『代書』(だいしょ)は、落語の演目のひとつ。『代書屋(だいしょや)』とも呼ばれる。もとは上方落語であるが、現在は東京落語でも広く演じられる。新作落語の中では古典に近い存在となっている。
1938年(昭和13年)から、大阪市東成区今里の自宅で一般代書人(現在の行政書士に当たる公文書作成と代筆業の兼務。当時は届出制)を営んでいた4代目桂米團治が、その経験から創作した新作落語。
1939年4月15日、「上方はなしを聴く会」で初演[1]。原典にあたる口演速記は雑誌『上方はなし』第46集(1940年5月発行)に掲載されている[2]。弟子の3代目桂米朝によると、従来の落語で使われてきたクスグリがひとつも使われていないことが、4代目米團治の自慢であったという[3]。
発表当時から人気作となり、4代目米團治が高座に上がると客席から「代書屋!」「代書!」と叫ぶリクエストが絶えなかったという。
4代目米團治から直弟子である3代目桂米朝に伝えられたが、米朝は3代目桂春団治と2代目桂枝雀に付けた(=伝授した)後、あまり高座に掛けなくなった。3代目春団治に関しては、「春団治」襲名直前に米朝が持ちネタの少なさを指摘し、それに対して稽古を懇願したことに米朝が感服して「あんたの気持が嬉しいさかい、『代書』をやる。そやさかいやる限りは、わしはしばらくこのネタを演らんつもりや」と答えた経緯がある[4]。米朝の口演は1983年4月24日、京都府立文化芸術会館の「四代目桂米團治三十三回忌追善落語会」でオリジナルの形で演じた(カセットテープ化されている)のをはじめとして、残された音源や映像は他に2つ(レコード、DVD各1)と少ない[5]。米朝の息子である5代目桂米團治は襲名後、多く演じている。
東京では同地で上方落語を演じた落語芸術協会の2代目桂小南から落語協会の柳家喜多八へと伝わり[6]、江戸噺のスタイルで3代目柳家権太楼、古今亭寿輔などの多くの落語家が手掛ける。
以下は、上方での演じ方に準じる。
代書屋のもとに、無筆の男が履歴書の代書を依頼しにやって来る。代書屋はさっそく仕事に取り掛かる(以下、演者は扇子を筆に見立て、男の言ったことを代書屋が紙に書き写す一連の動きを演じ続ける)。
男は、本籍地・現住所を「大阪市浪速区日本橋3丁目26番地、風呂屋の向かい」、氏名の漢字表記を「おまかせします」、生年月日を「そういうもンは、なかったように思う」と答え、代書屋をいちいち困らせる。生まれた年については、男が「御大典おましたやろ。そのときに提灯行列が出ましたやろ。あのとき『お前も若いもンの仲間入りさしたる』ちゅわれた(=と言われた)んだ。その晩に、今の嬶(かか=妻)と……」と語るので、代書屋はしかたなく逆算で割り出す。学歴については、男が「ジンジョウ、という小学校を2年で卒業した」と言うので、代書屋は紙に「本籍地内小学校を中途退学」と書きこんだ。
代書屋は次に「職歴、と言うてもわからんやろ。あんたのやって来た仕事、商売を順々に言うてもらおう」と男にたずねる。「提灯行列の明けの年に、友達が『巴焼きの道具ゥ空いてるさかい、使えへんか』言うて貸してくれたんだ。借りに行たら、錆びで緑青が吹いてまんねや。それをペーパーで……」「余計なこと言いなはんな。場所は?」「玉造の駅前でんがな。家賃が……」「家賃はどうでもええねや。『同市内玉造駅前において』……」ここで代書屋は、「巴焼き」をフォーマルに説明する語句が思い浮かばず、思案する。「『回転焼き』『太鼓焼き』『太鼓まんじゅう』……そうや、『まんじゅう商を営む』と、こない(=こういうふうに)しとこか。これはいつ頃まで?」「いや、やろう思いましたんやけど、家賃高いから、やめた」
「……一行抹消。あんた、ホンマにやったことだけを言いなはれや」「同じ年の12月に、夜店出しやったんだ」「『露店営業人として』……何を売りなはった?」「ヘリドメを売ったんで」「服のえり止め?」「いや、減り止め。下駄の歯ァの裏に打つゴム」「『下駄の裏面に打ち付けたる摩耗防止用ゴム製』……どない書いたらええんや、こんなケッタイなもン。『履物付属品を販売す』と、こうしよか。これはいつまで?」「これはちゃんと道に品物並べましたんや。ところが12月でっしゃろ、冷たい北風がピューピュー吹いてくる。アホらしなって、2時間でやめた」
「……一行抹消。あんたが、ご飯を食べてた本職は一体何だんねん」「わたい大体は、河太郎(がたろ)だんねん」「河太郎て何だんねん」「胸のとこまであるゴム靴履いてな、金網で川底をさらって、鉄骨の折れたんやら釘の曲がったんやら選(よ)ってる奴がおまっしゃろがな」「ああ、あれ河太郎ちゅうのん。いよいよ書きようがない」「どうでっしゃろ、『河太郎商を営む』ちゅうのは」「黙ってなはれ。『河川に埋没したる廃品を収集して生計を立つ』」「うまいもんでんなあ」
男はすかさず続ける。「昭和5年の5月5日(あるいは、昭和10年10月10日)や。忘れもせん、飛田(あるいは、松島)だ」「『西成区山王町(松島の場合は、西区松島町)において』。これは何をやりなはったんや」「わたいと松っちゃんが初めて女郎買い行たんや」「アホか! どこぞの世界に、履歴書に女郎買いに行ったん載せる人がおます」「これぐらいのこと書いとかなんだら、読むもンがおもろない」代書屋は頭を抱える。
「もう、こっちでええ加減に書きます。賞罰はないな?」「わたいにも年に一遍おまっせ」「正月やない。警察へ引っぱられたとか、ほめられたとか。ほめられたことないやろ?」「ありまっせ」「ちょっと人にほめられたぐらいではあかんのや。大きく表彰されたとか」「わたい、こんな大きな賞状もろて、新聞に写真入りで載ったんだっせ。新聞社主催の大食会でぼた餅56個……」
「もうよろし。『右の通りに、これ相違なく候(そうろう)なり』。ここへ名前書きなはれ。本人自署というて、名前だけは本人が書かな(=書かないと)いかんねん」「それが書けるなら、あんたとこへ頼みに来るか」「ちょっと判を貸しなはれ。『自署不能につき代書す』と書いといたるわ。1枚30銭が2枚かかったさかい、60銭置いていきなはれ」「30銭より持ってまへんねん。1枚だけもろて帰りま」「そんなもん半分だけ持って行てどないもなるかいな。もう、負けたるさかい持って行きなはれ」
このあと、中気で字が書けない、という老人が結納の受け取りの代書を頼みにやって来る。老人は、「贅沢を言うて申し訳ないのじゃがな、ゲンの(=縁起をかつぐ)もンじゃでな、筆と墨をサラ(=新調)のもので頼めませんかな」と言うばかりか、筆や墨にまで「もっとええもん使こてくれ。」と注文をつける。「よろしおます。」と新しい筆を下ろし、上等の墨をすったところで老人が「あの表の『中濱代書事務所』の字は看板屋に書かしなはったんか?」とたずねる。代書屋が「あらァわたしが書きましたんや」と答えると、老人は「あまり名筆でないなあ。……せっかくじゃが、また何ぞおたの申します」と言って帰ってしまう。
その後、上述の老人宅の奉公人の女性が、「先ほど、手前どものご隠居さんが失礼をいたしました。ほんの些少ではございますが、お筆料でございます」と、大金を持って謝罪にやって来る。代書屋は喜び、「これはご丁寧に。どうぞよろしくお伝えを願います」と頭を下げる。女性が「一応、お金のことでございますから、受け取り(=領収)のしるしに、何かにお名前を。紙切れで結構でございますので」と言うので、代書屋は「待っておくれやす。チョチョッと書きますよって」と机に向かうが、女性は「チョチョッとでなく、丁寧にお願いいたしとうございます」と念を押し、老人が字のことにうるさいのは、病気をする前に高名な書家であったためだ、と明かす。それを聞いた代書屋は緊張で自分の名前「中濱賢三」が書けなくなる。女性は「こういう風にお書きあそばしたらどうでっしゃろか」と言い、立派な「中濱賢三」を書き上げる。「ご隠居から手習いをしてもらいましたさかいに」と謙遜する女性に、代書屋は「せやなかったら、こうは書けんで。うまいもんでんなあ」とうなる。
「ほんならここへ、判をお願いいたします」と書き上がった領収書を代書屋に差し出す。そこには、「中濱賢三」の横に小さい字で、
「自署不能に付き代書す」
4代目米團治本人は、代書人でありながら肝心の公文書作成が苦手であったため、代書業者としては専ら能筆を活かして表彰状や履歴書ばかり手がけ、公文書の依頼は別の代書人に回すかわりに、「ちゃんとした字がいるんやったらあそこへ行きなはれ」とそうした依頼者を紹介してもらっていた[12]。
4代目米團治は戦後、京都の富貴に出た際に漫談家の花月亭九里丸から「ほかのネタはやめて『代書』だけやんなはれ。あれは受ける」と言われたのに反発し、10日間の高座をすべて『つる』で通したという[13]。
『代書』創作70周年にあたる2009年に、地元の有志団体「東成芸能懇話会」などの発起で、東成区役所敷地の一隅(4代目米團治のかつての代書事務所の跡)に、4代目米團治の顕彰碑が建立された[14]。同年5月2日の除幕式には米朝らゆかりの人々も出席し、東成区民ホールでは5代目米團治によって『代書』が口演された。