劉 賓雁 | |
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プロフィール | |
出生: | 1925年2月7日 |
死去: | 2005年12月5日[1] |
出身地: |
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職業: | 作家 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉賓雁 |
簡体字: | 刘宾雁 |
拼音: | Liú Bīnyàn |
和名表記: | りゅう ひんがん |
発音転記: | リョウ ビンイェン |
劉 賓雁(りゅう ひんがん)は、中華人民共和国のルポルタージュ作家。長春市生まれのハルビン市育ち。
満洲事変の後、父の失業などで困窮し、高級中学(日本の高校に相当)を1年で退学する。1943年から天津で中国共産党指導下の抗日地下活動に加わり、翌44年、入党。日本降伏後の1946年から51年まで、東北地方で中国新民主主義青年団(後の中国共産主義青年団)の活動に従事する。この間、「真理の物語(真理的故事)」などソ連の現代劇の脚本などを数編、翻訳する。1951年、北京で中国共産主義青年団機関紙「中国青年報」の記者となり、中国各地で取材活動を行う。この過程で官僚や党幹部の腐敗に触れ、官僚主義を批判する「橋梁工事現場にて(在橋梁工地上)」「本紙内部ニュース(本報内部消息)」を発表し、国の内外に大きな反響を呼んだ。1956年、中国作家協会に加入。なお中国青年報記者時代に3回、出国しており、1956年にソ連経由でポーランドに行った時には、ソ連のオーチェルク(記録文学)作家・オヴェーチキンの家を訪問している。
1957年6月の反右派闘争により、過去に書いた作品や記事[2]で共産党や社会主義を誹謗したとして「右派分子」と認定される。特に「中国青年報」5月13日付の記事「沈思する上海(上海在沉思中)」で、文芸創作に必要な自由な雰囲気を中共上海市委員会が作り得ていないことを指摘したため、この記事を読んだ毛沢東は「事態を混乱させたい奴がいる」と劉賓雁の批判を指示したという。その結果、党を除名され、創作活動停止に追い込まれる。山西、山東、北京郊外の農村に下放されて、労働改造処分を受けた。1961年から中国青年報に復職して国際資料班という閑職に回されるが、1966年に文化大革命が始まると「ブルジョワ民主化の代表的人物」「反党反社会主義の右派分子」として引き続き執筆活動を禁止され、「五・七幹部学校」という名の強制労働キャンプに送られる。
文革終了後、1978年に中国社会科学院哲学研究所に籍を置き、同研究所が編集する『哲学訳叢』に劉子安、金大白のペンネームで翻訳を載せた。1979年1月にやっと名誉回復して「人民日報」の記者となり、多くの政治的腐敗、人権抑圧を「報告文学」という独特の形式で取材、執筆し、民衆の信頼と支持を得る。中国作家協会が主催する全国優秀報告文学賞を4回(1981、1983、1985、1987年)受賞している。1984年末の中国作家協会第4回全国代表大会で副主席に選出された。1986年末に発生した学生による民主化運動(「学潮」)を扇動したとされ、1987年1月、中国共産党を再度除名される。その後、優秀なジャーナリストに授与されるニーマン奨学金を得て、1988年3月からアメリカで研究生活を送っていたが、翌89年の天安門事件で民主化運動の黒幕視され帰国不能となり、そのままアメリカに亡命した。
亡命後も中国の民主化運動を支援し、活発に論壇で活動、「中国の良心」と呼ばれていた。代表作は「人妖の間(人妖之間)」「ひとりの人間とその影(一个人和他的影子)」「第二種の忠誠(第二種忠誠)」など多数。2005年12月5日、結腸癌による合併症のため、アメリカ・ニュージャージー州の病院で死去した。80歳。
劉賓雁の遺骨は2010年12月23日、中国大陸に戻り、北京市北西郊外の天山陵園に眠る。生前に準備していた墓碑銘(「ここに長く眠る中国人は、なすべきことをなし、言うべきことを言った」)が当局によって拒否され、墓石にはただ「劉賓雁 1925-2005」とのみ刻まれている。2013年12月にはアメリカで「劉賓雁良知賞」が設けられ、イデオロギーや党派を超えて、自由と民衆の立場から良識を発揮し、社会に貢献した中国人に贈られることになった。