伊吹 文明 いぶき ぶんめい | |
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生年月日 | 1938年1月9日(86歳) |
出生地 | 日本 京都府京都市下京区 |
出身校 | 京都大学経済学部卒業 |
前職 | 国家公務員(大蔵省) |
所属政党 | 自由民主党(無派閥→村上派→二階派) |
称号 |
桐花大綬章 オラニエ=ナッサウ勲章 経済学士(京都大学・1960年) |
配偶者 | 伊吹佑子 |
子女 | 2人(1男1女) |
親族 | 義祖父・高橋龍太郎(第5代通商産業大臣) |
公式サイト | いぶき文明公式ウェブサイト |
第74代 衆議院議長 | |
在任期間 | 2012年12月26日 - 2014年11月21日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
第9代 財務大臣 | |
内閣 | 福田康夫改造内閣 |
在任期間 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
第8代 文部科学大臣 | |
内閣 |
第1次安倍内閣 第1次安倍改造内閣 |
在任期間 | 2006年9月26日 - 2007年9月26日 |
内閣 |
第2次森改造内閣 (中央省庁再編後) |
在任期間 | 2001年1月6日 - 2001年4月26日 |
第66代 国家公安委員会委員長 | |
内閣 |
第2次森改造内閣 (省庁再編前・再編後) |
在任期間 | 2000年12月5日 - 2001年4月26日 |
その他の職歴 | |
第64代 労働大臣 (第2次橋本改造内閣) (1997年9月11日 - 1998年7月30日) | |
衆議院議員 (旧京都1区→) (京都1区→) (比例近畿ブロック→) 京都1区 当選回数 12回 (1983年12月19日 - 2021年10月14日) | |
第45代 自由民主党幹事長 (総裁: 福田康夫) (2007年9月24日 - 2008年8月1日) |
伊吹 文明(いぶき ぶんめい、本名:伊吹 文明(漢字同じ、いぶき ふみあき)[1]、1938年〈昭和13年〉1月9日 - )は、日本の政治家、大蔵官僚。勲等は桐花大綬章。
自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。文部科学大臣(第8代)、財務大臣(第9代)、労働大臣(第64代)、国家公安委員会委員長(第66代)、防災担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第41代)、志帥会会長(第4代)、衆議院議長(第74代)、自民党たばこ議員連盟顧問を歴任した[2]。
その人格から、「イブキング」とも呼ばれている[3]。
京都府京都市下京区に生まれる[4]。生家は文久年間に創業した室町の繊維問屋・伊吹株式会社[4]で、現在も室町で営業している[4]。御室小学校、同志社中学校、京都府立嵯峨野高等学校を経て京都大学経済学部卒業[4]。京大在学中はテニス部に所属した[4]。就職活動では住友銀行から内定を得たが、恩師の青山秀夫が公務員試験の受験や大蔵省への就職を勧めたという[5]。
大蔵省入省。ふりだしは大臣官房秘書課[6]。入省同期に篠沢恭助、千野忠男、朝比奈秀夫らがいる。大臣官房秘書課調査係長心得[7]、大臣官房調査課調査主任[8]、外務省在イギリス大使館二等書記官、主計局総務課長補佐(歳入・企画)[9][10]、主計局主計官補佐(防衛第二係主査)[11]、主計局主計官補佐(防衛第一係主査)[12]、国際金融局国際機構課長補佐(総括・企画・国際機関)[13]、関税局総務課長補佐(総括)などを歴任し[14]、1976年7月5日に新たに関税局総務課に設置された担当の企画官(正式には「大臣官房企画官兼関税局総務課」)となる[15]。その後は理財局国庫課長などを歴任[4]。大蔵大臣秘書官を最後に退官[4]。
1983年に第37回衆議院議員総選挙に田中伊三次の後継者として旧京都1区から自民党より立候補し初当選。以後連続10期当選。初当選後、秘書として仕えた渡辺美智雄が所属していた中曽根派には加わらず、1990年に中曽根派が渡辺派に代替わりするまでは無派閥を通した[要出典]。3選し、伊吹が渡辺派に加入した直後に発足した第2次海部内閣では厚生政務次官就任が内定していたが、リクルート事件に関与していたため首相の海部俊樹によって取り消しになり[16]、同年暮れの第2次海部改造内閣の発足まで10か月ほど就任を留保された[要出典]。
1994年6月30日、首班指名選挙で自民党・社会党・新党さきがけの新連立与党3党は日本社会党委員長の村山富市に投票することで合意したが、元首相の中曽根康弘らと共に造反。新生党など旧連立与党が擁立した、直前に自民党を離党した元首相の海部俊樹に投票した。同年10月、衆議院文教委員長に就任。1995年10月、自民党政治改革本部副本部長に就任。1996年の第41回衆議院議員総選挙では京都1区で当選したものの、日本共産党の穀田恵二に2600票差まで猛追され苦戦した。
1997年9月11日、第2次橋本改造内閣で労働大臣に任命され、初入閣。労働省の官僚だった中野雅至によると、労働省幹部に対する伊吹大臣の質問が鋭く、伊吹大臣と労働省幹部とやり取りを聞いてた中で伊吹大臣の言い分が筋が通っていると思うことが多かったとし、殆どの労働省幹部が伊吹大臣をビビって大臣室に行くのを嫌がっていたという[17]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では公明党の支援も受けて再選した(穀田も比例復活)。12月には第2次森改造内閣で国家公安委員会委員長兼危機管理担当大臣に任命された。また、2000年4月に開校したきょうと青年政治大学校初代校長に就任[要出典]。2001年1月、中央省庁再編に伴い国家公安委員会委員長や危機管理担当大臣に加え防災担当大臣も兼務した。
2005年12月、会長の亀井静香が離党したことで空席となっていた志帥会の会長に就任。2006年3月、衆議院行政改革に関する特別委員長に就任した。
同年9月26日、安倍内閣で文部科学大臣に就任。安倍改造内閣でも留任。
11月17日、学校におけるいじめを原因とした自殺の多発が問題となったことを受け、緊急アピール「文部科学大臣からのお願い」[18]を発し、全国の児童生徒、およびその保護者らに配布した。
12月15日、教育基本法改正案の審議に絡み、民主・社民・共産・国民新の野党4党から参議院に問責決議案を提出されたが、反対多数で否決された。
2007年同年9月24日、福田康夫の下、自民党幹事長に就任[19]。2008年8月2日発足の福田康夫改造内閣では財務大臣に任命された。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では京都1区から立候補するも、民主党の平智之に敗北。重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、9選。
11月12日の伊吹派の会合で民主党政権による行政刷新会議の事業仕分けについて、「公の場で、悪代官をみんなで懲らしめる絵を作ろうとした知恵者は大したものだ」と述べつつも、「民主党の価値観で無駄か無駄でないかを判断するのは乱暴だ」と仕分けのあり方に苦言を呈し[20]、自身の大蔵官僚時代の経験を振り返って「昔の評判の悪い主計官だって、あんな態度はとらなかった」と仕分けチームの高圧的な姿勢に疑問を呈した[21]。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では京都1区で10選。
12月26日、第74代衆議院議長に就任。それに伴い、志帥会会長を退任する(後任は二階俊博)。
2014年11月21日、衆議院解散により議長を退任。衆議院議長が解散詔書を読み上げる際、御名御璽以下を読まないのが慣例となっていたが、伊吹は慣例に反して読み上げ始めた[22]。このとき伊吹が「御名…」と言いかけたところで議場から万歳が起こったため、静まったところで改めて詔書を最後まで読み上げた後、万歳を先にやった議員に「万歳はここでやってください!」とフライングでの万歳を渋面(しぶづら)で窘(たしな)めた[23][24]。
同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では京都1区で11選。
2015年6月16日、後任の衆議院議長である町村信孝が死去した際には当選同期である伊吹が町村への追悼演説を行った[25]。
2017年8月の第3次安倍第3次改造内閣で文部科学大臣就任を打診されるも衆議院議長を務めたことと、自身が翌年に80歳を迎えてかなりの高齢となることを理由に固辞したと産経新聞に報じられた[26]。
2017年10月22日の第48回衆議院議員総選挙では12選を果たし、同時に現職の衆議院議員の中で当時79歳での当選で、最高齢議員となった[27]。
2021年6月28日、記者会見で高齢を理由に同年内に予定される第49回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界から引退することを表明した[28][29]。
伊吹の秘書が代表を務める自由民主党京都府明風支部が、京都ホテルから2003年から2006年の3年間に渡り寄附金を受け取っていたことが発覚した。京都ホテルは10年超に渡って累積赤字を抱えており、京都ホテルの寄附は政治資金規正法第22条の4に違反すると指摘された[44]。
京都ホテル総務部部長は「年会費として支出しており、寄付という認識がなかった。今後は管理部門が精査する社内体制を築き、認識の違いが起こらないようにしたい」[45]と謝罪している。伊吹の事務所は「欠損があるとは全く知らなかった」[45]と釈明している。
2007年2月20日、『読売新聞』の調査で、2005年の衆議院議員総選挙における伊吹の選挙運動費用収支報告書に、実際の収支と異なる記述をしていた事実が発覚した。
選挙運動費用に200万円超の残金が出たため資金管理団体に戻した際、パーティー券収入として記載していた。伊吹は「恥ずかしい話だが、担当者の勘違いがあった」[46]と語っており、故意ではなくミスであると発言している。なお、選挙運動費用収支報告書への故意の虚偽記載は公職選挙法違反に該当する。
2007年3月7日、参議院予算委員会での参議院議員井上哲士(日本共産党)の質問により、伊吹が社団法人から違法献金を受け取っている疑惑が生じた[47][48][49]。
文部科学大臣だった2007年5月、大規模な政治資金パーティを自粛すると定めた大臣規範に反し、パーティを開催して約4350万円の収入を得ていたことが政治資金収支報告書で分かった[50]。
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 |
比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
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当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 58,059 | 16.8 | 1/7 | - | - | |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 51,514 | 14.2 | 2/8 | - | - | |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 56,450 | 13.6 | 4/8 | - | - | |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 48,893 | 12.8 | 3/10 | - | - | |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 63,094 | 31.3 | 1/5 | - | - | |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年6月25日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 86,490 | 42.1 | 1/3 | - | - | |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月9日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 83,644 | 42.3 | 1/3 | - | - | |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年9月11日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 112,848 | 47.7 | 1/3 | - | - | |
当(比) | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年8月30日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 81,913 | 33.3 | 2/4 | 比例近畿 | - | |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 69,287 | 33.2 | 1/6 | - | - | |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 73,684 | 40.6 | 1/6 | - | - | |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 京都府第1区 | 自由民主党 | 88,106 | 47.3 | 1/3 | - | - | |
当選回数12回(衆議院議員12) |
議会 | ||
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先代 横路孝弘 |
衆議院議長 第74代:2012年 - 2014年 |
次代 町村信孝 |
先代 嶋崎譲 |
衆議院文教委員長 1994年 - 1995年 |
次代 柳沢伯夫 |
公職 | ||
先代 額賀福志郎 |
財務大臣 第9代:2008年 |
次代 中川昭一 |
先代 小坂憲次 |
文部科学大臣 第8代:2006年 - 2007年 |
次代 渡海紀三朗 |
先代 創設 |
防災担当大臣 初代:2001年 |
次代 村井仁 |
先代 西田司 |
国家公安委員会委員長 第66:2000年 - 2001年 |
次代 村井仁 |
先代 岡野裕 |
労働大臣 第63代:1997年 - 1998年 |
次代 甘利明 |
党職 | ||
先代 麻生太郎 |
自由民主党幹事長 第41代:2007年 - 2008年 |
次代 麻生太郎 |
先代 亀井静香 |
志帥会会長 第4代:2005年 - 2012年 |
次代 二階俊博 |
名誉職 | ||
先代 亀井静香 |
最年長衆議院議員 2017年 - 2021年 |
次代 二階俊博 |