八木 秀次 | |
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生誕 |
1886年1月28日 日本 大阪府大阪市東区 |
死没 | 1976年1月19日(89歳没) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 電気工学[1] |
研究機関 |
仙台高等工業学校[1] ドレスデン工科大学 ロンドン大学 ハーバード大学 東北帝国大学[1] 大阪帝国大学[1] |
出身校 | 東京帝国大学[1] |
主な指導学生 | 宇田新太郎、永井健三 |
主な業績 | 八木・宇田アンテナ[1] |
影響を 与えた人物 |
渡辺寧、岡部金治郎 菊池正士、湯川秀樹 中島平太郎 松前重義 江崎玲於奈、西澤潤一 |
主な受賞歴 |
勲一等瑞宝章(1945年) 藍綬褒章(1951年) 文化勲章[1](1956年) 贈勲一等旭日大綬章[1](1976年、没時陞勲) 日本の十大発明家(1985年、没後顕彰) 贈IEEEマイルストーン(1995年、没後顕彰) |
プロジェクト:人物伝 |
八木 秀次 やぎ ひでつぐ | |
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生年月日 | 1886年1月28日 |
出生地 | 大阪府大阪市 |
没年月日 | 1976年1月19日(89歳没) |
出身校 | 東京帝国大学工科大学卒業 |
前職 | 八木アンテナ社長 |
所属政党 |
(右派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
勲一等瑞宝章 文化勲章 工学博士 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1956年6月3日 |
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁[1]を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた[1]。八木アンテナ株式会社社長[1]として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章[1]、贈勲一等旭日大綬章[1](没時陞勲)。栄典は従二位。
電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている[1]。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。大阪帝国大学理学部、興亜工業大学の創設にあたっては創設メンバーとして設立に尽力している。 太平洋戦争中は学界代表の立場で内閣技術院総裁[1]を務め、戦後は右派社会党や日本社会党に所属し参議院議員として国政にも参画した。 また八木アンテナの発明を基に日立製作所の協力の下で八木アンテナ株式会社を創業し、企業家としても活動した。
大阪府大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる[2]。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を首席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、八木は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して八木家を継承した。1903年第三高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の成績は33名中5番であった[注釈 1]。
山川義太郎教授の世話で大学卒業後直ちに仙台高等工業学校の講師となった[4][注釈 2]。八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡と本多の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年からドイツのドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年、東京帝国大学工科大学の鯨井恒太郎と一緒にスイスにいたが、第一次大戦勃発でイギリスのロンドン大学のフレミング教授の研究室に移り、信認を博した[5]。この頃には語学交換教師として、『源氏物語』の研究で有名なアーサー・ウェイリーに日本語を教えている[6]。1915年は渡米し、ハーバード大学のピアス教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。
帰国後の研究では、当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電と呼ばれる通信利用の分野の研究に取り組んだ。 研究活動の資金確保に当たっては、財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎の共同研究)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。これらの成果として八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の業績を生み出す。
八木が本多と懇意にしていることから、物理学科、金研で行われていた論文の輪読会にも出席していた。その席上であまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。
八木は、「本質的な発明ができるようになるためには心眼(科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と日頃から学生に教えていた。
米国企業の研究開発体制を参考にして、大学内に工学部附属電気通信研究所の設置を八木は構想[7][8]するが、大学附属の電気通信研究所として実現されるのは大阪帝大が本務となった後の1935年(昭和10年)になる。
初代総長となる長岡半太郎からの二度にわたる要請により、八木自身の転任を前提に準備委員として理学部創立に尽力し、大阪帝国大学が本務となる。理学部物理学科の初代主任教授に就任する。
菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。 講師として在職していた湯川秀樹がなかなか論文の発表が進まないところを叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。
興亜工業大学(戦後、「千葉工業大学」に名称変更)の工学部の開設にあたっては、東京工業大学学長の八木が教授陣の構成に協力し、東京工業大学教授の山田良之助が現職のまま工学部長に就任することについて、文部省の許可を得るのに尽力している[9]。
八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。
敗色濃厚となった1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い[注釈 3]。
大阪帝大総長を公職追放で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、大正末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての同僚や弟子、その関係者たちが電気工学関係の書物を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。
八木は、1945年10月に幣原喜重郎首相が設置した戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命された[11]。
八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動や社会主義に関心があり、日本フェビアン協会の会員でもあった。戦後も政治に関わり、ジョージ・バーナード・ショーなどを読んでいたという[12]。
直接の弟子でなく面識もない江崎玲於奈、西澤潤一を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。
公職 | ||
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先代 井上匡四郎 |
技術院総裁 1944年 - 1945年 |
次代 多田礼吉 |
学職 | ||
先代 (新設) |
武蔵工業大学原子力研究所長 1960年 - 1966年 |
次代 山田良之助 |
先代 荒川大太郎 |
武蔵工業大学長 1955年 - 1960年 |
次代 山田良之助 |
先代 寺沢寛一 |
日本音響学会会長 1943年 - 1951年 |
次代 佐藤孝二 |
先代 真島利行 |
大阪帝国大学理学部長 1939年 - 1942年 |
次代 仁田勇 |
先代 梶井剛 |
電気学会会長 第27代:1940年 - 1941年 |
次代 瀬藤象二 |
先代 中山竜次 電信電話学会会長 |
電気通信学会会長 1937年 - 1938年 |
次代 梶井剛 |
先代 村上武次郎 平山毅 |
東北帝国大学工学部長 1929年 - 1931年 1924年 - 1927年 |
次代 原龍三郎 村上武次郎 |
ビジネス | ||
先代 (新設) |
八木アンテナ社長 1952年 - 1960年 |
次代 榊原吉三 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
日本ドクメンテーション協会会長 1958年 - 1961年 国際十進分類法協会会長 1950年 - 1958年 |
次代 大塚明郎 |
先代 前川万治郎 |
日本経営管理士会会長 第2代:1957年 - 1959年 |
次代 高瀬荘太郎 |
先代 (新設) |
民主社会主義連盟会長 1951年 - 1956年 |
次代 三輪寿壮 |