八甲田山 | |
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北西から望む北八甲田火山群 左に前嶽、中央手前が赤倉岳、奥に井戸岳、右に田茂萢岳 | |
標高 | 大岳: 1,584 m |
所在地 | 青森県青森市・十和田市 |
位置 | 北緯40度39分31秒 東経140度52分38秒 / 北緯40.65861度 東経140.87722度座標: 北緯40度39分31秒 東経140度52分38秒 / 北緯40.65861度 東経140.87722度 (大岳) |
山系 | 奥羽山脈 |
種類 |
複成火山[1][2] (成層火山や溶岩ドームの火山群)[3] |
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プロジェクト 山 |
八甲田山(はっこうださん)は、青森市の南側にそびえる大岳(標高1,585m)を主峰とする18の山々からなる複数火山の総称[4]。日本百名山の一つ[4]。
「八甲田山」と名がついた単独峰が存在するわけではなく複数の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群である。青森県のほぼ中央に位置し、約20km南には十和田湖が位置する。東北地方の脊梁奥羽山脈の北端である。
主峰は大岳(八甲田大岳)の標高1,585m[4]。これは青森県の最高峰「岩木山」標高1,625mに次ぐ高さである。
八甲田山周辺は広く十和田八幡平国立公園に指定されている[5]。また、八甲田山周辺は田代平や寒水沢上流の一部を除く広い範囲が国有林や保安林に指定されているほか、大岳周辺から蔦温泉周辺にかけて国指定の鳥獣保護区特別保護地区に指定されている[5]。八甲田山は2016年12月1日より気象庁指定の常時観測火山となっている[6]。
周辺は世界でも有数の豪雪地帯である。明治35年に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習中に記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し、210名中199名が遭難死した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)が発生、それを基に新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』が書かれ映画化もされている。なお、陸上自衛隊青森駐屯地に駐屯する第5普通科連隊も、(遭難死した青森歩兵5連隊の隊員慰霊も兼ねて)毎年厳冬期に八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行なっている。
命名の由来について「新撰陸奥国志」によれば、八の(たくさんの)甲(たて)状の峰と山上に多くの田代(湿原)があるからという。
中道等は、『十和田村史』で菅江真澄の『とわだのうみ』や『いはてのやま』を引いて、1407年(応永14年)の『三国伝記』の「奴可(ぬか)の岳」から、十和田の古称の「糠檀(こうだ)の岳」が発祥したとする説を紹介し、菅江真澄の博識ぶりに感服している。『三国伝記』では、あるとき、女が難蔵に向かって言うことには「この言両(ことわけ)の嶺の西三里に、奴可(ぬか)の嶺という所に池があり、その池に八頭(やまた)の大蛇(おろち)がいる。私を妻として1月のうち上旬の15日は奴可の池に住んで、下旬の15日はこの池に住んでいるので、今はちょうど来る時期です。心してください」という記述がある。これが、南祖坊と八郎太郎が初めて登場するくだりである(三湖伝説)。この奴可が、八甲田山東部の郡の古名、糠部(ぬかのぶ)郡の由来になり、のちに音読され糠檀(こうだ)の岳に変わったと言うのである。これより先に、元禄のはじめに南部藩に逗留した京都の医師の松井道圓の作とされる『吾妻むかし物語』でも、この説は言及されており、菅江真澄は南部藩周遊中にこの本を読んだ可能性がある。
糠檀の文字を最初に記録しているのは1731年(享保16年)の『津軽一統志』の中の1536年(天文5年)の『津軽郡中名字』で「津軽と糠部の境、糠檀ノ嶽に湖水有、地神五代より始まる也。数ヶ年に至て大同二年斗賀の霊験堂の宗徒、南蔵坊と云法師、八竜を追出し十湾の沼に入る。今天文五年まで及八百余歳也。」である。以来、八甲田の呼び方はコウダとハツコウダ(ヤツコウダ)の2つに大別される。1645年(正保2年)の絵地図では八甲田山を津軽藩は「かうたの嶽」、南部藩は「高田嶽」としており、共に公式名はコウダだったことが分かる[7]。
八甲田山系は八甲田大岳を盟主として南北2群の火山よりなり、その中間に睡蓮沼を含む湿原地帯がある。
山系を構成する山々は国道103号・国道394号の重複道路を境に、北部八甲田山系と南部八甲田山系に分かれて、後者の方が地層が古い。
全国的にはさほど高くはない1600mに満たない山地ではあるが、青森県を東西に二分し、それぞれの気候の特徴に大きな影響を与えている。夏季は太平洋から冷たく湿った北東からの季節風「やませ」が吹き込み、青森県の太平洋側は濃霧・冷害に見舞われる。対して八甲田山の西側は優良な稲作地帯で、弥生時代の水田跡が発見されている。冬季は日本海から湿った北西の季節風が吹き、津軽地方に雪をもたらす。一方、八甲田山の東側は晴天率が高く降雪も少ない。夏冬いずれも、八甲田山によるフェーン現象であると考えられている。
高田大岳は登山道がほぼ一直線に頂上までつながっており、八甲田山系の登山道の中で最も厳しいコースとして有名である。
八甲田山は、その南に位置する十和田湖と同じく、カルデラを有する火山群である。広い湿原のある田代平近辺の窪地がカルデラの北半分に相当し、南半分はカルデラ形成後に噴火した八甲田大岳などの火山群が盛り上がっている。櫛ケ峯(1,517m)のある南八甲田は古い先カルデラ火山に相当する。カルデラを形成した巨大噴火は、調査されているだけで過去2回(65万年前と40万年前)発生した。南八甲田は2回目のカルデラ噴火の前に火山活動を終えている。北八甲田はカルデラ南半分を埋める形で16万年前から活動を始め、繰り返し噴火しながら多数の(余り大きくない)成層火山を形成した。歴史時代の記録では溶岩を流出するような大きな噴火は無いが、山群の所々から火山ガスが噴気している。
気象庁や防災科学技術研究所等の地震観測施設により地震の観測が行われている [9]。
東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)以降、八甲田山周辺を震源とする地震が増加した。また、2013年2月以降、山頂直下を震源とする地震が散発的に発生した[9]。一方、GPS観測により山体が膨張してるように見える[10]として2013年6月18日に気象庁が観測機器を新たに設置し、監視を強化したことが報道された[11]。2013年7月からは、東北大学噴火予知研究観測センターらによる広帯域地震観測が実施されている[12]。また、2013年9月には、東京大学地震研究所と東北大学噴火予知研究観測センターらによる12箇所の観測点による重力臨時観測が実施された[13]。
2016年12月1日より気象庁が24時間体制で火山活動を監視する常時観測火山に追加されることとなった[6]。
1997年には訓練中の自衛隊員3名が、窪地から噴出し、そこに滞留していた高濃度の二酸化炭素により窒息死する事故が発生している[14]。また2010年6月には、酸ヶ湯温泉上方の登山道を外れた沢に於いて、山菜採りに訪れていた女子中学生1名が、現場に滞留していたと考えられる火山ガスによって、中毒死する事故が発生している。
八甲田山には、名前の由来の通りにたくさんの高地湿地があるので有名である[15][16]。八甲田山が他の高山に対して景観上の特異性を持っているのは、この湿原群に負うところが大きい。
八甲田山には湿原が多く、イワイチョウ、モウセンゴケ、ミズバショウが見られる。山にはアオモリトドマツ(オオシラビソ)の林があり、稜線にはハイマツが茂っている。
大正時代、酸ヶ湯温泉を経営していた郡場直世の妻・フミは、近辺の高山植物を採集してその標本を各地の研究機関に寄贈した。彼女の功績によって早くから八甲田山の植生が研究されており、そのため酸ヶ湯温泉の付近に1929年東北帝国大学の研究施設(東北帝国大学八甲田山植物実験所、東北大学植物園八甲田分園)が作られた。また彼女の息子・郡場寛は植物学者でもあり、京都大学名誉教授・弘前大学学長である。
標高1,584mの大岳のほかに、田茂萢岳(たもやちだけ)、赤倉岳、小岳、高田大岳などの山々がほとんど同じ高さで並んでいる。ロープウェイは田茂萢岳に設置されており、冬はスキー、積雪期以外ならハイキング気分で山歩きが楽しめる。秋には全山紅葉し見事な錦秋模様となる上、登山道沿いにはコケモモやガンコウランがたくさん実をつけており、目と舌の両方を楽しませてくれる。また、冬季には東北地方でも有数の豪雪と強い季節風によりアオモリトドマツに見事な樹氷を楽しむことができる。加えて、山麓に散在する温泉群は、多様の泉質で味わい深い。
日本有数の山岳スキー場としても有名で、6km前後の各コースを約半年にわたり楽しむことが出来る。しかし、毎年のように死者が発生する。正規コースには目印となるポールが立てられているが、吹雪や雲中ではひとつ下のポールさえ見えないことがある。遭難はこうした悪天候の影響よりも、意図的にコースを逸脱したケースが多い。
麓には千人風呂が有名な酸ヶ湯がある。その他にも城ヶ倉温泉、谷地温泉、猿倉温泉、蔦温泉、八甲田温泉、田代平温泉、など山のいで湯があちこちに湧出している。
猿倉温泉から南八甲田を貫き御鼻部山にいたる27kmの山道。登山家には軍用道路として作られたと伝わっている話もあるが、昭和9年から昭和11年までに青森県議会議員の小笠原八十美が青森県に冷害による貧民救済としてとして造らせた自動車道である[21]。南八甲田登山のメインルートとして多くの登山者に利用されている。
猿倉温泉から黄瀬萢の間は健脚向きの歩道状態が確保されているが、長年の植物遷移と洗掘が進んで歩行困難な箇所もある黄瀬萢から御鼻部山に向かうルートは、多くがやぶに覆われ、山慣れた人でないと容易に歩けない状態になっている。
多額の費用を掛けて造られた自動車道だったが、中道等の『十和田村史[22]』では「この道には車が一台も通らなかった」とある。矢櫃橋から松次郎清水の間には現在でも大きな石が沢山放置されており、昭和初期の記録でもこのために自動車の通行は困難であろうとする記述がある。