スパイダース在籍時の井上順 | |
基本情報 | |
出生名 | 井上 順 |
別名 | 井上 順之(旧芸名) |
生誕 | 1947年2月21日(77歳) |
出身地 | 日本・東京都渋谷区 |
学歴 | 成城学園高等学校中退 |
ジャンル |
ロック ポップス 歌謡曲 |
職業 |
タレント 歌手 俳優 |
担当楽器 |
ボーカル パーカッション(「サイドタンバリン」) |
活動期間 | 1963年 - |
事務所 | オー・エンタープライズ |
共同作業者 | ザ・スパイダース |
公式サイト | オー・エンタープライズ:井上 順 |
井上 順(いのうえ じゅん、本名同じ、1947年2月21日 - )は、日本のタレント、歌手、俳優、コメディアン。東京都渋谷区生まれ・在住[1]。一時は井上 順之(いのうえ じゅんじ)の芸名も使用していた[2]。身長171cm[2]。
東京都渋谷区の代々木公園前で馬場を営む家の3人兄弟の末子として生まれ、麻布龍土町で育った。祖父は日本で初めて競走馬を輸入した人物で、富ヶ谷で「井上馬場」を経営していた[3]。父親は馬場専属の獣医師[4]である。父の影響もあり、幼少期は獣医に憧れていた[5]。渋谷区立大和田小学校、渋谷区立松濤中学校卒業[1]。小学校の時は映画が好きで、当時は保護者同伴の場合に小学生は無料であったことから、父親に相当する年齢の男性に付いて入館し、数多く鑑賞した[6]。中学校の卒業集合写真は、ジャズ喫茶に入り浸りたびたび学校をサボっていたため、一同が並ぶ写真の左上で欠席枠に入っている[6]。
1961年(昭和36年)、13歳で、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾らがいた「六本木野獣会」へ加入し、峰岸にはデビュー前から飲食や遊びなどにしばしば誘われ、峰岸が亡くなるまで弟のような存在だった[7]。
成城学園高等学校在学中に野獣会の仲間とバンド「野獣会オール・スターズ」を組み[2]、銀座や新宿のアシベ、上野のテネシーや池袋のドラムなどで演奏活動をしているときに田邊昭知が率いるザ・スパイダースから「新しい形のスパイダースを作りたい」と声をかけられ[2]、1963年(昭和38年) 成城学園高等学校在学中の16歳のとき加入[5]。加入後はグループ・サウンズ時代の最年少メンバーとして、ツインボーカルを堺正章と、パーカッションは「サイドタンバリン」などと自らネタにしつつ、コンサートMCは堺と共に、それぞれ担当した。後年にフジテレビの『夜のヒットスタジオ』などで見せる軽妙なトークと気さくな性格はこの時期に研鑽され、現在の芸風の基盤を作り上げた。
1970年(昭和45年)、スパイダースが解散した後に「井上順之」と芸名を改めるが、痔を患ったことから「『じ』は良くない」と1973年に「順」へ戻した。
1971年(昭和46年)、24歳のときに『昨日・今日・明日』でソロ歌手としてデビューした。歌手を本業としながら俳優や司会もこなして「ジャーニー!」「ピース!」など数々の流行語を生み出し、シングルも発売し続けた。『ラブラブショー』の共演をきっかけに、資生堂の人気モデル青木エミと大恋愛の末に結婚するが、1982年(昭和57年)夏に離婚して以後、独身である[8]。
フジテレビの『芸能人野球大会』で「堺とデッドボールをぶつけ合う」「乱闘と見せかけて二人で社交ダンスを踊る」などの秀逸なコントが例年見られた。スパイダース解散後も、堺とは仕事を数多く共にして近年はジョイントコンサートを催している。
1976年(昭和51年)から1985年(昭和60年) 、『夜のヒットスタジオ』の男性司会者として最長の9年半の間、3代目司会を務め、干支が一回り上の芳村真理と絶妙なコンビネーションで番組黄金期を築いた。「茶化し」に徹しつつエンターテイナーとして出演者を鼓舞する井上の司会に、当時学生の三谷幸喜は感銘して、映画監督デビュー作の『ラヂオの時間』で「『夜ヒット』の井上順」を彷彿させるキャラクターを登場させ、これを本人が演じた(三谷作品では『3番テーブルの客』や『真田丸』にも起用されている)。
石井ふく子がプロデュースする作品で頻繁に起用されており、「石井組(ファミリー)」の一員と認知されている。
1999年頃から感音性難聴で補聴器を装用[9]している。『夜のヒットスタジオ』で司会者として共演した芳村真理と約30年ぶりにTV番組で対談した際に「迷惑をかけたくない、自分の負の部分を見せたくない。だから30年間共演を避けていた」と、その心境を芳村に打ち明けた[10]。
2002年(平成14年)に放送を開始したNHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』で、「テレビのジョン」という犬型ロボット役とフレーミーで声優を担当した[11]。NHKの『みんなのうた』で歌った楽曲「テトペッテンソン」は、インパクトがある歌詞が子どもたちに好評で人気となった[12]。
2012年1月に父親が102歳で他界した。2013年に「見た目が変わらない芸能人」として、『文藝春秋』で市毛良枝、野口五郎、由美かおるらと共に紹介された[13]。
2019年2月、リオン株式会社の「リオネット補聴器アンバサダー」に就任[14]。
2020年1月6日、渋谷区名誉区民に顕彰[15]。同年4月、Twitterアカウントを開設。
発売日 | 規格 | 規格品番 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 |
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フィリップスレコード | |||||||
井上順とザ・スパイダース名義 | |||||||
1970年4月5日 | EP | FS-1120 | A | 人生はそんなくり返し | 安井かずみ | かまやつひろし | 井上堯之 |
B | 本気で君だけを | ||||||
井上順之名義 | |||||||
1971年4月25日 | EP | FS-1189 | A | 昨日・今日・明日 | 阿久悠 | 都倉俊一 | |
B | ふたり | ||||||
1971年9月25日 | FS-1215 | A | お世話になりました[注釈 1] | 山上路夫 | 筒美京平 | ||
B | 街はずれの家 | ||||||
1972年1月25日 | FS-1235 | A | 涙 | 阿久悠 | 都倉俊一 | ||
B | 心の中をみて下さい | ||||||
1972年6月5日 | FS-1710 | A | 幸福泥棒 | ||||
B | 遠い汽笛 | ||||||
1972年12月 | FS-1723 | A | ラヴソング | 山上路夫 | 川口真 | ||
B | おみくじ | ||||||
井上順名義 | |||||||
1973年 | EP | FS-1744 | A | 幸せくん | 南せいじ | 小林亜星 | 高田弘 |
B | ふれあい | ||||||
1973年 | FS-1764 | A | 月見草の唄 | 山上路夫 | 山下毅雄 | ボブ佐久間 | |
B | じゃがいも[注釈 2] | ||||||
1973年 | FS-1777 | A | 虹[注釈 3] | 阿久悠 | 森田公一 | 高田弘 | |
B | 何も言わなくても | 千家和也 | 小林亜星 | ||||
1974年 | FS-1782 | A | 愛情物語 | なかにし礼 | 都倉俊一 | ||
B | 小さな青春 | ||||||
1974年12月 | FS-1812 | A | 裸足になろう | 永六輔 | 宮川泰 | 竜崎孝路 | |
B | 初めての旅 | ||||||
1976年 | FS-2002 | A | 友よ泣け | 藤公之介 | 井上堯之 | 川口真 | |
B | 親友 | ||||||
1976年 | FS-2033 | A | ちんちん電車 | 井上堯之 | 瀬尾一三 | ||
B | お隣りさん | 山上路夫 | 萩田光雄 | ||||
1978年 | FS-2089 | A | アイム・クライド I'm Cried | 島武実 | 宇崎竜童 | 船山基紀 | |
B | グッドナイト・マイ・ダーリン Good Night My Daring | 竜真知子 | マイケル・K・中村 | 萩田光雄 | |||
1979年 | FS-2126 | A | いけネェいけネェもういけネェ | なかにし礼 | 小田裕一郎 | 前田憲男 | |
B | おそい初恋 | 井上堯之 | 萩田光雄 | ||||
リプリーズ | |||||||
1980年11月28日 | EP | L-381R | A | 風の中[注釈 4] | 岡本おさみ | 吉田拓郎 | 馬飼野康二 |
B | チャップリンのステッキ | ||||||
ワーナー・エレクトラ | |||||||
1986年12月21日 | EP | M-3603 | A | 微笑をあなたに | 玉井冽 | 渡辺貞夫 | 野力奏一 |
B | 微笑をあなたに(インストゥルメンタル) | - | |||||
ハミングバード | |||||||
1995年2月 | 8cmCD | WPD4-7234 | 1 | なんとなくなんとなく(ニューボーカル・バージョン)[注釈 5] | ムッシュかまやつ | 井上堯之 | |
2 | EVERLASTING LOVE 永遠の愛に | 井上堯之 | |||||
エイベックス・ピクチャーズ | |||||||
2003年7月24日 | CD | AVCA-14750 | 1 | テトペッテンソン | 佐藤雅彦 | アンリ・デス | 栗原正巳 |
2 | テトペッテンソン(カラオケ) | - |
発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
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フィリップス | |||
1971年 | LP | FX-8021 | 昨日・今日・明日/井上順之ファースト |
1972年 | FX-8032 | ラブ / 順之とエミの世界
※共演:青木エミ |
発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
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フィリップス | |||
1973年 | LP | FX-8075 | 井上順 ハッピー・コンサート
※ 1973年6月9日、東京郵便貯金ホールにて行われたライブを収録したアルバム。 |
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 | アルバム |
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1995年1月25日 | フィリップス | CD | PHCL-2041 | 井上順 NEW BEST |
2004年9月8日 | ユニバーサルミュージック | UPCY-6017 | ゴールデン・ベスト |
1976年(昭和51年)4月から、初代三波伸介に代わり芳村真理の3代目パートナーとして『夜のヒットスタジオ』司会に抜擢された。
井上が、相手役の芳村、ゲスト歌手、「ご対面」ゲストとして登場した一般人、などあらゆる人物を「茶化し」て「冗談」や「駄洒落」などのジョークを連発すると、芳村が受け流して軌道修正する絶妙のコンビネーションが確立され、視聴者らに好評を博した[独自研究?]。井上は「テレビに不慣れな歌手の緊張感をとにかくほぐして、その人が気持ちよく歌ってもらえるようにするための策として『茶化し』や『シャレ』などを多用した」と語り、芳村は「歌の時は、順ちゃんでさえも相当緊張していた。だから、歌手の緊張感を同業者としての視点から誰よりもよく分かっていた」と評価している。[要出典]
その一方で、司会末期は井上が知らないジャンルの歌手やバンドが増えたこともあり、若手や新人をジョークで茶化すことが芸能界の悪習だとして、歌手やファンの怒りを買うケースも生じていた。また、シーナ&ザ・ロケッツの出演時に鮎川誠の出自へ不用意に言及するなど、無神経だと指摘されることもあった。[要出典]
芳村の衣装を「茶化し」たり「駄洒落」にするものが多かった。