にたに ひであき 二谷 英明 | |
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国際情報社『映画情報』第29巻5号(1964)より | |
本名 | 二谷 英明 |
生年月日 | 1930年1月28日 |
没年月日 | 2012年1月7日(81歳没) |
出生地 | 日本 京都府舞鶴市 |
国籍 | 日本 |
血液型 | B型 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画、テレビドラマ |
活動期間 |
1956年 - 2012年 (放送界へのデビューは1954年) |
活動内容 |
1954年:同志社大中退後、ラジオ佐世保(現・長崎放送)にアナウンサーとして入社 1956年:第3期日活ニューフェース 同年:映画『沖縄の民』でデビュー 1971年:日活を退社してフリー 1977年:『特捜最前線』 |
配偶者 |
佐世保時代に一般人と結婚 白川由美(1964年 - 2012年) |
著名な家族 | 二谷友里恵(長女) |
主な作品 | |
映画 『夜霧よ今夜も有難う』 『日本沈没』〈1973年版〉 『華麗なる一族』 テレビドラマ 『特捜最前線』 『信長 KING OF ZIPANGU』 |
二谷 英明(にたに ひであき、1930年1月28日 - 2012年1月7日)は、日本の俳優。京都府舞鶴市出身。京都府立東舞鶴高等学校卒業、同志社大学文学部英文学科中退。妻は白川由美。長女は二谷友里恵。
大学中退後、アルバイト生活を経て1954年ラジオ佐世保(のちにラジオ長崎と合併し長崎放送と社名変更)に開局と同時に入社。3年間、司会や英語放送のアナウンサーを務めた。
佐世保時代に前妻と結婚したが、後に離婚。
1956年、小林旭らと第3期ニューフェイスとして日活に入社し、同年『沖縄の民』で夜襲の少尉役としてデビュー。
1957年、主演デビューを飾る。
1961年、日活スター映画のローテーションであるダイヤモンドライン入り。「ダンプガイ」の愛称で、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎などとともに日活アクション路線の全盛期を築いたが、次第にヒーローのライバルや相棒、あるいは上司役といった、貫禄ある準主演者としての出演が多くなり、あらゆるジャンルの日活映画に欠かせない存在として高く評価されている。日活スターの中でも比較的年長者であったこともあり、実際に日活撮影所でも「エイメイさん」と呼ばれ、多くの若い俳優達から頼られる存在で人望も厚かった。
1968年には、旧西ドイツの連続テレビドラマ『パトロール隊出動』(邦題。原題は「Polizeifunk ruft」)の中の2話分に出演。その2話のサブタイトルは「Empfang in Japan」(主人公が国際会議に出席のために日本に出張し麻薬の密輸に巻き込まれる)と「Flucht nach Kyoto」(帰国前に、東京で働く学生時代の友人を訪ねるが行方不明になっていた)、詳細は不明だが日本が舞台のストーリーであると思われる。
1971年に日活を退社。
1977年から『特捜最前線』で主演・神代警視正(課長)役として出演したことでも知られる。1979年に放送された北海道ロケ中にスキーで転倒して首を骨折する重傷を負ったが、4か月の治療後に復帰した[注釈 1]。1987年3月の終了まで全509回を数える人気番組となった[注釈 2]。
その一方で、二谷が主演していた『特捜最前線』の提供スポンサーであった、日産自動車の高級車のセドリックの専属CMキャラクターを、1972年から1987年までの15年間の長きにわたり務めており、二谷が専属CMキャラクターを務めたセドリックが『特捜最前線』の劇用車(特命車)としても活躍していたことで、「テレビ朝日=『特捜最前線』=二谷英明=セドリック=日産自動車」のイメージで一般大衆にも広く知られるようになり、Wタイアップ効果は絶大であった。
山村聡とも親交があった。1990年代からは積極的にボランティア活動に参加、1993年には脚本家の小山内美江子らと教育を受けられない国々の子供たちのために学校建設活動を行う特定非営利活動法人「JHP・学校をつくる会」を設立した[注釈 3]。自ら何度もカンボジアに赴いて学校建設に尽力するなど、「JHP・学校をつくる会」の副会長理事として活躍していた。
2003年10月に脳梗塞で倒れ、高級老人ホームで療養し、芸能活動は休止状態にあった。JHP・学校をつくる会の副会長理事職に長らく就いていた。その他、日本映画俳優協会の理事長、日本俳優連合の専務理事を務めた。
妻は1964年に結婚した女優の白川由美(東京都品川区出身)。娘はトライグループ社長で元女優の二谷友里恵。2009年ごろより家庭教師のトライのCMに、かつて主演した刑事ドラマ『特捜最前線』の映像が使用されたCMが複数バージョン放映されており、往年の元気な姿がテレビで見られるようになっていた。
2012年1月7日午後4時58分、肺炎のため、慶應義塾大学病院にて死去[1]。81歳没。二谷の死去を受けて日活時代の仲間であった宍戸錠、松原智恵子、小林旭、吉永小百合などが故人への思いを込めたコメントを発表している[2][3][4]。
通夜は1月10日、葬儀・告別式は11日に東京都港区芝公園の増上寺で営まれた。通夜には長女の元夫だった郷ひろみ、日活時代の同僚である渡哲也、『特捜最前線』で共演した大滝秀治、藤岡弘、を始め、反町隆史・松嶋菜々子夫妻、秋野暢子などが弔問に訪れた[5]。葬儀・告別式では二谷を「東京のお父さん」と慕っていたシンガーソングライター・俳優の長渕剛がギターを持って参列、友人代表として弔辞を読みあげ、祭壇の前で 1993年に発表した自身の楽曲「12色のクレパス」を熱唱した。
戒名は「慈雲院學徳俊英居士(じうんいんがくとくしゅんえいこじ)」。前述の特定非営利活動法人「JHP・学校をつくる会」の副会長理事としての活動や、数多くの俳優仲間たちから慕われていたこともあり、「優しく慈しむ心で、雲のように包み込む包容力を持ち、学校を作るような徳を残す、優れたものを持っている人」との意味で付けられた。