佐藤 忠男 | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
ペンネーム | 佐藤 忠男(さとう ただお) |
誕生 |
1930年10月6日 日本・新潟県新潟市 |
死没 | 2022年3月17日(91歳没) |
職業 |
評論家 編集者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 新潟市立工業高等学校卒業 |
ジャンル | 評論 |
主題 |
映画評論 教育評論 |
代表作 |
『映画史研究』(1973年 - ) 『日本映画史』(1995年) |
主な受賞歴 |
キネマ旬報賞(1956年) 山路ふみ子文化賞(1986年) 川喜多賞(1989年) 毎日出版文化賞(1995年) 芸術選奨文部大臣賞(1996年) 紫綬褒章(1996年) 勲四等旭日小綬章(2002年) フランス芸術文化勲章シュヴァリエ(2003年) 国際交流基金賞(2010年) 神奈川文化賞(2010年) 毎日映画コンクール特別賞(2016年) CILECT(国際映画テレビ学校連盟)ベスト・ティーチング・アワード(2016年) 文化功労者(2019年) キネマ旬報特別賞(2022年) 旭日中綬章(2022年) |
デビュー作 | 『日本の映画』(1956年) |
配偶者 | 佐藤久子(妻) |
影響を与えたもの
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佐藤 忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - 2022年3月17日[1])は、日本の評論家、編集者。日本映画大学名誉学長、文化功労者。位階勲等は従四位旭日中綬章。本名:飯利 忠男[2](いいり ただお)。
日本映画学校校長、日本映画大学映画学部教授、日本映画大学学長などを歴任した。
新潟県新潟市出身。小学校高等科を卒業後[3]、中学校の入学試験に落ち、1年後に海軍の少年飛行兵となる(予科練出身)[4]。敗戦後は故郷に戻り、鉄工所で働く[5]。
1949年、新潟の鉄道教習所を卒業。国鉄に入り神奈川県大船に住むが[6]、3ヶ月後に国鉄から解雇される[7]。東京で職を探すが見つからず[8]、電気工事店に1ヶ月勤務した後[9]、新潟に戻る。電電公社の工場に勤務しながら2年間、定時制高校に通う[10]。1952年、新潟市立工業高等学校(現・新潟市立高志高等学校)卒業。
工場で働きながら『映画評論』の読書投稿欄に映画評を盛んに投稿。また、1954年に『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、鶴見俊輔の絶賛をうける。1956年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京する[11]。
『映画評論』『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を行う。佐藤重臣とともに「W佐藤」と呼ばれる。1959年、加太こうじ、森秀人、鶴見俊輔、虫明亜呂無、邑井操[12]、柳田邦夫、タカクラ・テル、福田定良らと大衆芸術研究会を創設。
さらに、1973年から、妻の佐藤久子と共同で個人雑誌『映画史研究』を編集・発行[注釈 1]。日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学学長(2011年~2017年)。
1989年、第7回川喜多賞を妻の佐藤久子とともに受賞[13]。1996年、第46回芸術選奨文部大臣賞を受賞、同年春の褒章で紫綬褒章を受章。2002年、春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章[14][15]。その他に、王冠文化勲章(韓国)、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、芸術文化勲章シュヴァリエ(フランス)等を受章。2019年、文化功労者[16]。
アジア映画を中心として世界中の知られざる優れた現代映画を発掘・紹介し、映画界全体の発展に寄与した。
作家・編集者の岸川真は弟子筋にあたる。
2022年3月17日、胆のうがんのため死去[17]。91歳没。死没日付で従四位に叙され、旭日中綬章を受章[18]。