五郎八姫(いろはひめ、文禄3年6月16日(1594年8月2日)- 寛文元年5月8日(1661年6月4日)[1])は、徳川家康の六男・松平忠輝の正室。伊達政宗の長女。母は正室の愛姫(田村清顕の娘)。出家後の院号は天麟院(てんりんいん,墓所は宮城県松島町の天麟院)。
文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であった。
後継者となる男児誕生を熱望していた政宗は男子名である『五郎八』しか考えておらず、生まれたのは女児であったが、そのまま五郎八姫と命名したといわれている[2]。
五郎八姫は、聚楽第から伏見、大坂と各地を転々としたが、慶長4年(1599年)1月20日に有力大名との関係を深めようとする徳川家康の策謀の一つとして、家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約することとなる。慶長8年(1603年)には伏見から江戸に移り、慶長11年(1606年)12月24日に忠輝と結婚した。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。
元和2年(1616年)、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らし、仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれた。寛文元年(1661年)5月8日、死去。享年68。墓所は松島の天隣院[3]。