家家臣。享保8年(1723年)18歳のとき、中小姓に召し出され、父の家禄とは別の役料として切米八石三人扶持。享保十五年(1730年)25歳、父とは別禄で二十石、役料現米五石を受け、小姓頭役になった。享保十七年(1732年)、父正剛は隠居し、家督知行百五十石を相続、御者頭列で式台御番となる。元文2年(1737年)2月、橋津に改姓。延享4年(1747年11月、接待役の座配持懸で、役儀は作事奉行を命じられた。元文五年(1740年)2月、再び隠居の長岡寿之のお附きに戻ったが、同年7月、作事奉行に帰役。この年、正脩に次男で、後の嗣子・景英が誕生。寛延元年(1748年)正月、正脩43歳、奉公人支配に任命される。寛延2年(1749年)の8月、父の正剛が病死(享年78歳)。宝暦元年(1751年)3月46歳のとき、町奉行役に任命され、名を橋津平左衛門と改める。また、後に時期は不明だが彦兵衛と改めた。宝暦5年(1755年)2月50歳のときに、父正剛の遺した草稿について『武公伝覚書』を書く。これは『二天記』冒頭所収の「凡例」である。宝暦七年(1757年)は、八代に、伝習堂と教衛場が設置。宝暦9年(1759年)6月、54歳のとき、役儀(町奉行役)を辞退、物頭格で、式台御番。同年11月、御家譜調方になり、2年後の宝暦11年(1761年)8月、御家譜方退役。明和元年(1764年)5月59歳で隠居。在勤中さまざまな役儀を出精して勤務したのを褒賞され御紋付帷子を拝領。家督を継いだのは二男の橋津正通(のちの景英)。引退後に、教衛場での武蔵流兵法稽古の見締(監督)に出るようにと申しつけられる。同年(1764)10月死去(享年59歳)。[15][140]提次兵衛から二天一流を学ぶ[17]。宮本武蔵の伝記『武公伝』18世紀初期を著す。[141]
  70. ^ 1638~1692[142]。肥後細川家初代の細川忠興の六男寄之の嫡子。父の寄之は家老松井興長の養嗣子に迎えられ、松井興長は主君細川氏の別姓長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。興長が寛文元年(1661年)に死ぬと、父の寄之が八代城を預かり、直之は二十四歳で細川家家老、若き太守・細川綱利(1641~1712)を支え、藩政中枢で政務にたずさわるようになった。間もなく、寛文六年(1666年)に父の寄之が没し、29歳で八代城を預かる細川家筆頭家老になった。地元の研究者は、家老・直之は当時逼迫していた細川家の財政を立て直すに功があったという。寺尾孫之允から相伝を受ける。[140] 熊本藩家老一座八代城主3万石。『兵法二十七箇条』元禄3年(1690年)ころ、『二天流兵法書註解』元禄3年以前成立、享保6年写の原著者。[143]。なお、側に仕えた豊田正剛が『二天流兵法書註解』の写しを享保6年(1721年)に作成し、この伝書は野田系に伝承された。[140]なお、書名については、魚住孝至『日本人の道 宮本武蔵』ぺりかん社 2002年12月20日に倣ったが、播磨武蔵研究会のウェブでは『兵法書目註解』となっており、原本の確認が必要。
  71. ^ 1621-1688[144]。宮本武蔵より『兵法三十五箇条』相伝[145]なお、[17][146]。圓明流系図によると、寺尾求馬助は寺尾孫之允の弟子になっている。[75][147]『兵法三十九箇条』相伝奥書 寛文6年(1666年)/同7年、『五方技解』(「五方之太刀道」訓点)。[14]寛永十三年(1636)に十六歳で元服、知行二百石拝領。有馬陣(島原役)で戦功あり。寛永十六年(1639)鉄炮十挺頭、藩主細川綱利の代になって、寛文七年(1667)鉄炮二十挺頭、同十一年(1671)加増百石で、都合三百石、延宝七年(1679)鉄炮三十拾挺頭、貞享五年(1688)隠居せずに病死。嫡男の佐助信形が、家督を相続した。[148][149]寺尾求馬助は藩主細川綱利に指南したが、寺尾求馬助死後、細川綱利は柳生流を稽古した[150][13]
  72. ^ 寺尾求馬助から相伝を受ける。
  73. ^ 寺尾求馬助から相伝を受ける。
  74. ^ 1672~1749。父の豊田高達は、貞享三年(1686年)に主君長岡直之から知行百石を与えられて、熊本詰御奉行役・御長柄頭を兼帯、同年11月に熊本に移転。翌年に正剛は、主人長岡直之の嫡子・寿之(ひさゆき・1668~1745)の御部屋附きとなる。元禄元年(1688年)元服し、中小姓組に配属された。翌年(元禄二年)閨正月、中古小組から異動し長岡直之の近習になった。二十歳以降に、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番などの役儀に勤務した。元禄五年(1692年)二十一歳の正剛は、長岡直之の参府の供をして江戸へ行く。同年10月上旬から主君直之が大病し、近習の正剛が遺書の執筆を仰せつかった。同年12月主君長岡直之が逝去し、遺骸の供をして帰国。元禄七年(1694年)3月、父高達が病気で隠居して、23歳の正剛に家督(百石)を相続し、正剛は御馬乗組に配属された。翌元禄八年(1695年)3月、高達は病死。元禄九年(1696年)25歳で御目付役となり、家中の監察を行う。元禄十二年(1699年)の28歳のとき、それまで初名の杢平であったのか、父の専右衛門名を継いでいたのか、不明だが、又四郎という通り名を名乗り、豊田又四郎正剛となる。享保十一年(1726年)の55歳のとき、五十石を加増されて、都合知行百五十石にな理、翌年(1727)閏正月、御用人(家中の中枢にある役)を命じられた。享保十三年(1728年)10月、主人の豊之が武蔵流兵法を稽古するというので、豊田正剛は指南を命じられ、そのさい九曜御紋付御上下を拝領。とある。以後の継続して稽古した記録はなく、1回きりだと考えられる。[15][140]『二天一流兵法書序鈔』宝永4年(1707年)、『兵法口義』正徳元年(1711年)を著す[151]なお、主君長岡直之(松井直之)の側に仕え、長岡直之の『二天流兵法書註解』の写しを享保6年(1721年)に作成し、この伝書は野田系に伝承された。[140]なお、書名については、魚住孝至『日本人の道 宮本武蔵』ぺりかん社 2002年12月20日に倣ったが、播磨武蔵研究会のウェブでは『兵法書目註解』となっており、原本の確認が必要。
  75. ^ 1666-1701[153]。寺尾求馬助の息子。寺尾家系図によると、10人扶持20石で、主家より兵法師範を仰せつけられた。[154][155]武蔵の再来と称され、現代に続く指導体系の基礎を固める。「二天一流合口伝来」を行う。[19]志方半兵衛之経(寺尾求馬助の実子の寺尾藤次玄高の実子)は新免弁助信盛を2代と数えるが、寺尾求馬助の墓碑銘には二天流二代と刻まれており、新免弁助信盛を2代と数えるのは、志方半兵衛之経が伯父や叔父や祖父の門弟たちの権威を否定するための伝説の創作という見解もある[13]。 『五法刀構』元禄13年(1700年)を著す。[14]
  76. ^ -1739[156]。石高200石で、後にお召し放ちになり、浪人。[13] 『二天記』に末尾に付された友成正信の奥書 天保十五年(1844年)よると、武名を上げるために、師匠である新免弁助信盛を殺害しようとして失敗し、破門される。また藩内の不行跡により知行を召し上げられ、浪人となる。糊口を凌ぐため、近隣の者に指導を始めるが、新免弁助信盛は二天一流を名乗ることを禁止し、足遣いを変更させ、村上流として指南することを許す[157][158]。熊本藩に届け出た村上正勝系の二天一流の道統には名前が記載されない。[158]享保8年(1723)に『故村上平内源正雄兵法之書之事』を記したとされる。[159]なお、「新免武藏守藤原玄信三代之門弟」とあるし、安永二年(1773)歿の村上平内正勝の墓にも同様に「新免武藏守藤原玄信四代之門弟」と銘記されている。この三代・四代という数え方は、いづれも「武蔵二代」新免弁助を経由していることを示す。もし村上平内正雄が実際に新免弁助から破門されておれば、こんな墓碑銘はありえないという見解もある[160]
  77. ^ -1773[156]。村上平内正雄の長子。宝暦5年(1755年)1月に熊本藩より兵法指南役を仰せつけられ、二天一流の流名に復する。たいへんな人格者であった。[161]延享元年(1744)武芸上覧のさい、門弟を引き連れて出て、褒美に金子二百疋。宝暦五年(1755)二月、浪人のまま時習館西榭での武蔵流師役を任じられ、役料に五人扶持を与えられた。その後、宝暦六年に二十俵加増、宝暦八年十俵加増。[13]
  78. ^ 松下清蔵組。200石。剣術師役。[164]流儀退伝。[165]
  79. ^ -1788。『村上伝兵法口義』安永5年(1776年)を著す。兄村上正勝の出仕後、別格師範として藩士たちに指南。[166]。別格師範の記述の初出は、『全国諸藩剣豪人名事典』だが[167]、具体的な内容は分からない。豊田氏先祖附追加(豊田氏先祖附の記事)によると、豊田景英が、安永三年(1774年)、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見(師範代)を命じられ、毎年役料を受けるようになったとあるため、八代の教衛場の師範であったことが確実である[15][13]
  80. ^ 1740~1799[15][140]。八代の長岡家の家臣豊田正脩の二男として誕生。明和元年(1764年)5月、父豊田正脩隠居。父豊田正脩の家督を150石を継いだ景英は、御馬廻組に配属され、役目は式台御番。武蔵流兵法稽古見締、つまり家士たちが教衛場で武蔵流兵法の稽古をする監督も命じられた。明和3年(1766)12月、願い出て名を橋津甚之允正通から豊田専右衛門と改め、豊田氏にの復姓した。おそらくこの頃、正通から、豊田氏元祖の「景」を取って、景英に名を変える。明和4年(1767年)4月、前年に家督相続したばかりの主君長岡営之の近習になった。同年8月、永御蔵御目付役(主家の八代城三ノ丸にあった米蔵の管理人)に就いた。明和6年(1769年)12月、30歳の景英は永御蔵御目付役を免除され、式台御番で武蔵流兵法に出精するよう言い渡された。明和7年(1770年)2月は『豊田氏先祖附』を主家長岡家に提出。天明元年(1781)閏五月に『豊田氏先祖附』の追加(覚書)を主家長岡家に豊田守衛の名の提出。安永元年(1772年)正月、御台所頭(主家奥向きの、主人の家庭と親しく接する勤め)になった。安永2年(1773年)9月、御台所頭の役儀を免除され、式台御番になる。以降、教衛場での稽古指導に専念する。安永三年(1774)、八代の伝習館の二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を命じられ、師範代になって、毎年役料を受けるようになった。師の村上八郎右衛門は安永5年(1776年)7月に死亡し、同年11月、景英37歳、『二天記』を書き上げた。四年後の安永9年(1780年)5月、41歳の豊田景英は教衛場での二天一流の師範役を命じられた。[15][13]
  81. ^ 時習館の師役を拝命し、二十石五人扶持。[13][168]
  82. ^ -1802[156]。『二天流兵法秘伝集』他5巻 明和2年(1765年)~安永7年(1778年)を著す。[170]。村上派・寺尾派の奥義を極めた後、両派の違いに悩み研鑽し、明和6年(1769年)二天一流別派 野田派二天一流と名乗る。[171]
  83. ^ -1808[156]
  84. ^ 野田三郎吉種秀にも師事した[172]
  85. ^ 昭和天皇の御前で演武[172]
  86. ^ 『宮本武蔵・二天一流の世界 』土屋書店 1984年9月1日 を著す。著作では、写真と文章を使って、技法を説明。
  87. ^ 第19代師範。1929-2000[173]。志岐太一郎からも学ぶ。『宮本武蔵の真髄―五輪書と二天一流の極意』マネジメント社 1989年10月1日 を著す。著作のなかで、図解と写真と伝書を駆使して技法を紹介。また山東系の宮川泰孝や今井正之と交流があったこと、宮川泰孝の山東系の宗家継承についても言及。熊本市で医療法人を経営し、1989年から7年間日本ソフトボール協会会長を務め、ソフトボールの五輪競技採用に尽力。長女の大浦敬子[173]が、『超訳「五輪書」 強運に選ばれる人になる』海辺の出版社 2023/5/1を著す。
  88. ^ 第21代師範。『趣味どきっ! 刀剣Lovers探究 八の剣 二天一流(野田派二天一流)』NHK 2023/11/22(水) 午後9:30-午後9:55放送に出演。
  89. ^ 昭和14年1月1日、熊本市に一川格治の子として生まれる。昭和36年3月隈本商科大学卒。高校時代より熊本県代表として国民体育大会(剣道)5回出場。大阪府代表として都道府県対抗剣道大会に優勝。第42回全日本剣道選手権大会に二天一流演武で出場。現在、北友会師範、杉並区剣道連盟参与、荻窪剣友会代表、二天一流杉並会師範。『東京都県連だより』第82号 平成29年1月1日発行 「二天一流の世界 上」と『東京都県連だより』第83号 平成29年7月1日発行 「二天一流の世界 下」を著し、野田派二天一流の形を解説。[175][175][176][177]
  90. ^ 一川格治の子息 一川英機と町田輝雄が中心になって活動している。町田輝雄は日本体育大学体育学部体育学科教授[179]で、「宮本武蔵筆『兵法三十五箇条」再現テクスト』を『日本体育大学紀要』 46 (1), 45-50, 2016-09-30に発表している。[180]
  91. ^ 1650-1731。寺尾求馬助の息子。[182][13] 。寺尾家系図によると、5人扶持5石で、主家より兵法師範を仰せつけられた。[154][155]。新免弁助信森の死後、正徳二年(1712)藩主細川綱利が死んで、甥の宣紀が家督相続。この藩主細川宣紀が、寺尾藤次を兵法師範役として五人扶持十五石で召出し、度々御前で兵法を相勤めるようになった[13]
  92. ^ 『太田先生著述之兵法書』寛延3年(1750年)を著す。[143]
  93. ^ 寺尾求馬助の三男の玄高の息子。求馬助の相伝奥書を踏まえて書いた短い伝記である『二天一流相伝記』寛保2年(1742年)を著す。[184]寺尾藤次の嫡子だったが、知行200石の志方家に養子に入る[13] 。叔父の弁助に一流相伝を受け、元禄十四年(1701)弁助が四十五歳で病死して以後、実父の藤次に再伝を得た[185][13] 。宝暦5年(1755年)に時習館 (熊本藩)が設立され、武芸稽古所として東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)が設けられると、志方半兵衛は東榭の剣術師範のひとりとして、任用された[21][13]
  94. ^ 熊本藩二天流兵法師範志方半兵衛の5男新免弁之助は,廻国修行を藩に申し出たが許可されず、宝暦11(1761)年7月出奔し、廻国修行に出た。翌12年4月帰藩した際蟄居を申し付けられたが、13年8月に「連々剣術心懸,抜群之者付」という理由で赦されている。[186]
  95. ^ 。朽木内匠組。100石。剣術師役。[188]剣理についても造詣が深く、弟子たちが『兵法心気体覚書』『戦機二天流』『武蔵流修行心得之事』『二刀一流極意条々』を著す。[189]
  96. ^ 谷口覓『史料考證 勧進・宮本武蔵玄信』1995年11月1日、116頁では関孫之丞。
  97. ^ 後を継ぐ者なく、断絶[190]
  98. ^ 1673-17471[191]。寺尾求馬助の息子。寺尾家系図によると、5人扶持5石で、主家より兵法師範を仰せつけられた。[154][155]兄新免弁助信盛からも学ぶ。要出典
  99. ^ 1713-1747。号は如雪。二天一流師範。揚心流柔術師範。[192]女敵討ちの返り討ちにあった儒者水足屏山父子を殺めた下手人を父喜左衛門らとともに討ち取る。[193][194][195][196]
  100. ^ 楊心流柔術師範でもあった。要出典
  101. ^ 文政7年(1824年)[197]-1909年[198]。父につき修行。兄弟弟子の宮崎長兵衛とともに江戸に武者修行する。西南戦争で長子を失う。明治35年(1902年)に京都聖護院で開催された大日本武徳会の演武会に出場。弟子で京大総長の木下広次が打太刀を務める。[41][42]
  102. ^ 1885-1969[199]。武蔵木刀・鉄扇相伝。1908年[199]、兵法二天一流宗家師範許状。関口流抜刀術第14代宗家。[200]1886-1969[199]号を鉄心。昭和30年代(1955-1964年)以降型を手直しし、教える時期によって技を改変した。[201]講述が門人の馬場清房藤政により『兵法二天一流太刀勢法解説書』として編集され、1960年に完成。[202]1967年、宇佐神宮に二天一流を相伝する「誠心直通之碑」が立てられ、清長忠直政実に宗家を譲る。[203]しかし、その後大分県日田の宮川泰孝にも宗家を譲った。[204]1966年8月25日に宮川泰孝により墓所として不絶塚僻が建立された。[205][204]
  103. ^ 1908-1977。[206]第9代師範。細川家伝統兵法二天一流と名乗る。二天一流免許皆伝。宗家師範代見。[200]青木規久男が手直しする前の「五法之勢法」と「勢法二刀合口」という二刀下段からなる14本の型を伝承。[207]二天一流鍛錬会会長。[206]船曳芳夫・大坪指方との共著『新・宮本武蔵考』岡山県大原町宮本武蔵顕彰会 1977年12月17日にて、二天一流鍛錬会の稽古体系の概要を説明。写真や具体的な手順の記載はなし。[208]
  104. ^ 第10代師範。『細川家伝統 兵法二天一流 宮川伊三郎派』2016年を監修。
  105. ^ 第11代師範。『宮本武蔵伝説―最強剣士・宮本武蔵の激闘人生を検証! (別冊宝島 574) ムック 』宝島社 2001年12月で、二天一流の型を解説。『宮本武蔵伝説 (宝島社文庫)』宝島社 2001年4月1日で、二天一流の型を解説。『宮本武蔵 実戦・二天一流兵法「二天一流兵法書」に学ぶ』文芸社 2002年10月15日、『新編真訳 五輪書 兵法二天一流真諦』文芸社 2007年11月15日を著す。2005年2月18日にNHK福岡発地域ドラマ「我こそサムライ!」に協力。劇中の太宰府にいる二天一流の継承者・君原誠心(小川正)のモデルとなる。DVD『天下無双人 武蔵になる。兵法二天一流 極意指南 勢法二刀合口編』BAB 2004年1月1日にて型の指導と解説。[213][214]
  106. ^ ファミリーヒストリー 「お笑い芸人・バカリズム~福岡田川 炭鉱の町に生きて~」』NHK 2021年1月25日(月)19:30~20:42に放送に協力。演武の映像はなし。[217]
  107. ^ 二天一流免許皆伝。[200]
  108. ^ 第9代宗家。1967年、宇佐神宮に二天一流を相伝する「誠心直通之碑」が立てられ、青木規矩男から相伝を受け、第九代宗家となる。[203]
  109. ^ 第10代宗家を1976年11月21日に継承。1956年7月、青木規矩男に入門。1967年1月、清長忠直に師事。『宮本武蔵 独行道 二天一流勢法』1987年12月4日を著す。[218]2003年NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が放送され、武蔵ブームに火がついた最中、岩見利男、清長文哉、青木規矩男ゆかりの台湾の弟子の3人に相伝を発表。[203]台湾の弟子は陳信寰(チンシンホヮン)である。[219]
  110. ^ 1948-。福岡県生まれ。第11代宗家。1979年に宮本伊織第十三世・宮本信男の紹介で、兵法二天一流正統第十代宗家の今井正之に入門。2000年に北九州市小倉南区の自宅に道場「獨行庵」を開設。2001年に免許皆伝、2003年に兵法二天一流第十一代を継承。日本各地はもとよりアメリカ、フランス、スペイン、カナダ、メキシコなど世界各地で日本武道の普及や紹介のため、セミナーを開催している。[222]2006年当時、小倉南区消防署に勤務。合田周平との共著『こころの潜在力 宮本武蔵と中村天風』PHP研究所 2006年9月22日。
  111. ^ 第11代宗家。
  112. ^ 1948[203]-2020.01.04[224]。大分県宇佐市出身。第12代宗家。居合道教士七段、剣道四段(2007年当時)。実父五所元治から関口流居合術、兵法二天一流を学ぶ。1994年、関口流居合術免許皆伝。1998年、兵法二天一流免許皆伝。清長文哉の死を受けて、宇佐市剣道連盟が清長忠直夫人や今井正之や清長文哉の門人たちと話し合い、2007年吉用清を兵法二天一流正統十二代に推戴した。[203]DVD『古流 関口流 実戦居合道』2013年7月 株式会社ヘルツをリリース。
  113. ^ 第11代宗家。台湾剣道連盟会長。2011年に東日本大震災が発生すると、台湾で開催している国際都市剣道交流大会において、被災地に対する支援を訴え、寄付を募った。[219]台湾版のWikipediaの二天一流の項目にも記載があり、そこでは「宗家」という呼称は用いられず、「傳人」という呼称が使われている。[226]
  114. ^ 第二次世界大戦からの復員後、清長忠直の紹介で、青木規矩男に師事。清長忠直が後継者を定めずに亡くなった後、二天一流の次の宗家にという話もあったが、多忙で断り、弟弟子の今井正之が宗家を継ぐ。剣道の降盛とは衷腹に古武道への無関心さを不安に思い、兵法二天一流の小冊子を作成。[203] また月刊『剣道日本』にて1986年4月号から1987年3月号にかけて、詳解・居合道 関口流を連載。 。
  115. ^ 1953-[227]。五所元治から剣道、関口流居合術、二天一流を学ぶ。1991年全日本居合道大会五段の部の県代表で初出場3位、1992年2位。1995年六段の部で2位、居合道教士七段、剣道四段(2007年9月当時)[227]。正統兵法二天一流第十二代宗家代見、兵法二天一流 免許皆伝、関口流抜刀術 免許皆伝、全日本剣道連盟 居合道 教士七段[228]
  116. ^ 第9代宗家。円明之木太刀相伝。不絶塚僻建立昭和41年8月25日。[205]野田派二天一流の大浦辰男が昭和53年7月30日に宮川泰孝にお会いになり、青木規矩男から宮川泰孝と清長忠直が山東派の第9代を継承したという話や、宮川泰孝が恩師の青木規矩男の墓所を整備した話を聞いた。昭和60年(1985年)2月11日に、清長忠直の弟子の今井正之にお会いになりお話しされて、大分の(日田の宮川泰孝)に山東派の宗家が継承されたのはご存知だった。その時点で、青木規矩男の墓所を宮川泰孝が整備されたのは知らなかった。[204]
  117. ^ 昭和60年(1985年)に古武道功労者表彰を受けた。
  118. ^ 第10代宗家。『五輪書』編集兼発行人 宮川 護人 編集協力 関西図書出版 1982年8月8日発行
  119. ^ 二天一流免許皆伝。宗家師範代見。関口流抜刀術第15代宗家。[200]
  120. ^ 二天一流免許皆伝。宗家師範代見。青木規久男の講述を『兵法二天一流太刀勢法解説書』として編集し、1960年に完成。[202]

出典

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関連項目

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外部リンク

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宮本武蔵・二天一流の学術研究団体
  • 播磨武蔵研究会五輪書の筑前・越後・肥後系の伝書の校合後のテキストを掲載。その他、家譜などの資料の引用が多い。
二天一流の団体

上記の系譜記載の師範の団体のみを記す。