交響曲 ト長調 K. Anh. 221 (45a) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したと考えられる交響曲。『旧ランバッハ』の愛称で呼ばれており、通し番号を付けて交響曲 第7a番と表記されることもある。
1766年にデン・ハーグで書かれ、1767年に改定された。初版と改訂版の両方が現存している。
1769年1月、モーツァルト一家はザルツブルクからウィーンへと向かう旅の途中、様々な場所に立ち寄る中で北オーストリアのランバッハ寺院に足を運んだ。バイエルンとオーストリアの修道院の習わしとして、ランバッハ寺院は旅行者に部屋と食事を提供し、小さなチャペルを礼拝と余興のために整備していた。この寄り道に関しては一家の書簡で触れられておらず、修道院に残された2つの草稿から窺い知ることができるのみである[1]。
この2つの草稿は20世紀初頭に写譜(自筆譜ではない)の形でランバッハ寺院の文書保管庫から発見されたものであり、おそらくモーツァルト一家が施された歓待に対する返礼として贈ったものと思われる[2]。そのうちの1つ『旧ランバッハ』は『Del Sigre: Wolfgango Mozart. Dono Authoris 4.ta Jan. [1]769』と題されており、一方で同日の日付となっているもう1作の『新ランバッハ』と呼ばれる交響曲はレオポルトの作品とされる。モーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインは『旧ランバッハ交響曲』は1767年から1768年のウィーン滞在中に書かれたものと推測し、K.45aという番号を与えてケッヘル目録に組み入れた。この分析はケッヘル目録の以降の版にも引き継がれることになった。目録のこれ以前の版では、本作品についてはブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のカタログのインキピットに書かれているということ以外に知られておらず、K. Anh.221という番号を割り振られていた。
1964年、アンナ・アマリエ・アーベルトは2つのランバッハ交響曲の表紙が偶然入れ替わってしまったという、新しい仮説を提唱した。彼女の理論は両作品を丹念に検討し、また同時期にレオポルトとヴォルフガングが作曲したと知られている他の交響曲と比較した上で導かれたものだった。アーベルトの下した結論では『旧ランバッハ』がより「古風な様式」であり、美しさの点からも「良さが少ない」交響曲であるため、レオポルトこそが才能を感じられないこの楽曲の作曲者であるに違いないということになった。また、『旧ランバッハ』の第1楽章はレオポルトの他の交響曲の第1楽章と多くの形式的、様式的な類似点を有しており、それは『新ランバッハ』交響曲の第1楽章をヴォルフガングの他の交響曲の第1楽章と比較した場合も同様であった。加えて、『旧ランバッハ』第1楽章には主題がひとつしかなく、2小節のフレーズが多用されているという点からもレオポルトの作品であることが示唆され[注 1]、一方でより連続性があり旋律の発想が多様な『新ランバッハ』はヴォルフガングの作品であろうと考えられた。これ以降、『新ランバッハ』交響曲がヴォルフガングの作品として出版され、モーツァルト交響曲全集の録音にも組み入れられた。
しかし、ザスローは以下の理由から元々考えられていた作曲者の方が正しいとする説を提唱した[1]。
1982年2月、レオポルトとヴォルフガングの姉のナンネルおよびその他の人物の筆跡による『旧ランバッハ』のオリジナルのパート譜が、ミュンヘンにあるバイエルン州立図書館から発見された。レオポルトはその表紙にヴォルフガングの名前と並べて「à la Haye 1766」と記していた。これは『旧ランバッハ』がデン・ハーグに滞在していた際にヴォルフガングによって書かれた楽曲であることを示唆しており、おそらく1766年3月11日に行われたウィレム5世のオランダ総督就任を祝うためであったと予想される。その後、一家は交響曲の楽譜を携えて旅を続け、ヴォルフガングはいくつかの修正を、特に内声部に関して施したのである。
全3楽章。演奏時間は約14分。
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第1楽章・第2楽章・第3楽章 カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏。 | |
第1楽章・第2楽章・第3楽章 ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団による演奏。 ******** 以上の演奏は何れもYouTubeアートトラック公式収集による。 |