八坂神社 | |
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西楼門(重要文化財) | |
所在地 | 京都府京都市東山区祇園町北側625 |
位置 | 北緯35度0分13秒 東経135度46分43秒 / 北緯35.00361度 東経135.77861度座標: 北緯35度0分13秒 東経135度46分43秒 / 北緯35.00361度 東経135.77861度 |
主祭神 |
素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神 |
社格等 |
二十二社(下八社) 旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 伝・斉明天皇2年(656年) |
本殿の様式 | 祇園造(八坂造) |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第116番(京都第36番) |
例祭 | 6月15日 |
主な神事 |
祇園祭(7月) 白朮祭(1月1日) |
地図 |
八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
京都盆地東部、四条通の東端に鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。
正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
現在の祭神は以下の通り。
明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった[2]。
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていたこともあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された[3][4][リンク切れ]。
また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる[5]。または、ヤマタノヲロチが変化したものとも考えられている。
画像外部リンク | |
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祇園社 - 都名所図会(日文研ホームページ) |
社伝によれば、2つの説があり、貞観18年(876年)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまるという説と、斉明天皇2年(656年)、高句麗(この時代の高句麗の民族はツングース族であるという見方が識者の中では多く見られる)から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる説もあるが、この伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。また度々、八坂神社の説明にて、高句麗を高麗と記載している場合があるが、これは間違いである(一文字違いのためか間違われやすい)。
918年に高句麗王を追放し、建国したのが現在の韓国朝鮮の高麗であり、それ以前は高句麗である。ゆえに、前述の656年の説を記載する場合においては、高句麗が正しく、高麗は間違いである。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。
先述の通り、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」[6]であり、これは今日においても一定の支持を得ている。久保田は同論文において史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が後に神宮寺となる観慶寺を建立し、ほどなく祇園神が東山の麓の祇園林に降り立ち、垂迹したものと結論づけている。なお、中世において吉田神道に採用され、江戸時代には通説化していた播磨国広峯からの遷座説については、平安時代の史料に全くあらわれず鎌倉時代以降に広峯社側から主張しはじめたとの文献検討の結果、これを否定している。
祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。
古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、元慶元年(877年)には当社で行われている。天禄元年(970年)ごろからは当社の祭礼として毎年行われるようになった。
承平4年(934年)に観慶寺の子院として感神院が建立されると、まもなく立場が入れ替わって感神院が祇園社の別当寺となり、ますます神仏習合が進んでいき、名称も祇園社のほかに祇園感神院と呼ばれるようになった。また、当社は長らく法相宗の興福寺の末社であったが、10世紀末、紛争により天台宗の延暦寺の末寺とされた。
延久2年(1070年)には感神院は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された[注釈 1]。この頃から祇園感神院は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる(宝寿院 (祇園社の社家) 参照)。
延久4年(1072年)3月の後三条天皇の行幸以降、度々天皇、上皇による行幸、御幸が行われている。
嘉禄3年(1227年)、延暦寺は法然の墓所(現・知恩院)を祇園社の犬神人に申し付けて破却している(嘉禄の法難)[8][出典無効]。
至徳元年(1384年)に足利義満は、祇園社を比叡山延暦寺から分離させた。だが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている[9]。
元亀2年(1571年)9月に織田信長によって行われた比叡山焼き討ちで延暦寺が焼亡すると、祇園社はより延暦寺の支配から離れるようになった。
天正18年(1590年)には、豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を当社に祈願し、多宝塔を再建して1万石を寄進している。
承応3年(1654年)には徳川家綱により本殿が再建されたが、多宝塔は寛政年間(1789年 - 1801年)に焼失している。
慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止、神仏分離により感神院は廃寺とされ、本殿の西隣にあった観慶寺薬師堂も取り壊された。なお、薬師堂に祀られていた祇園社本地仏の薬師如来立像(重要文化財)と十一面観音立像は大蓮寺に、梵鐘は大雲院に移されている。それに伴い、名称も「祇園感神院」「祇園社」から「八坂神社」へ改められた。近代社格制度のもと、1871年(明治4年)に官幣中社に列格し、1915年(大正4年)に官幣大社に昇格した。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
2020年(令和2年)12月23日付けで本殿が国宝[10][11]に、摂社末社など26棟の建造物が重要文化財に指定された[12][13][リンク切れ][14]。
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
※2020年度、既指定の重要文化財「楼門(西楼門)」「蛭子社社殿」「石鳥居」に未指定の建造物26棟を追加指定して、「八坂神社」1件29棟となった[44][46]。
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本文の典拠。主な執筆者、編者の順。