化学における分子の対称性(ぶんしのたいしょうせい、英: molecular symmetry)は、分子に存在する対称性およびその対称性に応じた分子の分類を述べる。分子対称性は化学における基本概念であり、双極子モーメントや許容分光遷移(ラポルテの規則といった選択則に基づく)といった分子の化学的性質の多くを予測あるいは説明することができる。多くの大学レベルの物理化学や量子化学、無機化学の教科書は、対称性のために一章を割いている[1][2][3][4][5]。
分子の対称性の研究には様々な枠組みが存在するが、群論が主要な枠組みである。この枠組みは、ヒュッケル法、配位子場理論、ウッドワード・ホフマン則といった応用に伴って分子軌道の対称性の研究にも有用である。大規模な系では、固体材料の結晶学的対称性を説明するために結晶系が枠組みとして使用されている。
分子対称性を実質的に評価するためには、X線結晶構造解析や様々な分光学的手法(例えば金属カルボニルの赤外分光法)など多くの技術が存在する。
分子の対称性の研究は、数学で使われる群論の適応である。
回転軸 (Cn) | 回映要素 (Sn) | ||
---|---|---|---|
キラル Snなし |
アキラル 鏡面 S1 = σ |
アキラル 反転中心 S2 = i | |
C1 | ![]() |
![]() |
![]() |
C2 | ![]() |
![]() |
![]() |
分子の対称性は5種類の対称要素によって表すことができる。
5つの対称要素は5種類の対称操作と関連している。これらはしばしば(常にではないが)各要素とキャレットによって区別される。ゆえに、Ĉnは軸を中心とした分子の回転であり、Êは恒等操作である。対称要素は、2つ以上の関連した対称操作を持つことができる。例えば四角形分子である四フッ化キセノン(XeF4)は、逆向きの2つのĈ4回転(90°)および1つのĈ2回転(180°)と関連している。C1(1回回転対称)はE(恒等)と、S1(1回回映)はσ(鏡映)と、S2(2回回映)はi(反転中心)と等価であるため、全ての対称操作は回転操作あるいは回映操作として分類することができる。
点群は数学的な「群」を形成する一連の対称操作である。点群では少なくとも一つの「点」が群の全ての操作の下で固定されている。結晶点群は三次元における並進対称と互換性がある点群である。合わせて32の結晶点群があり、そのうち30は化学に関連している。これらの分類はシェーンフリース記号に基づいている。
以下の場合、一連の対称操作は操作の適用である作用素を持つ群を形成する。
群の位数は、群の対称操作の数である。
例えば、水分子の点群はC2vであり、対称操作のE、C2、σv、σv'からなる。ゆえに位数は4である。それぞれの操作は自身の逆元である。閉包性の例としては、C2回転とそれに続くσv鏡映はσv'のように見える:σv*C2 = σv'(操作Aとそれに続くBによってCが作られることをBA = Cと書く)。
アンモニア分子はピラミッド型であり、3回回転軸および互いに120°の角度にある3つの鏡面を含んでいる。それぞれの鏡面はN-H結合を含んでおり、この結合と反対側のH-N-H結合角度を二等分する。ゆえに、アンモニア分子は位数6のC3v点群に属する: 単位元E、2つの回転操作C3およびC32、3つの鏡映操作σv、σv'、σv"。
以下の表は代表的な分子の点群のリストを含んでいる。構造の説明は原子価殻電子対反発則(VSEPR則)に基づいた分子の一般的な形状である。
点群 | 対称操作 | 典型的な構造 | 例1 | 例2 | 例3 |
C1 | E | 非対称、キラル | ![]() ブロモクロロフルオロメタン |
![]() リゼルグ酸 |
|
Cs | E σh | 鏡面、その他の対称性はない | ![]() 塩化チオニル |
![]() 次亜塩素酸 |
![]() クロロヨードメタン |
Ci | E i | 反転中心 | anti-1,2-dichloro-1,2-dibromoethane | ||
C∞v | E 2C∞ σv | 直線状 | ![]() フッ化水素 |
![]() 一酸化二炭素 |
|
D∞h | E 2C∞ ∞σi i 2S∞ ∞C2 | 反転中心を持つ直線状 | ![]() 酸素 |
![]() 二酸化炭素 | |
C2 | E C2 | 「開いた本の形状」、キラル | ![]() 過酸化水素 |
||
C3 | E C3 | プロペラ、キラル | ![]() トリフェニルホスフィン |
||
C2h | E C2 i σh | 反転中心を持つ平面状 | ![]() trans-1,2-ジクロロエチレン |
||
C3h | E C3 C32 σh S3 S35 | プロペラ | ![]() ホウ酸 |
||
C2v | E C2 σv(xz) σv'(yz) | 屈曲型 (H2O) あるいはシーソー型 (SF4) | ![]() 水 |
![]() 四フッ化硫黄 |
![]() フッ化スルフリル |
C3v | E 2C3 3σv | 三角錐 | ![]() アンモニア |
![]() 塩化ホスホリル |
|
C4v | E 2C4 C2 2σv 2σd | 四角錐 | ![]() 四フッ化酸化キセノン |
||
C5v | E 2C5 2C52 5σv | 「スツール」型錯体 | ![]() Ni(C5H5)(NO) |
![]() コランニュレン | |
D2 | E C2(x) C2(y) C2(z) | ねじれ、キラル | シクロヘキサンのねじれ舟形配座 | ビフェニル | |
D3 | E C3(z) 3C2 | 三重らせん、キラル | ![]() トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)カチオン |
アセチルアセトンマンガン (III) |
|
D2h | E C2(z) C2(y) C2(x) i σ(xy) σ(xz) σ(yz) | 反転中心を持つ平面状 | ![]() エチレン |
![]() 四酸化二窒素 |
![]() ジボラン |
D3h | E 2C3 3C2 σh 2S3 3σv | 平面三角形あるいは三角両錐 | ![]() 三フッ化ホウ素 |
![]() 五塩化リン | |
D4h | E 2C4 C2 2C2' 2C2 i 2S4 σh 2σv 2σd | 平面四角形 | ![]() 四フッ化キセノン |
![]() オクタクロロ二モリブデン(II)酸アニオン |
|
D5h | E 2C5 2C52 5C2 σh 2S5 2S53 5σv | 五角形 | ![]() ルテノセン |
![]() C70 |
|
D6h | E 2C6 2C3 C2 3C2' 3C2‘’ i 2S3 2S6 σh 3σd 3σv | 六角形 | ![]() ベンゼン |
![]() ビス(ベンゼン)クロム |
|
D7h | E C7 S7 7C2 σh 7σv | 七角形 | ![]() トロピリウム (C7H7+) カチオン |
||
D8h | E C8 C4 C2 S8 i 8C2 σh 4σv 4σd | 八角形 | ![]() シクロオクタテトラエニド (C8H82−) アニオン |
![]() ウラノセン |
|
D2d | E 2S4 C2 2C2' 2σd | 90°ねじれ | ![]() アレン |
![]() 四硫化四窒素 |
|
D3d | E C3 3C2 i 2S6 3σd | 60° ねじれ | ![]() エタン(ねじれ形回転異性体) |
![]() シクロヘキサンのいす型配座 |
|
D4d | E 2S8 2C4 2S83 C2 4C2' 4σd | 45°ねじれ | ![]() デカカルボニル二マンガン(ねじれ形回転異性体) |
||
D5d | E 2C5 2C52 5C2 i 3S103 2S10 5σd | 36°ねじれ | ![]() フェロセン(ねじれ形回転異性体) |
||
S4 | E 2S4 C2 | ![]() テトラフェニルホウ酸アニオン |
|||
Td | E 8C3 3C2 6S4 6σd | 正四面体 | ![]() メタン |
![]() 五酸化二リン |
![]() アダマンタン |
Oh | E 8C3 6C2 6C4 3C2 i 6S4 8S6 3σh 6σd | 正八面体あるいは立方体 | ![]() キュバン |
![]() 六フッ化硫黄 |
|
Ih | E 12C5 12C52 20C3 15C2 i 12S10 12S103 20S6 15σ | 正二十面体 | ![]() バックミンスターフラーレン |
![]() B12H122− |
![]() ドデカヘドラン |
対称操作は様々な方法で表現できる。便利な表現は行列によるものである。直交座標系における点を表現するいずれのベクトルにおいても、左からかけると対称操作によって変換された点の新しい位置を与える。操作の構成は行列の乗算と対応する。例えば、C2vでは以下のようになる。
無数のこういった表現が存在するが、群の既約表現が一般的に使用され、その他全ての群の表現は既約表現の線形結合で表わすことができる。
それぞれの点群について、指標表はその対称操作および既約表現の情報を要約する。既約表現の個数と対称操作の共役類の個数は常に等しいので、表は正方形である。
表自身は、特定の対称操作を適用した時どのように特定の既約表現が変換されるかを表現した指標で構成されている。分子自身に作用する分子の点群におけるどの対称操作も分子を変化させない。しかし、ベクトルあるいは軌道といった一般実体にはこれはあてはまらない。ベクトルは符号あるいは方向性が変化し、軌道は種類が変化する。単純な点群では、値は1あるいは−1である。1は(ベクトルあるいは軌道の)符号あるいは位相が対称操作によって変化しないことを意味し(対称)、−1は符号が変化することを示す(非対称)。
表現は一連の慣習によって名前が付けられる。
表にはまた、デカルト座標系の基底ベクトル、それらやそれらの二次関数に関する回転が、群の対称操作によってどのように変換されるかという情報も記録されている。これらの表示は慣例的に表の右側に記載される。化学的に重要な軌道(特にpおよびd軌道)はこれらの実体と同じ対称性を有するため、この情報は有用である。
C2v対称点群の指標表は以下の通りである。
C2v | E | C2 | σv(xz) | σv'(yz) | ||
---|---|---|---|---|---|---|
A1 | 1 | 1 | 1 | 1 | z | x2, y2, z2 |
A2 | 1 | 1 | −1 | −1 | Rz | xy |
B1 | 1 | −1 | 1 | −1 | x, Ry | xz |
B2 | 1 | −1 | −1 | 1 | y, Rx | yz |
C2v対称性を有する水 (H2O) の例を考える。酸素の2px軌道は分子の平面に対して垂直に向いており、C2およびσv'(yz) 操作で符号が変化するが、その他2つの操作では変化しない。ゆえに、この軌道の指標集合は {1, −1, 1, −1} であり、B1既約表現に対応する。同様に、2pz軌道はA1既約表現の対称性を、 2py軌道はB2、3dxy軌道はA2を有する。
ハンス・ベーテは1929年の配位子場理論の研究において点群操作の指標を使用し、ユージン・ウィグナーは原子分光学の選択則を説明するために群理論を使用した[6]。初の指標表はティサ・ラースローによって振動スペクトルと結び付けて編纂された(1933年)。ロバート・マリケンは英語で初めて指標表を発表し(1933年)、E・ブライト・ウィルソンは固有振動の対称性を予測するために1934年にそれらを使用した[7]。32種類の結晶点群一式はRosenthalとMurphyによって1936年に発表された[8]。
上で解説した対称群は、単一の平行構造に関して小さな揺れしか経験せず、全ての対称操作が単純な幾何操作に対応している「剛体」分子を記述するために有用である。しかしながら、ロンゲ=ヒギンズは複数の等価な構造を持つ非剛体分子について適したより一般的な種類の対称群を提唱している[9][10]。これらの群は「置換-反転」群と呼ばれる。これは、対称操作が等価な核のエネルギー的に許容な置換あるいは重心に関する反転、あるいはそれら2つの組み合わせであり得るためである。
例えば、エタン(C2H6)は3つの等価なねじれ形配座を持つ。ある配座のもう一つの配座への変換は、1つのメチル基のもう一方のメチル基に相対的な「内部回転」によって常温で起こる。これはC3軸に関する全分子の回転ではないが、1つのメチル基の3つの同一の水素原子の置換として記述することができる。上記の表で示されているようにそれぞれの配座はD3d対称性を持つものの、内部回転、関連した量子状態およびエネルギー準位の記述はより完全な置換-反転群を必要とする。
同様に、アンモニア(NH3)は2つの等価な三角錐(C3v)配座を持ち、これらの配座は窒素反転として知られる過程によって相互変換する。NH3は反転中心を持たないため、これは剛体分子の対称操作に対して用いられている意味での反転ではない。むしろ、この分子についてエネルギー的に許容される(窒素に近い)重心に関する全原子の鏡映である。再び、置換-反転群が2つの構造の相互作用を記述するために用いられる。
非剛体分子の対称性への2つ目の似た手法はAltmannによるものである[11][12]。この手法では、対称群は「シュレーディンガー超群」と呼ばれ、(1) 剛体分子の幾何対称操作(回転、鏡映、反転)、(2) 「等力 (isodynamic) 操作」という2種類の操作(とそれらの組合せ)からなる。後者は、単結合に関する回転(エタン)あるいは分子の反転(アンモニア)といった物理学的に合理的な過程によって非剛体分子をエネルギー的に等価な形へと入れる[12]。