種類 | 株式会社 |
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略称 |
全日本 全日 AJPW AJP |
本社所在地 |
日本 〒113-0034 東京都文京区湯島3丁目14番9号 湯島ビル8階[1] |
設立 | 2014年7月1日[1] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 5020001106442 |
事業内容 |
プロレス興行 関連企画の運営 |
代表者 | 代表取締役社長 福田剛紀[1] |
関係する人物 | ジャイアント馬場(創業者) |
外部リンク | http://www.all-japan.co.jp/ |
特記事項: 1972年9月9日、全日本プロ・レスリング株式会社を設立。 2012年11月1日、全日本プロレスリングシステムズ株式会社に業務継承。 2014年7月1日、オールジャパン・プロレスリング株式会社に業務継承。 |
全日本プロレス(ぜんにほんプロレス、正式団体名称:全日本プロレスリング、英: ALL JAPAN PRO-WRESTLING、略称: AJPW)は、日本のプロレス団体。運営会社はオールジャパン・プロレスリング株式会社。1972年設立。現存する日本のプロレス団体としては、新日本プロレスに次いで2番目に歴史が古い[2]。
1971年12月、アントニオ猪木が日本プロレスの経営改善を下にクーデターを画策したとして、日本プロレスを除名され、追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が、日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は日本テレビとNETテレビの2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求し、ついに日本プロレスの幹部は日本テレビとの取り決めを破り、馬場のNETテレビの中継への出場を解禁した。このため、日本テレビは同中継のスポンサーであった三菱電機と協議したうえで「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定[注釈 1][3][4][5]した。その一方で当時の日本テレビ社長であった小林與三次が中心となり、後にテレビ中継の責任者となったプロデューサーの原章(後の福岡放送会長)とともに極秘裏に馬場に接触し、報復手段に近い形で日本テレビと関係が近かった馬場に独立を促した[注釈 2]。日本テレビから「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件が提示され[7]、それを受けて、馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。
1972年7月29日、馬場は日本プロレスを退団し、プロレス新団体を設立することを表明する。馬場は日本テレビなどのバックアップを受ける形でプロデューサーの原とともに渡米してサーキットを行い、その上でドリー・ファンク・シニア、フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触して協力を要請し、豪華外国人選手の招聘に成功する。日本人陣営も馬場と関係の近い大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダ、佐藤昭夫と一時現役を離れていた藤井誠之、レフェリーのジョー樋口を確保した。そして日本プロレスの若手選手であった百田光雄、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の田中敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功する。旗揚げ直前に百田家から力道山の所縁のチャンピオンベルトを贈与され、旗揚げ後しばらくはこのチャンピオンベルトを「世界ヘビー級王座」と称し、争奪戦が目玉カードになった。「世界ヘビー級王座」は後に「PWF(世界)ヘビー級王座」となった(後に三冠統一ヘビー級王座の一つを構成)。
前述の通り、10月21日に旗揚げ前夜祭、同月22日に旗揚げ興行を行うが、その2週間前の同月7日から日本テレビは『全日本プロレス中継』を土曜20時台のプライムタイムに全国29局ネットの形で放送を開始。旗揚げ戦前の馬場の海外サーキットの試合などが中継された。この時点でNETのみの放送となった『日本プロレス中継』は僅か全国6局ネットにまで減少しており、日本テレビのバックアップの強さを印象付けている。
日本テレビや百田家の後ろ盾、外国人選手の招聘ルート開拓に成功した全日本プロレスに対し、日本プロレスは過去に東京プロレス、国際プロレス、新日本プロレスに行ったような外国人選手の招聘妨害や[注釈 3]、会場使用を出来なくするような妨害工作を行う事が出来ず[注釈 4]、興行の目玉である馬場を失った日本プロレスは一気に弱体化する事になる。
さらに、手薄な日本人陣営をカバーするため国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得、旗揚げシリーズには若手選手であったデビル紫、鶴見五郎ら前座選手が毎シリーズ入れ替わりで参戦する[注釈 5]など、国際プロレスとの協調路線をしばらく維持する(1978年頃まで[注釈 6])。馬場ら全日本勢も協力の見返りとして、しばしば国際プロレスの興行に参戦した。
馬場はさらに将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング日本代表であった鶴田友美(リングネーム:ジャンボ鶴田)の獲得に成功する。鶴田は、渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。さらにザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり日本に定着して参戦し、馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献した。このほか、元国際所属で海外を拠点としていたヒロ・マツダ、マティ鈴木も日本人陣営の助っ人として加わっていた。特に鈴木は短期間ではあるがマシオ駒とともに、鶴田や渕正信などの若手選手のコーチ役として育成にも携わっている。
1973年2月、NWAの臨時総会が開かれ、全日本プロレス(ジャイアント馬場)のNWA加盟が認められる。本来総会は同年8月に開催される予定であったが、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけにより2月に臨時総会が開かれ、すでに日本プロレスが加盟しており、「一つの地区に一人のプロモーター以外のNWA加盟は認めない」という規約を覆して、全日本のNWA加盟が認められた。これにより全日本の外国人選手の招聘ルートが更に強固になる。
1973年4月、経営状態と興行成績の悪化により日本プロレスが崩壊すると、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9名[注釈 7]の日本プロレス残党は「力道山家預かり」となることを発表する。その過程で、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初から大木らの受け入れにはかなり難色を示していたとされているが、仲介役となっていた日本テレビ社長の小林、三菱電機会長の大久保謙、日本プロレス協会の理事であった衆議院議員の楢橋渡(元運輸大臣)、福田篤泰(元吉田茂首相秘書官、元防衛庁長官など)の政財界の重鎮に加え、全日本の取締役を兼ねていた田中敬子ら百田家の意向、そして馬場もまだ日本プロレスの取締役を退任していなかったことなどもあり、大木ら日プロ残党を受け入れることとなった。
だが、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日本プロレスからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた。当時の全日本の興行ポスターに日プロ合流組のうち掲載されていたのが、日プロ崩壊時にインター王者であった大木とUNヘビー級王者であった高千穂明久のみであり、馬場にとっては日プロ合流組の中でも必要な選手は高千穂とミツ・ヒライだけだったとされている。マッチメイクに関しても馬場と日本テレビ(中継の担当者であるプロデューサーの原章)との間で馬場側が全権限を持つ事が確認されており、日プロ残党の面々は、仲介者から今回の合流は「日プロと全日本との対等合併による移籍であり両者は対等の立場である」とされていたものの、実態は「全日本による救済合併」であった[注釈 8][10]。
このため、日プロ合流組のうち、シングル王者であった大木と高千穂、後述のグレート小鹿以外は試合を干される事も多く、当時の全日本のギャランティは出場に対する対価として支払われるシステムであったため、合流組は金銭的な影響も受けたとされる。合流組選手のうちグレート小鹿のように機転を利かせて、馬場の運転手役を買って出る事で糊口をしのいだ者もいる。中でも上田馬之助は過去の日プロでの猪木クーデター事件(上田馬之助_(プロレスラー)#密告事件を参照)での馬場との経緯、松岡巌鉄は若手選手へのいじめや讒言、マスコミへの対応の悪さに加え、海外参戦時にプロモーターに対する不満から衝突して暴行を加えるトラブルもあった事など様々な悪評が立っていたため、馬場は特にこの二人を評価しておらず「リストラ候補」として試合を干されるか、試合に出られても若手選手や格下外国人との対戦となる前座カードへの出場といった冷遇を受けていた[10][11]。
このような扱いに対して上田と松岡が反発し、10月9日に退団[注釈 9]、次いで大木も鶴田らの参戦で団体内での序列が下がる形でマッチメイクが徐々に冷遇されるようになったことで「マッチメイクがインター王者としてのプライドを傷つけた」として、1974年1月のシリーズを無断欠場して韓国に戻り、全日本から一時撤退した[注釈 10]。なお、大木・上田・松岡以外の各選手は日本テレビとの3年契約が満了した後に、全日本に正式に入団している[10]。
ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代の人脈、ドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級王者時代に築いた信用を生かし、多くの本格派外国人選手を招聘するなど力道山の時代の「日本人選手対外国人選手」の系譜を受け継いだ。新日本プロレスのストロングスタイルに対し、本道といえるアメリカン・プロレスの源流に重きを置いた。この時期に鶴田を輩出してミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場している。日本人陣営に加わったザ・デストロイヤーもベビーの扱いであり、並行して日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にもレギュラー出演し、軽妙なやりとりでお茶の間の人気者となり、全日本の初期の興行に多大な貢献を果たしている。また、鶴田に次ぐ話題性のある人材の発掘として、1964年東京オリンピック・柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンク(オランダ)を日本テレビが主導する形で、1973年にプロレスに転向させ、全日本(日本テレビ契約)の目玉選手にしようと目論んだが、本人はプロレスの水が合わなかったこともあり、デビューから5年でプロレスを引退し柔道指導者に戻った[15]。
1977年、「世界オープンタッグ選手権」に端を発するザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組の流血の抗争劇も人気を呼んだ。この「世界オープンタッグ選手権」は、1978年以降は「世界最強タッグ決定リーグ戦」と名前を改め、日本プロレス当時の「NWAタッグ・リーグ戦」の不評を払拭する評価を得たことで、現在も春の大場所である「チャンピオン・カーニバル」と並ぶ、年末の看板シリーズとして継続している。
次代の日本人陣営選手も鶴田をはじめ、師であった大木の元を離れて鶴田のライバル的な存在となったタイガー戸口(後のキム・ドク)、1976年に角界から転向した天龍源一郎など徐々に育ちつつあったが、旗揚げから馬場の右腕的存在として支え、若手選手の育成を務めていたマシオ駒が1976年3月に35歳の若さで死去した事は少なからず痛手となった。一方で外国人選手がマッチメイクや待遇などで極端に優遇されており、一部の日本人選手の間で不満が生じていた点は否めず、1976年3月末に前出のサンダー杉山が団体内の扱いの不満から退団しているほか、1977年には駒に代わって馬場の右腕的存在になっていたサムソン・クツワダが、馬場や猪木を排除しジャンボ鶴田や藤波辰巳を中心とする新団体旗揚げを画策している事が発覚し、馬場の怒りを買って全日本プロレスを解雇されていたことが、後年になって明らかになっている[16][17]。
日本プロレスから先に分立した新日本プロレスも、トップの猪木がモハメド・アリ戦などの異種格闘技戦の実現や、旗揚げ後に発掘した外国人選手のタイガー・ジェット・シンとの抗争、国際を離脱したストロング小林や全日本を離脱した大木金太郎の様に大物選手との直接対決といった「過激な仕掛け」を中心に世間の耳目を集めたことで、全日本に比肩する対抗団体に成長している一方で、全日本の旗揚げ当初は協調していた国際プロレスが経営難から興行能力が徐々に低下していたこともあり、事実上この時期の日本マット界は「全日本プロレス対新日本プロレス」による興行戦争に突入していくこととなった。
1981年、新日本との選手引き抜き合戦が勃発した。新日本の「IWGP構想」に呼応する名目でブッチャーやタイガー戸口が引き抜かれるが、全日本も報復として7月に新日本の看板外国人選手であったタイガー・ジェット・シン(シンとタッグを組む上田馬之助も全日本に転戦する)、さらに12月にスタン・ハンセンを引き抜いた。特にザ・ファンクスが中心となって引き抜いたハンセンの全日本移籍は、新日本に大きなダメージを与え、新日本側との引き抜き合戦が一時休戦となる決定打となった(経緯はスタン・ハンセン#全日本プロレスへの引き抜きを参照)。さらに同時期に経営難により崩壊した国際プロレスの選手のうち、新日本への参戦を拒否したマイティ井上が米村天心、菅原伸義(後のアポロ菅原)、冬木弘道の3選手を引き連れて全日本に合流、さらに阿修羅・原もフリーとして全日本に参戦する(その後、全日本に入団)など、獲得に動いた馬場の政治力を発揮する一面もあった。また、馬場や鶴田に次ぐ日本人選手として海外修行から戻った天龍が戸口離脱後の三番手に浮上し、ジュニア戦線でも大仁田厚、三沢光晴らが台頭していった。
その一方で『全日本プロレス中継』の放送時間帯が土曜夕方のローカル枠に移行した事で、視聴率の低迷に連動して団体の経営状態が一時悪化したため、中継権を持っていた日本テレビから幹部がテコ入れとして送り込まれた。1981年12月21日、馬場は会長職に就き、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長に就任した。これ以降は大八木賢一(後に全日本専務、ノア専務)など多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍している[18]。表向きは馬場のレスラー専念の意向とみられたが、実際は全日本のトップ選手であった馬場を事実上引退させ、プロモーターとして専念させる意図があったとされる。日本テレビ主導により、馬場に代わるエースとして鶴田を中心に世代交代を図ることがミッションとなり、その現場責任者としてプロパーメンバーかつ馬場の信任も篤い佐藤昭雄がブッカーとなった。松根と日本テレビは佐藤に対し「強い日本人レスラーの看板を作って地方興行が入るようにやってほしい。もう外国人同士がトップでやる試合を撮りたくない」という意向を示していた。それを受けて佐藤は日本テレビと馬場との間に入り緩衝材の役目を果たす一方、看板選手は馬場一強体制から鶴田・天龍の二頭体制にマッチメイクを漸次的に移行するとともに、佐藤は駒以来の若手育成方針を一新(若手選手の大技使用の解禁など)して、三沢のほか越中詩郎(後に新日本へ移籍)、冬木弘道、ターザン後藤、川田利明ら未来を担う若手選手の育成を進めている。また中堅選手であった高千穂明久が海外遠征を経てザ・グレート・カブキとして1983年に凱旋帰国し、海外遠征時のスタイルを直輸入する形で人気を集めることとなった。
馬場会長・松根社長の体制は1989年4月に松根が社長を退任するまで続き、その後は馬場が社長に復帰したが、馬場自身は年齢面を理由にタイトル戦線から退く形となり、団体内は「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本テレビの目論見通りに鶴田や天龍を中心とした日本人選手同士の対戦が主軸となった[19]。
1983年、対抗団体である新日本で勃発した猪木に対するクーデター騒動の余波で、新日本を退社し興行会社の「新日本プロレス興行」(以下、新日プロ興行)を設立した大塚直樹(元新日本営業部長)に馬場は接触、1984年6月、全日本と新日プロ興行が業務提携、新日プロ興行が全日本の興行を手掛ける事となった。手始めに同年8月26日の田園コロシアム大会をプロモートし、海外遠征中であった三沢を極秘帰国させ、原作者の梶原一騎の了解のもとでタイガーマスク(2代目)へ変身させて全日本マットに登場させる[注釈 11]などの仕掛けもあり、興行的に成功を収めた。新日プロ興行はこれを機に関係が悪化していた新日本プロレスと絶縁し、新日本からの選手引き抜きに着手した[20]。
この動きに長州力、アニマル浜口、小林邦昭、谷津嘉章、寺西勇の「維新軍団」5名が応じて新日本を離脱し新日プロ興行の役員として参画、さらに新団体の「ジャパンプロレス」に改組したうえで全日本と業務提携を締結し、ジャパンプロレス勢は同年より全日本に参戦する事となった。ジャパンプロレスには永源遙ら[注釈 12]追従する選手も加わり、さらに海外を主戦場としていたマサ斎藤、キラー・カーンもジャパンプロレスの一員として全日本に参戦することとなった[注釈 13]。一方で元国際のエースで新日本・(第1次)UWFなどに参戦していたラッシャー木村も参戦し、旧国際プロレス勢を中心とした「国際血盟軍」を結成[注釈 14]。また外国人選手でも、新日本の常連参戦選手であったダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスの「ブリティッシュ・ブルドッグス」を引き抜く[注釈 15]など、新日本にさらなるダメージを浴びせた。軍団抗争を軸に多彩な日本人陣営や外国人選手など豪華な選手層を誇った。新日本は長州らジャパンプロレス勢やブリティッシュ・ブルドッグスの引き抜きの報復として、全日本の常連参戦選手であったブルーザー・ブロディや越中詩郎、ケンドー・ナガサキ(桜田一男)を引き抜き返した[22]ものの、新日本の興行的なダメージを払拭するまでには至らなかった。同時期には経営危機が表面化し活動停止に追い込まれた(第1次)UWFの業務提携の動きもあったが、既に全日本の日本人陣営はジャパンプロレス勢や国際血盟軍なども含めて飽和状態にあり、所属全選手の受け入れを求めたUWFと前田日明、高田延彦のみのオファーを示した全日本側の意向が一致せず、UWFは新日本との業務提携に舵を切ったとされる[23]。
また、同時期には元大相撲・第54代横綱の輪島大士や、新日本や海外団体との争奪戦となった元幕下の琴天山(ジョン・テンタ、1989年からWWFに移籍)、さらに元十両・卓越山の高木功、元十両・玉麒麟の田上明[注釈 16]と角界出身者を相次いで獲得した。この事から日本相撲協会との軋轢が生じて、1986年11月に日本相撲協会は両国国技館の全日本への貸出禁止を通達したため、馬場没後となる2004年7月まで全日本では両国国技館での興行は行われず、東京での大場所興行として年間を通じて日本武道館興行が定着する契機となっている[24]。
軍団抗争を軸に戦線が活性化した事で、土曜夕方ローカル枠であった『全日本プロレス中継』の視聴率も持ち直し、1985年10月に同番組は土曜19時台に中継枠が移行し、ゴールデンタイムへの復帰を果たした(その後、1988年3月をもってゴールデンタイムからは撤退し、日曜深夜22時30分から23時30分の1時間枠へ移動する)。
この時期、新日本との興行戦争は続いていたが、選手の引き抜きを巡ってはギャラの高騰など経営的に双方に負の効果も招いたほか、新日本ではブロディが団体との対立から参戦をキャンセルする事件も起きたことで、エスカレートする引き抜き合戦の手打ちが新日本・全日本双方により水面下で図られ、双方の弁護士立ち合いの上で1985年末には「引き抜き防止協定」が結ばれる事となった[25]。
その後、1987年にジャパンプロレスが団体の方向性を巡って分裂し、ジャパン残党組から谷津、永源、栗栖正伸、仲野信市の4名とカルガリー・ハリケーンズの高野俊二が全日本に入団した。一方で長州らが新日本に戻ったのをきっかけに、全日本が以前のファイトスタイル(外国人の対決中心)に戻ってしまう事に危機感を抱いた天龍は阿修羅・原と『龍原砲』を組み「地方の試合でも手を抜かない」激しいファイトスタイルを見せた。天龍の決起はいわゆる『天龍革命』と呼ばれ、鶴田、ハンセン、新日から復帰したブロディらと激しいタイトル争いを演じているほか、冬木や川田利明といった賛同者が加わり『天龍同盟』に発展した。一方で天龍からの批判の対象になった鶴田もジャパンから移籍した谷津をパートナーに『五輪コンビ』を組んで『龍原砲』との抗争に発展、さらにはタイガーマスクら若手選手が『決起軍』を結成する[注釈 17]など全日本内の意識改革に大きな貢献を果たすとともに、「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられている。
1986年3月31日、長年加盟していたNWAを脱退する。1984年より馬場は、NWAの第一副会長を務めていたが、WWFによる全米侵攻により各地区のプロモーターに多大な影響が発生したことに加え、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化したことによってNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制が形骸化したことや、NWAから「鶴田、天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」という指示が出たことでNWAとの関係を見直す契機となり、NWAからの脱退を決めたことで、以降団体内での闘いにシフトしていった[注釈 18]。
1987年、ハル薗田が新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し夫妻とも不慮の死を遂げた。薗田は31歳というこれから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、マシオ駒亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても痛手となった。また嘱望されていた輪島もデビューから僅か2年程の活動で1988年12月にプロレスを引退し、阿修羅・原も1988年11月に自身の私生活上の問題(主に多額の借金)などにより、全日本を解雇された。さらに常連外国人選手であったブロディも1988年7月に不慮の死を遂げるなど、この時期にも選手の入れ替わりが少なからず起きている。
全日本のヘビー級タイトルとして、力道山に由来するPWFヘビー級王座、日本プロレス以来のインターナショナル・ヘビー級王座と「UNヘビー級王座」の3つのヘビー級王座が分立し看板となっていたが、昭和末期以降から徐々に各ベルトの統一を図る動きが出てきた。
1988年3月9日の横浜文化体育館大会で、UN王者の天龍とPWF王者のハンセンによるダブルタイトル戦が行われたのを皮切りに、まずは天龍がUNとPWFの二冠王者となり、さらに4月15日の大阪府立体育会館大会で、インターナショナル王者のブロディとのトリプルタイトル戦が行われたが、両者リングアウト決着で三冠統一を果たせなかった。これ以降、3つのヘビー級王座の統一戦が試みられるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着が続き、三冠王座の統一がなかなか進まない状況となった。
最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田(インター王者)対ハンセン(PWF・UN王者)戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥った。これがきっかけとなって全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。三冠統一は同年4月18日の大田区体育館大会で鶴田が勝利し、初の三冠王者が誕生した事で、以降は三冠ヘビー級王座として、全日本の看板タイトルとして定着する。統一からしばらくは文字通り王者は三本のベルトを巻いていたが、経年劣化によりベルトの老朽化が進んだため、2013年10月27日より一本のベルトに新調された。過去の3本のベルトは修繕のうえで、馬場家に返還されている[27]。
1990年、メガネスーパーにより設立されたSWSに天龍、カブキ、谷津、鶴見、冬木、高野、仲野、高木、北原辰巳、折原昌夫など、多くの全日本所属選手、スタッフが移籍したことで、一時存続が危惧される事態となった。主に待遇面に不満を持つ形での移籍となったが、馬場の存命中は離脱した選手を再び全日本に参戦させることはなかった。
この危機に対し、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴がマスクを脱ぎ、自らが率いる『超世代軍』が鶴田に挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こす。鶴田が率いる『鶴田軍』、三沢が率いる『超世代軍』、それに外国人選手との戦いが主軸となった。
1992年、鶴田が内臓疾患(B型肝炎)のため一線から退くと、三沢、川田、小橋健太、田上明の『プロレス四天王』(後に秋山準が加わる形で『五強』とも)による戦い(三沢・小橋・秋山らの『超世代軍』と、事実上『鶴田軍』の後継ユニットとなった川田・田上らの『聖鬼軍』の抗争)が中心となり『四天王プロレス』と呼ばれる形へ発展した。ジャパンプロレスのハイスパートレスリング、『天龍革命』によってもたらされた「激しいプロレス」を出発点とする危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳しくは「王道プロレス」を参照)は先鋭化し続け、テレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどであった。
一方で馬場、ラッシャー木村、百田光雄らベテラン選手(他にスポット参戦の鶴田、ブッチャーや現役最末期のアンドレ・ザ・ジャイアントなどが加わる)は事実上第一線を退く形で『ファミリー軍団』を結成し、同じくベテラン選手の大熊元司(1992年12月死去)・永源遙・渕正信・マイティ井上(『ファミリー軍団』から移動)らの『悪役商会』との通称『ファミ悪対決』として、試合後の木村のマイクパフォーマンス同様に休憩前の名物となり、当時の全日本のキャッチフレーズでもある「明るく楽しく激しいプロレス」のうち「明るく楽しい」部分で「会場を温める」役割を担った。
この時期には空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取った。日本武道館大会は発売後即完売となるほどの人気を誇った。1998年には東京ドームに初めて進出して『全日本プロレス創立25周年記念大会』を開催している(馬場存命時では唯一の全日本での東京ドーム大会[注釈 19])。この興行により全日本は「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透したのである。ただし、メディアコンテンツである「全日本プロレス中継」はこの隆盛をもってしても深夜の放送枠から脱せず、さらには1994年に放送枠が60分が30分に短縮される(ビッグマッチなどは45分に拡大される時もあった)など、後述の打ち切りまで地上波でのプロレス中継は昔のような勢いを取り戻す事はできなかった。
1999年1月31日、馬場が肝不全のため、61歳で死去した。馬場は前年暮れの体調不良による入院で腸閉塞の手術を受けていたが、この段階で上行結腸腺がんがかなり進行していたとされ、馬場の闘病に関しては、夫人で実質的なオーナーであった馬場元子の意向により、ごく一部の親族と側近であった和田京平や仲田龍以外は秘匿され、幹部の鶴田や三沢、百田義浩・光雄兄弟やジョー樋口らにも知らされていなかったとされる。同年4月17日に日本武道館でジャイアント馬場お別れの会「ありがとう」が開かれ、ファンも参列してリングへ献花が行われた。その後、同年5月2日に二度目の東京ドーム興行を開催し「ジャイアント馬場『引退』記念試合」と称して、馬場、ザ・デストロイヤー組対ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組の時間無制限一本勝負という形式で、馬場の「引退」セレモニーを行った。
馬場死去直後の同年3月には鶴田も現役を引退して全日本の取締役を退任し、学術研究のため渡米している。この時点で鶴田と元子との間に既に距離が生じていたとされる。鶴田もまた馬場の後を追うように、翌2000年5月17日に渡航先のフィリピン・マニラで肝移植手術中の医療事故により、49歳で死去した。
同年5月7日の記者会見で同月3日付で、三沢の後任社長への就任と新たに発令された役員人事が公表された。取締役副社長に川田利明と百田光雄、専務取締役に大八木賢一、取締役に元子のほか、渕正信、田上明、小橋健太らが就いた。三沢新体制では馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また、三沢、仲田龍らは新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。だが、伝統の保持を第一優先と主張する馬場未亡人で実質的なオーナーであった元子との軋轢が生じ、運営方針を巡って三沢や仲田サイドとの対立が続いた。
2000年5月28日、三沢は臨時取締役会で社長を解任された。三沢は社長解任後の6月13日、取締役の退任と全日本退団を表明した。さらに三沢に追従する形で取締役のうち、元子、馬場の姪でもある馬場幸子、渕を除いた全員が辞任し、三沢に同調した小橋、田上を含めた選手26名、練習生1名、大半のスタッフが全日本を退団して『プロレスリング・ノア』を設立。日本テレビも放送枠の深夜帯移行や時間短縮などで継続してきた旗揚げ以来の『全日本プロレス中継』を終了し、所持していた全日本プロレスの株式も手放すこととなった(この経緯で全日本と日本テレビは2001年の『ジャイアント馬場三回忌興行』まで絶縁状態となる)。放送枠は『コロッセオ』を経て『プロレスリング・ノア中継』に切り替えた。これにより放映権料も失う事で、全日本はSWS設立時を上回る旗揚げ以来の最大の危機に陥った。
全日本プロレスに残留した所属選手は川田利明、渕正信、マウナケア・モスマン、現職の国会議員であった馳浩の4人のみとなる。選手以外では、レフェリーの和田京平、リングアナウンサーの木原文人、広報1人、そして馬場元子の6人となった[注釈 20]。
一気に選手層が薄くなり興行活動の危機であったが、新崎人生や奥村茂雄の参戦を皮切りにインディ団体所属選手やフリー選手を参戦させ、さらにはSWS移籍以降は袂を分かっていた天龍源一郎が全日本に参戦した。また、渕が使者となる形で新日本プロレスとの交流に踏み切り、これに応える形で蝶野正洋やかつて全日本に所属していた越中詩郎などが全日本へ参戦を果たした一方で、川田と渕が新日本の興行に出場するようになった。なお、スタン・ハンセンやスティーブ・ウイリアムスといった馬場時代からの常連外国人選手の多くは全日本へ参戦している。大量離脱直後に参戦した選手のうち、天龍、奥村、荒谷信孝、平井伸和、嵐などがその後に全日本所属選手となっている。
2001年1月28日、東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初参戦。ケアに勝利した後に共闘し『BATT』を結成する。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を獲得し、さらに年末の世界最強タッグ決定リーグ戦も制し、プロレス大賞最優秀選手賞(MVP)を受賞した。武藤は、同年の日本武道館大会の全6大会すべてのメインイベントを務めた。
2002年2月26日、新日本を退団した武藤、小島聡、ケンドー・カシン、WCWを退団したカズ・ハヤシが入団。この事態により、一時新日本との交流戦は凍結状態となった[注釈 21]。武藤は10月に馬場元子に代わり、全日本の社長に就任している。
武藤の社長就任直後は、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再び馬場元子オーナーと実務者の社長という構図の軋轢が生じた。その後、渕とレフェリーの和田らプロパー役員が武藤側に回り、渕、川田、和田の連名で武藤への株式譲渡懇願書を元子に提出した。武藤には無償で株式が譲渡され、元子はオーナーを退き事務所を六本木から移転した。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦して全日本の伝統でもある「日本人選手対外国人選手」を受け継ぎつつ「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴であった。
通常の興行は、橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEとの団体対抗戦後、TAKAみちのくが率いる「RO&D」が参戦。その後、TARUが率いる「VOODOO-MURDERS」や佐々木健介、中嶋勝彦の「健介ファミリー」、鈴木みのる・NOSAWA論外、MAZADA、TAKEMURA、高山善廣にケアを加えた「GURENTAI」の定期参戦、元大阪プロレスの菊タロー、大相撲第64代横綱の曙らの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功する。
特別興行では、2002年6月9日にA BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。また、ファン感謝デーや毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、プロレスラーとお笑い芸人がタッグを組んで争われるF-1タッグ王座など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されていた。さらに、武藤が司会を務めていた番組「武藤敬司☆SHOW」がきっかけで、対談した船木誠勝らが興行に関わったり、同じく対談した夏目ナナのプロデュース興行や[28]、吉沢明歩らが参加したセクシー女優とのコラボ興行を開催した。11月17日、石井和義館長が率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、プロレス版Dynamite!として「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を横浜アリーナで開催。
2003年1月19日、「ファンタジーファイトWRESTLE-1」の第2弾を東京ドームで開催。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。ちなみにこの興行をフジテレビがプライムタイムで放送したが、サブタイトルは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは当時人気だったサップを中心とした番組として放送された。江崎グリコのプロダクトマネージャーで、全日本のコンディショニングコーチを務めていた桑原弘樹とゴールドジムの協力によるプロレスラー流のトレーニング方法や、サプリメントなどの栄養学を参加者に公開する「武藤塾」を毎年開催しており、番外編として年に1度新人オーディションを開催していた。
かつて全日本の主要大会と言えば日本武道館大会だったが、2004年2月22日を最後に撤退した。代わりに代々木第二体育館に加え、年1〜2回行われた両国国技館での興行「プロレスLOVE in 両国」では、プロレス界で初の試みとなる複数の企業から出資金を募り、1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催された。4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は、両国大会のみ放映。
2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜・京都・神奈川でも放送された。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。
2011年5月29日、スーパーヘイト(平井伸和)が試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され「急性硬膜下血腫」の診断を受け緊急手術が行われた。5月31日、VOODOO-MURDERSのリーダーのTARU(多留嘉一)が、試合当日にビジネス上での口論からスーパーヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告した。6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共にTARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸、稔、MAZADA(正田和彦)の無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散が発表された[注釈 22]。なお、TARUとMAZADAは同年11月22日に兵庫県警葺合署により、傷害容疑で逮捕されている[29](その後、神戸簡易裁判所より両名に罰金30万円の略式命令が下った)。この事件に対する影響は大きく、6月7日、武藤が一連の事件の引責により社長を辞任(選手兼取締役としては留任)し、代わって取締役の内田雅之が第7代社長に就任した。6月19日、レフェリーの和田京平が突如、全日本を退団したが、背景として武藤が早急に謝罪会見を開かなかった対応を批判したところ、「会社への裏切り」と見なされ、契約を解除されたと和田は主張している[30][31]。
2012年11月1日、スピードパートナーズ(後に八丁堀投資へ社名変更)の社長を務めていた白石伸生が、全日本の株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立し事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った[32]。就任した白石はFacebookで過激な発言を繰り返し、槍玉として上げられた新日本プロレスなど外部の人間が抗議するなど反感を呼んだ。結果として後述の全日本の分裂の遠因となったほか、新日本との関係が悪化する原因ともなり、各方面に軋轢を生じた。
2013年6月1日、新役員体制が発表され、社長を務めていた内田雅之が退任し白石が新社長に就任した[33]。一方、武藤は取締役会長を辞任するとともに全日本を退団した[34]。その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが、交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手とスタッフを中心に退団を呼びかけ、船木誠勝、河野真幸、KAI、真田聖也、中之上靖文、浜亮太、田中稔、カズ・ハヤシ、近藤修司、大和ヒロシ、アンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明した\[35]。一方で大森隆男、諏訪魔、ジョー・ドーリング、征矢学[注釈 23]、SUSHIが全日本への残留を明言したほか、太陽ケア、レフェリーの和田京平が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにした[36]。
7月5日、新体制を発表して2月から全日本に参戦していた秋山準、潮崎豪、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志が入団(秋山、金丸は13年ぶりに全日本復帰)となり、レフェリーの和田が名誉レフェリーという形で復帰した。白石代表の下、13名(選手10名、スタッフ3名)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日に新団体『WRESTLE-1』を旗揚げした。7月14日には、態度を保留していた渕正信が取締役相談役に就任する形で残留[37]。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われ、9月1日付で曙が入団し、10月には練習生4名が入寮した[38]。8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対し、白石は自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。白石はオーナー辞任のうえでスピードパートナーズ社は「株式会社八丁堀投資」に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズや、エステ・アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移し、全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった[39]。9月11日付で井上博太が代表に昇格し、白石はオーナーとして後方支援を続けた[40]。また、2013年に全日本プロレスリングシステムズ株式会社によって出願された「全日本プロレス」の商標は、白石の株式会社アールワンが継承していた[41]が、2018年12月にオールジャパン・プロレスリング株式会社(次項参照)が譲渡を受けて保有している。
2014年6月4日、秋山が7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で、全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった[42]。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には、2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという[43]。一方、旧法人オーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」「団体経営を理解させるための治療薬」と釈明したうえで[44]、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしていた[45][注釈 24]。7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足し、興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所はケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ・ファンクラブ・ゲームキャラクターなどの企画・運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか[47]、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された[48]。
2015年秋に入り潮崎、曙、鼓太郎、金丸と相次いで全日本を退団した[49][50]、興行数が減少していることもあり、選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされた[49]。12月から全日本プロレス・イノベーションとオールジャパン・プロレスリング両社間の関係が分離され、興行権がオールジャパンに完全移行された[51]。社長の秋山を除いた経営陣は11月末で退任し[52]、今後はオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている[51]。
2016年9月30日、BS11で「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表。毎月第3月曜日の23:00から23:30で10月17日からスタート。
2018年3月19日、インターネット動画配信サイト「全日本プロレスTV」サービス開始。主要カードの動画が見られるほか、大規模な大会では生配信も行う。9月19日、「全日本プロレスイレブン」の放送が終了[53]。
秋山体制の末期となった2019年6月、主にジュニア戦線を担ってきた青木篤志が不慮の交通事故で死去した。青木は同年5月に世界ジュニアヘビー級王者に返り咲いたばかりで在位中の死去となり、防衛戦を控えた矢先の急逝となった。このため、全日本では王座防衛期限である半年間(同年11月20日まで)は青木を王者と認定し、その間は選手権試合を行わない事とした(後に世界ジュニア王座決定トーナメントを開催)[54]。
秋山体制の5年間で、宮原健斗をはじめとする若手が台頭してきたことから秋山が現場に専念するため、2019年7月8日付で社長職を退任。後任にオーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任。当初、秋山に取締役会長を打診されたが、秋山自身の「現場でやりたい」という要望を受け、団体初のゼネラルマネージャーに就任することとなった。また社外取締役に2AW取締役会長の十枝利樹が就任。一方で、2016年より取締役となっていた大森隆男が、選手活動に専念するため取締役を退任した[55][56]。
2020年1月、西武ライオンズや横浜DeNAベイスターズでスポーツビジネスに携わってきた五十嵐聡が副社長に就任[57][58]。1月16日のプロレス大賞授賞式を最後に、秋山は取締役およびゼネラルマネージャーを退任した[59]。その後、秋山は同年5月9日にDDTプロレスリングのゲストコーチへの就任が発表され[60]、さらに7月1日付でDDTへのレンタル移籍となった[61]。後に秋山は12月31日付で全日本との契約満了に伴い退団し、2月よりDDTに入団している[62])。秋山のDDT参戦・移籍の背景として、前年にすべての役職を解任されたことに続き、年末に福田から若手の指導をTAJIRIに任せると告げられたとし、そのタイミングでDDTからオファーを受けたことを明らかにしている[63]。選手会長の諏訪魔はいち早く「脱・秋山」を掲げ[64]、福田社長と直接会談に臨み、今後の方向性を確認した[65]。9月4日より、社長の福田によるコラム『全日本プロレス社長からの便り』(第1回のみ『全日本プロレス社長〜福田剛紀からの便り〜』)を公式サイトで毎月1回連載開始している[66]。
2021年3月1日付で諏訪間幸平(諏訪魔)が専務執行役員に就任[67]。あわせて、副社長の五十嵐聡の辞任が発表された[68]。
2022年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催。2004年2月22日を最後に撤退した日本武道館での興行が18年ぶりに復活した。
2023年後半から2024年初頭にかけて、大森隆男、ヨシ・タツ、石川修司、ブラックめんそーれら主力選手、前述のノア分裂騒動においても残留し長年活動してきたリングアナウンサーの木原文人やレフェリーの李日韓などスタッフの退団が続出する事となった。一部メディアの報道では、女子団体のActwres girl'Zとの業務提携が突如発表されるなど団体の運営方針が、社長の福田の一存により突如決定するなどして団体内の混乱の元となっていることや、福田自身の数々の言行が批判を招くなど、選手間で福田に対する不信感を招いていることが原因と見られている。また、前年10月から全日本にフリー参戦し、三冠ヘビー級王者となった中嶋勝彦の「他社からの引き抜き」や「クーデター」を示唆する不穏な発言などから、騒動の黒幕として元新日本プロレス社長のサイモン・ケリー(WWE日本担当アドバイザー、アントニオ猪木の元女婿)の存在が取り沙汰されるなど、団体内の混迷が見られ、2024年の契約更改においては選手数人が契約締結を保留しているとされているなど、福田体制への不信感が続いている[69][70][71][72]。2024年3月10日には、高崎市のGメッセ群馬大会に出場したフリー参戦の吉江豊が試合後に控室で倒れ、救急搬送先の病院で死亡するアクシデントが起きている[73]。
しかし2024年4月以降は綾部蓮[74]、MUSASHI[75]、リングアナウンサー新土裕二[76]が相次いで入団。NEXTREAMの解散・若手主体のユニットELPIDA結成など、新たな世代闘争の機運が起こっている。
シリーズ名の「ジャイアント・シリーズ」はジャイアント馬場のリングネーム、「シャイニング・シリーズ」は武藤のオリジナル技「シャイニング・ウィザード」、「ホールドアウト・ツアー」は武藤の入場曲「HOLD OUT」になぞらえていた。2021年から大田区総合体育館大会はタイトルマッチが多く組まれる「CHAMPION'S NIGHT」としてシリーズを問わず開催している。
タイトル | 保持者 | 歴代 |
---|---|---|
三冠ヘビー級王座 | デイビーボーイ・スミスJr. | 第74代 |
世界タッグ王座 | 斉藤ジュン 斉藤レイ |
第99代 |
世界ジュニアヘビー級王座 | "ミスター斉藤"土井成樹 | 第69代 |
アジアタッグ王座 | 安齊勇馬 ライジングHAYATO |
第125代 |
GAORA TV チャンピオンシップ | 立花誠吾 | 第27代 |
全日本プロレスTV認定6人タッグ王座 | 大森北斗 羆嵐 サイラス |
第9代 |
タイトル | 覇者 | 年代 |
---|---|---|
Jr. TAG BATTLE OF GLORY | 石田凱士 鈴木鼓太郎 |
2023年 |
チャンピオン・カーニバル | 宮原健斗 | 2024年 |
王道トーナメント | 綾部蓮 | 2024年 |
Jr. BATTLE OF GLORY | 田村男児 | 2023年 |
世界最強タッグ決定リーグ戦 | 中嶋勝彦 大森北斗 |
2023年 |
※2024年に参戦した選手のみ
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