依田紀基 九段 | |
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名前 | 依田紀基 |
生年月日 | 1966年2月11日(58歳) |
プロ入り年 | 1980年 |
出身地 | 北海道岩見沢市 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 安藤武夫 |
段位 | 九段 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 36 |
七大タイトル | |
棋聖 | 挑戦者 (1998, 2009) |
名人 | 4期 (2000-03) |
本因坊 | 挑戦者 (2007) |
碁聖 | 6期 (1996-98・2003-05) |
十段 | 2期 (1995-96) |
世界タイトル | |
三星火災杯 | 優勝 (1996) |
TVアジア選手権 | 優勝 (1993,1998,1999) |
依田 紀基(よだ のりもと、1966年2月11日 - )は、日本棋院に所属する囲碁棋士。九段。北海道美唄市生まれ、岩見沢市育ち。安藤武夫七段門下。名人4期、碁聖6期、十段2期、NHK杯優勝5回、第1回三星火災杯世界オープン戦優勝など、タイトル獲得数36で囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング歴代8位。捨て石の名手とされ、また、その人柄から「最後の無頼派」「囲碁界最後の無頼派」などとも呼ばれる。左利きだが、石を打つのは右手。原幸子との間に3人の子供がおり、次男の依田大空も囲碁棋士。門下に藤村洋輔四段。
北海道美唄市に生まれ、幼い頃は美唄ののどかな自然の中で虫や魚を捕ったりして遊びまわる少年であったという[1]。小学4年生の時父親の転勤に伴い隣町の岩見沢市に引っ越し、その年の夏に父の勧誘を受けて囲碁を始めた[2][3]。9歳で囲碁を始めるのはプロになるにはかなり遅いほうであったが、その後は囲碁にのめり込んで近所の碁会所に通いつめ、囲碁を始めて半年でアマ四段ほどの棋力を持つ父と同程度の棋力にまで上達[4][5]。1年経つ頃にはアマ五・六段といった高段者とも互角に対局できるようになった[6]。
一方で学業には全く興味を示さなかった依田は、自然とプロ入りの道を意識するようになる。1976年11月、日本棋院の院生となるため、小学5年生で単身東京に渡る[7]。上京後半年ほどの間は叔父の家に住んでいたが、その後院生の世話役を務める人物の協力も得て、安藤武夫の内弟子になる[8]。依田は安藤の2人目の弟子であり、神田英が兄弟子に当たる[9]。
1979年夏、中学2年生の時に初めて入段試験を受験。ここでは外来で受験していた石倉昇に敗れるなどして、入段はならなかった(入段者は石倉と日高敏之)。後に、この石倉への敗戦が自身初の挫折だったと語っている[10]。同年冬の入段試験では入段枠が5名と例年よりも大きく増え、12勝4敗の4位で合格を果たした[11]。
1980年4月、14歳で入段。同年はデビュー戦から11連勝し、年間では14勝4敗の成績を残した[12][13]。1981年は41勝7敗で棋道賞敢闘賞を受賞[14]。同年の新人賞は石倉昇(35勝5敗)に譲ったが、翌1982年に依田も新人賞を受賞した[14]。
1983年、第8期新人王戦で決勝戦まで進出し、宮沢吾朗との決勝三番勝負を2勝0敗で制し優勝、自身初のタイトルを獲得する[15]。17歳5か月での新人王戦優勝は当時の最年少記録[16]。
1984年、第10期名人戦でリーグ入りを果たす[17]。18歳でのリーグ入りは当時の最年少記録であったが、この頃は安藤のもとから独立して遊びを覚え歌舞伎町に入り浸れる日々を送っており、リーグ戦も1勝7敗で敗退した[18][19]。19歳の時に同郷の上村邦夫から依田の現状について諭されるまで、こうした日々は続いたという(後述)。
1986年、第1回NEC俊英囲碁トーナメント戦優勝、第11期新人王戦優勝、第17回新鋭トーナメント戦優勝など、若手棋戦で結果を残す。1987年にも第12期新人王戦・第18回新鋭トーナメント戦で優勝。
1988年、第4回日中スーパー囲碁に先鋒で出場し6人抜き。7戦目で「鉄のゴールキーパー」と呼ばれた聶衛平に敗れたものの、日本の初勝利に大きく貢献した。
1989年、第14期新人王戦で優勝。同年の成績は16連勝を含む51勝15敗(勝率 .773 )で、棋道賞最多勝利賞・勝率第1位賞・連勝記録賞・最多対局賞を受賞。4部門の独占は史上初。翌1990年も、第15期新人王戦で優勝し連覇を果たす。
1991年、第38期NHK杯で優勝。また、『囲碁クラブ』誌の企画で李昌鎬と五番勝負を行い3勝1敗で勝利。この時に初めて韓国に足を運んだが、そこでバカラに興じたのがきっかけで後に本人が「バカラ地獄」と形容するような博打中毒となる[20][21]。この状態は数年にわたって続き、消費者金融に借金をするようにまでなったが、中村天風の著書をきっかけとし、そうした状態から脱却できたという(後述)[20][21][22]。
1993年、第40期NHK杯優勝、第5回テレビ囲碁アジア選手権戦でも優勝を果たす。第12回NECカップ囲碁トーナメント戦優勝。また、同年に九段昇段を果たす。
1995年、第33期十段戦で本戦を制し、自身初の挑戦手合進出を決める。挑戦手合でも大竹英雄に3勝0敗で勝利し十段位を奪取、初の七大タイトルを獲得した。
1996年、第34期十段戦では王立誠を3勝1敗で退け、十段位初防衛。また、第21期碁聖戦では小林覚に挑戦し3勝0敗で碁聖位を獲得、二冠となる。また、国際棋戦においても第3回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で準優勝、第1回三星火災杯世界オープン戦で優勝(国際棋戦初優勝)など結果を残した。
1997年、第35期十段戦では加藤正夫に2勝3敗で敗れ失冠するが、第22期碁聖戦では結城聡に3勝1敗で勝利し防衛。第3回JT杯星座戦優勝、第4回アコム杯全日本早碁オープン戦優勝。
1998年、第23期碁聖戦で苑田勇一に3勝0敗で勝利し防衛、3連覇。第22期棋聖戦では趙治勲への挑戦権を得たものの、2勝4敗で敗れ棋聖位奪取はならず。第45期NHK杯優勝。この年に囲碁棋士の原幸子と結婚[23]。
1999年、第24期碁聖戦で小林光一の挑戦を受け2勝3敗で敗れ失冠、無冠となる。第24期名人戦で趙治勲に挑戦するものの1勝4敗で敗退。第46期NHK杯で優勝、第11回テレビアジア囲碁選手権戦でも優勝を果たす。
2000年、第25期名人戦で四連覇中の趙治勲に挑戦し、4勝0敗で勝利。趙との3度目の七番勝負での対戦で初めて勝利するとともに、自身初の名人位に就く。第47期NHK杯優勝(3連覇)、第12回テレビ囲碁アジア選手権戦優勝(2連覇)。
2002年、第27期名人戦で趙治勲と対戦し4勝2敗で勝利、名人位三連覇。第24期鶴聖戦優勝、第21回NECカップ囲碁トーナメント戦優勝。
2003年、第28期碁聖戦で小林光一に挑戦し3勝2敗で勝利、自身四度目の碁聖位に就くとともに、名人・碁聖の二冠となる。第28期名人戦でも、山下敬吾の挑戦を4勝1敗で退け勝利、名人位四連覇。
2004年、第59期本因坊戦で挑戦者となるが、張栩に2勝4敗で敗退。第29期碁聖戦では山田規三生を3勝1敗で退け防衛。張栩の挑戦を受けた第29期名人戦では2勝4敗で敗退、名人戦の連覇が4で途絶えた。第17回世界囲碁選手権富士通杯では準優勝。
2005年、第30期碁聖戦では結城聡の挑戦を3勝0敗で退け碁聖位防衛。
2006年、第31期碁聖戦で挑戦者張栩に0勝3敗で敗れ、碁聖位を失い2000年以来の無冠となる。第7回農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦では最終第3ステージにおいて日本チームの主将として出場し、韓国副将の趙漢乗八段、中国主将の孔傑七段、韓国主将の李昌鎬九段の3人抜きし、日本チーム初優勝をもたらした。
2007年、本因坊リーグを勝ち抜き、高尾紳路本因坊に挑戦するも1勝4敗で敗退。
2008年10月、第1回ワールドマインドスポーツゲームズ囲碁男子団体戦に山下敬吾、羽根直樹、河野臨、高尾紳路と日本代表チームを組み出場、銅メダルを獲得。
2009年、第33期棋聖戦で山下敬吾に挑戦するが、2勝4敗で敗退。
2011年、通算1000勝を達成。
2017年6月、日本棋院所属棋士として12人目となる通算1100勝を達成(572敗2持碁2無勝負)[24]。
2018年、第8回マスターズカップ決勝で片岡聡九段を破り初優勝。
2019年2月、一時脳梗塞を患うが間もなく復帰[25]。6月の第9回マスターズカップでは準決勝まで進出したものの、自身がTwitterで行った日本棋院執行部への批判を理由として不戦敗となる[26]。その後は各棋戦に出場していたが、2020年2月12日、日本棋院は依田に半年間の対局停止処分を通告[27]。3月11日、東京地方裁判所の和解勧告に伴い一時的に対局停止処分が停止、4月2日には2か月ぶりに対局に出場した[28][29](詳細後述)。
2022年10月14日、東京地裁は依田の請求を棄却。これにより、10月15日から2023年3月16日までの対局停止が決定した。依田はこの判決を不服として控訴する方針[30]。2023年3月16日に停止処分は解け、復帰戦となった第48期棋聖戦Bリーグの対羽根直樹九段戦では勝利を収めた[31]。
2024年には農心杯スピンオフイベント農心白山水杯に日本代表大将として出場。曺薫鉉、聶衛平に連勝したが最終戦で韓国大将劉昌赫九段に敗れて優勝を逃した
名人戦挑戦手合七番勝負で、依田3連勝の後の4局目。右辺白が連絡して白が優勢だが、白2(94手目)から中央白を捨てて打つ大胆な捨て石によって勝利を確定した。
本人によれば、碁の歴史を変えるほどの大発見である筋の根本原理である理論[52]。
「筋場」は石が2つ以上並んだ瞬間に存在し、下の図でいえば黒石周辺の赤丸の位置が「筋場」となる(ただし一線と二線は例外)。この位置は黒から打てばアキ三角の愚形となり、白から打てば相手の強い石に貼り付いた働きのない手となる。自分は筋場に打たぬよう、相手を筋場に打たせるようにする手が「筋の良い手」ということになる。
この理論に従えば、愚形の代表である「アキ三角」と「裂かれ形」は表と裏であると説明できる。下図右は、黒の一子に対して白が1にカタツキ、黒が2とオシた場面。実戦にも頻出する形で、部分的に互角である。ここでaは黒から打てばアキ三角に、逆に白から打てば裂かれ形となる地点であるため、お互いに石を持っていかないのが筋の良い打ち方である。
下図黒と白の石が対峙している時、黒から1と打って白2にノビさせる手は、基本的に悪手となる。黒は1の石が相手の筋場に行っているのに対し、白石は筋場に行っていないから、と説明される。
下の図で、aの点は黒▲の石から見て「ダブル筋場」に当たっているので、どちらからも打ちたくない箇所となる。このため、白1のキリに対して黒aとツグのは極めて筋が悪く、黒bにアテて、白にaと筋場に打たせるのが良い手となる。
依田は「ケイマのツケコシ切るべからず」という格言には本来その前に「切った時に筋場に石が行く場合は」という但し書きがあるとしている。下図の場合、黒1のツケコシに対して白2と遮る手は、黒▲の石から見ての筋場に打つことになり、悪手である。
続いて符号順に進行し、白は△を分断されてハマリ形。白2では格言に従い、8の点にオサエておくのが好手。
一方、下図は似た形であるが白2と遮る手が黒の筋場にあたらない。以下黒a、白b、黒c、白dでツケコシた黒石を取れる。
当時七大タイトルを保持していながらも、2003年度の第50回NHK杯は出場を辞退している。これは、当時依田がNHK杯で遅刻したことを日本棋院職員を介してNHKのディレクターに咎められ、それに対し絶対に遅刻しないという確証は持てないとして依田から辞退を申告したものである。本件については、依田の著書にて、自身の「下らない意地」からディレクターに言葉の責任を取らせようとしたものであり、また、ディレクターの言葉が正確に依田に伝達された保証もなかったとして、出場辞退を「かつて私が晒した生き恥」と自戒している[53]。
2019年6月、第9回マスターズカップにて準決勝まで進出したものの、自身が6月14日から26日にかけてTwitterで行った日本棋院執行部への批判を理由として不戦敗となる[26]。これに際して、依田は自身の行為が不適切であったことを認め謝罪し、自身のTwitterやブログも閉鎖した。マスターズカップは第9回で終了となったが、日本棋院はその一因が依田の一連の行為にあるとしている[27][54]。一方、依田は10月31日に記者会見を行い、棋戦終了の責任が一棋士に課せられるというのは飛躍している事、日本棋院が発表した不戦敗に至った経緯が事実とは異なる事などを主張した[25][26]。
依田はその後は各棋戦に出場していたが、2020年2月12日、日本棋院は前述の依田のTwitterでの発言及びメーリングリストでの投稿が「秩序を乱し、名誉を損ね、ひいては当院の支援者がスポンサーを務める棋戦を終了させる重大な結果を招来した」ことなどを理由とし、棋士規定に違反するものとして、8月11日までの半年間依田に対局停止の処分を下すことを発表した[27]。この処置に対し、依田の代理人弁護士は「到底承服しかねます。精査の上、法的措置も含めた対応を検討してまいります」とのコメントを出した[55]。翌13日には天元戦本戦1回戦の対局(依田対孫喆戦)が予定されていたが、依田は対局場への入室を認められなかった[56]。
3月11日、東京地方裁判所から提示された処分の効力を一時的に停止するという和解勧告に対し、日本棋院は「十分な攻撃防御を尽くすことは困難」としてこれを受諾[28]。これにより一審判決が下るまでの間依田の対局が再開され、4月2日には2か月ぶりの公式手合に出場し勝利した[29][57]。
2022年10月14日、東京地裁は日本棋院の主張を認め、依田の請求を棄却。停止されていた対局停止処分も再開され、10月15日から2023年3月16日までの対局停止が決定した。依田は判決が事実とは異なる日本棋院の主張を基にされているとして、控訴する意向を示している[30]。その後、2023年3月16日に予定通り対局停止処分は終了し、20日には復帰戦を打ち勝利した[31]。
総獲得タイトル数:36
総獲得タイトル数:4
総獲得タイトル数:32(うち七大タイトル12)
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他多数