偕楽園公園 Kairakuen Garden[1] | |
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偕楽園の梅林 | |
分類 | 都市公園(広域公園) |
所在地 |
日本 茨城県水戸市見川 |
座標 | 北緯36度22分23秒 東経140度27分22秒 / 北緯36.37306度 東経140.45611度座標: 北緯36度22分23秒 東経140度27分22秒 / 北緯36.37306度 東経140.45611度 |
面積 | (拡張部を合わせると300ha) |
開園 | 1842年(天保13年)7月1日 |
設計者 | 徳川斉昭(好文亭の配置・建築意匠など)[2] |
運営者 | 茨城県 |
年来園者数 | 21万9574人[4] |
現況 |
年中開放 但し、偕楽園本園及び歴史館の区域は2/20~9/30の間午前6時から午後7時まで、10/1~2/19の間午前7時から午後6時まで。また、有料公園施設の好文亭は2/20~9/30の間午前9時から午後5時まで、10/1~2/19の間午前9時から午後4時30分まで。 |
公式サイト | 公式ウェブサイト |
偕楽園(かいらくえん、英: Kairakuen Park[5])は、茨城県水戸市にある日本庭園である。国の史跡及び名勝に指定されている(指定名称は「常磐公園」[6])。伝統的に、後楽園(岡山県岡山市)や兼六園(石川県金沢市)と並んで日本三名園の一つに数えられている。
現在は隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた広域公園の一部となっている[3]。文化庁認定日本遺産“近世日本の教育遺産 ―学ぶ心・礼節の本源―”のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つでもある[7][8]。
偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本の梅が植えられており、早春には観梅客でにぎわう[9]。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭[注釈 1] があるが、古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。藩校「弘道館」は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。造園は長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出した長尾家の本草学者である長尾景徳が実施した。同じく彼の設立した藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。「偕楽」とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている[10]。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた[11]。
伝統を受け継ぎ、日本三名園のうちで唯一、偕楽園のみが入園無料であったが(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)、2019年2月12日、管理する茨城県が、県外からの観光客を対象に2019年秋にも有料化する方針を発表。2019年2月16日から始まる「水戸の梅まつり」で、園内の一部有料施設で身分証の確認など、県民と県外在住者を区別する実証実験を行うとした[12]。同年6月の茨城県議会に関連条例改正案が提出され、6月24日に可決・成立[13]。同年11月1日から、茨城県民であることを示す身分証明書がない入園者は有料化された[14]。
上記のように、偕楽園では毎年2月中・下旬から3月下旬に、水戸の梅まつりが開催される。水戸の梅まつりは、2016年時点で120回開催された。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする夜梅祭や茶会など、種々様々な催し物が行われる。また園内で4月には水戸の桜まつり、5月には水戸のつつじまつり、9月には水戸の萩まつりが行われる。偕楽園公園を含め8月には水戸黄門まつりが行われる。関連の観光大使として、水戸市により水戸の梅大使が毎年選出されている。
また、毎年6月第2土・日曜日に、梅の実を偕楽園公園センターで頒布する[15][16][17]。ただし、平成28年は不作だったため、6月11日土曜日のみの頒布となる予定[18]。また、令和2年に関しては収穫した実の一般向け販売は中止し、梅干しなどの製造業者に提供となる[19]。
なお、頒布価格は平成26年は梅1袋(1.5キログラム)あたり300円で1人2袋まで、平成27年は梅1袋(1.5キログラム)あたり300円で1人3袋まで、平成28年は梅1袋(1キログラム)あたり200円で1人1袋まで。
偕楽園の本園は約13haであったが、茨城県は1999年(平成11年)、隣接する千波公園や桜川緑地などと合わせて広域公園として運営する構想を発表、面積の合計は300haとなった[2]。茨城県営の都市公園「水戸県立自然公園」として管理・運営されている[20]。
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偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから黒門とも呼ばれている[24]。表門から園内に入り、一の木戸と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている[24][25]。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する[25]。
好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑『偕楽園記の碑』があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある[25]。
一方、現代においては、表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、この門から入園する観光客は少ない。現在は梅林へと直接通じる東門が主要な出入り口として利用されている[24]。
好文亭 | |
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情報 | |
用途 | 多目的施設 |
設計者 | 徳川斉昭 |
延床面積 | 381.05 m² |
階数 | 3 |
高さ | 8.01m |
エレベーター数 | 1 |
着工 | 1841年3月11日 |
竣工 | 1842年7月1日 |
開館開所 | 1842年7月 |
所在地 |
〒〒310-0033 茨城県水戸市常磐町1丁目3-3 |
座標 | 北緯36度22分27秒 東経140度27分9秒 / 北緯36.37417度 東経140.45250度 |
好文亭は、徳川斉昭自身により1840年(天保11年)4月に設計された水戸偕楽園内の施設。設計は二度の改定を受け、当初は平屋建ての構造だったものから木造二層三階建てに拡張されている。完成後、偕楽園内での居所、休憩所・敬老会・宴会など各種催しに利用された。偕楽園開園後も少しずつ手が加えられ、水戸城下柵町の中御殿の建物を移築増築して規模を拡大した他、1869年(明治2年)には奥御殿の一部を増築している。1873年(明治6年)12月に太政官布告により、庭園及び建物は常磐公園とされたが、その際には管理上の都合で一部縮小された。その後、大正元年に東宮行啓の際に、当初はなかった玄関が設置された。
藩主の居所としてではなく庶民とともに利用することを目的とした広い濡縁の間、飲食の類を三階まで運搬するために木製滑車を利用した昇降機の設置(人でなく物の運搬用としては日本現存最古[27])、物見引き手と称する建具連動式障子、色紙・短冊・懐紙を用いた板戸、漢詩作詞用に辞書としての韻字を書いた板戸など工夫をこらした建物である。玄関がないことなどを含め徳川斉昭の進取の気質が見てとれる。
1945年(昭和20年)の水戸空襲で大部分が焼失[28]。1955年(昭和30年)から創建時の状態を出来るだけ復元する方向で再建工事が開始され1958年(昭和33年)に完成した[29]。襖絵の大部分は須田珙中と教え子の田中青坪によって復元されたものである[28]。1969年には落雷によって奥御殿が全焼したものの、襖絵は運び出され焼失を免れた[28]。2016年から3年をかけ、襖絵全96面の大規模修復工事が行われている[28]。
1992年、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ローランドハイツ市のシャバラム地域公園 (Peter F. Schabarum Regional Park) と姉妹公園になった[21]。シャバラム地域公園には250本の梅の木と115本の桜の木が植えられており[51]、桜祭りなどのイベントも行われている[52]。
2018年12月から2019年1月中旬にかけて、銅製の橋の銘板10枚や「偕楽橋」の擬宝珠3点が盗まれ、2019年1月26日から27日の間には、案内表示板をはじめ園内の計13カ所の設備が壊されていたことが分かった。被害が確認されたのは好文亭などがある「本園」の南側に広がる「拡張部」である。被害があったのは、駐車場や千波湖などの位置を示すアルミ製の案内表示板4点、「丸山橋」と「花追橋」に取り付けられた照明を内蔵した「擬宝珠」と呼ばれる装飾6点、園内の注意事項などを記した木製の掲示板3点などだった。茨城県警察本部水戸警察署が窃盗事件として調べている[53]。