みついし けん 光石 研 | |||||
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生年月日 | 1961年9月26日(63歳) | ||||
出身地 |
日本・ 福岡県八幡市黒崎 (現:北九州市八幡西区黒崎[1]) | ||||
身長 | 173 cm[2] | ||||
血液型 | A型[2] | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル | テレビドラマ・映画 | ||||
活動期間 | 1978年[2] - | ||||
活動内容 |
1978年:『博多っ子純情』で デビュー | ||||
配偶者 | 既婚[3] | ||||
事務所 | 鈍牛倶楽部 | ||||
公式サイト | 鈍牛倶楽部によるプロフィール | ||||
主な作品 | |||||
映画 『博多っ子純情』 『Helpless』 『あぜ道のダンディ』 『カイジ』シリーズ 『アウトレイジ』シリーズ 『お盆の弟』 『恋人たち』 テレビドラマ 『銭ゲバ』 『泣くな、はらちゃん』 『ど根性ガエル』 『おんな城主 直虎』 『バイプレイヤーズ』シリーズ 『ひよっこ』 『陸王』 『未解決の女 警視庁文書捜査官』 『インハンド』 『エール』 | |||||
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備考 | |||||
『日経エンタテインメント!』調べ、 2007年邦画助演出演ランキング1位(12本)[4] |
光石 研(みついし けん、1961年9月26日[5][6] - )は日本の俳優。福岡県北九州市八幡西区[5]黒崎[1]出身、鈍牛倶楽部所属。
高校在学中の1978年、16歳の時に友人に誘われて『博多っ子純情』のエキストラのオーディションを受けたところ、オーディション前日の喧嘩で眉を二針縫い絆創膏を貼っていたことから質問責めになり、喧嘩のまねや酔っ払いのまねをさせられるなどした結果、いきなり主役に抜擢されてデビュー[7][8]。これがきっかけで俳優になる事を決意し高校卒業と同時に上京する[9]。
上京から少し経った頃、デビュー作で世話になったプロデューサーに会う機会があり俳優になるため上京したことを伝えた。するとその人から、ちょうど撮影中だった映画『男はつらいよ』シリーズのある作品のエキストラとして運良く起用してもらえることになった。さらにその映像を見た業界人から連絡が入り、現在の所属事務所である鈍牛倶楽部を紹介してもらえた[10]。
俳優になってからしばらくは安定した収入がなく、2時間ドラマの出演で食いつなぐ日々であった[11]。メジャー作品に出演するのは事務所の先輩である緒形拳のバーター出演が多かったため、若手時代は「緒形拳さんに食わせてもらったようなもの」と話す[12]。
転機となったのは30代半ばで、1996年に緒形が出演したピーター・グリーナウェイ監督の映画『ピーター・グリーナウェイの枕草子』に光石も出演する[13]。それ以降は岩井俊二監督や青山真治監督といった新鋭の映画監督の作品に出演するようになる[12]。1998年にテレンス・マリック監督の映画『シン・レッド・ライン』(第49回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品)のオーディションに合格しハリウッドデビューを果たす[14]。
2011年、『あぜ道のダンディ』でデビュー以来33年ぶりに映画主演を務める[15]。
2019年、『デザイナー 渋井直人の休日』で俳優生活40年にして初の連続ドラマ単独主演を務める[16]。
癖のある役からおっとりとした役まで、多様なキャラクターを演じられる名バイプレイヤーの1人とされる[4]。2021年8月時点で140本以上の映画に出演[10]。
2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響により苦境にあった、地元北九州市小倉北区の映画館『小倉昭和館』に寄付、同館は寄付を活用し、ウイルス対策を兼ね、2人1組で座れるテーブル付きソファーの座席を設置し『光石研シート』と命名、お披露目式では光石が「ぜひこのシートに座って映画を楽しんで」とビデオメッセージを寄せた[17]。
八幡西区黒崎の生まれ[5][10] で、光石が子供の頃近くに筑豊炭田があったことから黒崎は炭鉱夫が遊びに来る繁華街だった[注釈 1]。当時はサラリーマンから背中に彫り物をした強面のおじさんまで色々な業種の人が行き交っていたとのことで、光石は「子供ながらに見ていた黒崎の様々な人々の様子が現在の自分の演技に繋がっているのかも」と後に語っている。少年時代は、ザ・ドリフターズのギャグなどをよくモノマネしてはクラスメイトを笑わせていた[10]。
高校2年生の1学期の終わり頃、連載中の漫画『博多っ子純情』の映画のエキストラ募集のチラシを友人が持ってきた。そこには「日当1万円で、撮影は夏休み中の3、4日間」と書かれており、当時の高校生にとって4万円はそこそこ大金だったことからお金欲しさに応募[10]。選考前日オーディション参加を茶化した別のクラスメイトと殴り合いのケンカをし、まぶたの上を縫う怪我をしてしまう。当日絆創膏を貼ってオーディションに臨んだ所、審査員の一人から怪我の理由を尋ねられた。正直に同級生とケンカしたことを話すと、「じゃあ、その時の様子を演じてみてよ」と言われた。思い切って演じると動きが滑稽だったのか審査員たちに笑われたが、これがきっかけで主役に抜擢されることとなった[10]。
撮影の間、光石は映画作りをするスタッフたちが大変そうだけど誰もが楽しそうに活き活きとしているのを目の当たりにした。撮影現場の熱気を感じながら役者という仕事を体験したことから、クランクアップの頃には「自分も将来はこの世界で働くんだ」と心に決めたとのこと[10]。
30歳を過ぎたあたりから仕事が激減してスケジュール帳が空白の方が多くなり、「どんな仕事でもやります」とあちこちに頭を下げて回るなど数年間不安な日々が続いた。本人は後に「僕が若者から中年に差し掛かる頃で役者としてどういう方向に進むのか決めあぐねていた。その迷いが知らぬ間に演技に出てしまいオファーが減ってしまったのかも」と回想している[10]。
この頃ちょうど国内ではバブル崩壊による不景気で映画業界も作品に制作費をかけられなくなった。しかし同時に青山真治や岩井俊二などの若手監督が斬新な映画を撮るようになった時期でもあり、幸いにも彼らの映画に出演できた光石は役者として新たな一歩を踏み出すきっかけとなった[10]。
その中でも特に印象に残っている役として本人は、青山監督の『Helpless』の刑務所帰りのアウトロー役を挙げている。最初はどういう風に演じればいいか悩んだが、子供の頃に黒崎で見た強面のお兄さんたちを意識して精一杯演じた。するとこの演技が映像制作の人たちの目に留まり、それをきっかけに少しずつ仕事が増えていったとのこと[10]。
『シン・レッド・ライン』のオーディションへの参加は、本人曰く「特にハリウッド映画進出を考えたわけではなく、アメリカ映画の撮影現場を間近で見てみたい」との思いから。実際の撮影では、光石はロケ地のオーストラリアに3週間ほど滞在した。海外の撮影現場のあらゆる物量の多さ[注釈 2]やきっちりとした撮影時の労働条件のシステム[注釈 3]など色々と驚かされたが、「日本もアメリカもスタッフが映画にかける情熱は同じで、どちらの現場も面白い」と語った[10]。
特記以外はNHK総合
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