かとう よし(かとう か) 加藤 嘉 | |||||||||||
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本名 | 加藤 嘉(かとう ただし) | ||||||||||
生年月日 | 1913年1月12日 | ||||||||||
没年月日 | 1988年3月1日(75歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本東京府東京市芝区新堀町[1](現在の東京都港区芝) | ||||||||||
死没地 | 日本東京都渋谷区富ヶ谷[2] | ||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1934年 - 1988年 | ||||||||||
配偶者 |
山田五十鈴(1950年 - 1953年) 中村雅子(1958年 - 1988年)死別 | ||||||||||
著名な家族 |
加藤助次郎(父) 加藤千代(娘) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『春の坂道』 『元禄太平記』 『前略おふくろ様』 映画 『真空地帯』 『米』 『白い巨塔』 『神々の深き欲望』 『砂の器』 『ふるさと』 『タンポポ』 | |||||||||||
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加藤 嘉(かとう よし、1913年〈大正2年〉1月12日[3][4] - 1988年〈昭和63年〉3月1日)は、日本の俳優。本名は同じ漢字表記で[3]、読みは「かとう ただし」。音読みでは「かとう か」と呼ばれる。
東京市[3]芝区新堀町(現在の東京都港区芝)出身[4]。慶應義塾高等部(旧制慶應義塾大学の大学専門部)中退[3][4]。新倉事務所に所属していた[3]。
4度結婚しており[5]、前妻は山田五十鈴、後妻は女優の中村雅子(詳しくは後述)。
祖父は材木商をしていたが、父は無職で、不動産収入で生活していた。母・長子との長男として誕生(妹が1人いたが、早くに亡くなっている[6])。
鎌倉師範付属小学校から慶應義塾商工学校に入り、専門部の慶應義塾高等部に進む[6]。在学中、先輩の徳大寺伸が主宰するアマチュア劇団に誘われ、公演に助っ人として参加[6][7]。当時は俳優になるつもりはなく、山岳部の活動をしながら学生生活を送っていたが、ラグビー部員に刀の鍔で殴られて失明状態になり、僅か1年で高等部を中退している[6]。目は半年後に回復し、その後は素人劇団に出演していた。
1934年(昭和9年)1月、東京宝塚劇場の専属俳優募集の広告を見て俳優を志し、既成俳優を含む1300人の応募者から男16人、女9人の合格者の中に選ばれる[6]。合格者の中には谷幹一、森野鍛冶哉、伏見信子、伊藤雄之助らもいた[8]。しかし、大部屋生活に不満を持ち、それまで関心のなかった新劇を見るようになる。反戦劇に共鳴し、西欧近代劇や社会主義の本を片端から読みあさっていた。
1936年(昭和11年)、新築地劇団付属研究所に入所、同期に殿山泰司、千秋実、多々良純らがいる。同劇団での初舞台となった水谷八重子主演の『女人哀詞』で茶店の親爺役を演じ、23歳にして早くも老け役を演じている[8]。翌1937年(昭和12年)4月、研究所を卒業して正式に座員となり、『桜の園』『土』『どん底』などの作品に出演して頭角を現す[8]。
1940年(昭和15年)、新劇弾圧により薄田研二、本庄克二ら多くの劇団員が検挙され、加藤も築地署に1週間ほど留置され、劇団は解散させられた。翌1941年(昭和16年)、南旺映画製作の『流旅の人々』で映画に初出演する。同年5月、井上演劇道場・水谷八重子一座合同劇に水谷の相手役として出演[8]。1942年(昭和17年)には明治座にも出演し、やがて井上正夫主宰の井上演劇道場に入るが、1943年(昭和18年)に応召。横須賀海兵団に入隊し[9]、海軍経理学校の警衛分隊に勤務するうちに終戦を迎える[8]。
1946年(昭和21年)、道場を解散して第2次新協劇団に参加した井上に従って同劇団に入るが、1947年(昭和22年)に東京芸術劇場公演『林檎園日記』にフリーの立場で出演した。これを機に、同年7月28日に滝沢修、宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加し、旗揚げ公演の『破戒』に出演[8]。1950年(昭和25年)には劇団民藝(第二次民藝)創立に参加し、『その妹』等に出演するが、翌1951年(昭和26年)に民藝を退団[9]。以降は活躍の場を映画に移したが、1965年(昭和40年)には文学座に入り、『女の一生』『五稜郭血書』などの舞台に立った。
戦後の映画初出演作は吉村公三郎監督の『わが生涯のかがやける日』。1950年代は山本薩夫監督の『真空地帯』などの独立プロ映画に出演し、やがて東映専属となった。
1957年の映画「米」では半身不随の老人役を演じたが、今井正監督の度重なるダメ出しに苦悩したことから、役作りのため前歯を全部抜いて撮影に挑んだ[5]。
出演した映画の中でも1974年の映画『砂の器』は、ハンセン病を患う和賀英良の父親役を、回想シーンおよび物語終焉シーンにて生死の狭間と父親の深くも悲しい愛を演じた。鬼気迫る演技を見せ、代表作の1つとされた。
1983年の映画『ふるさと』では妻を亡くした痴呆気味の老人役を好演し、モスクワ国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞[5]。
今井正、山本薩夫、内田吐夢、今村昌平、野村芳太郎ら多くの巨匠監督に重用されており、出演映画総数は360本以上[5]。
1988年2月29日午後11時40分、自宅の寝室で倒れ、救急車で井上病院に運ばれたが、3月1日午前0時3分になって間もなく脳卒中により死去、75歳[10]。墓所は多磨霊園。
病人のように痩せこけた顔、骨ばった身体、ギラリと光る黒目の大きな瞳が特徴[11]。本人は生前、演じる際には極度のあがり症だったことを、ドラマで息子役で共演した児玉清に告白している[12]。
映画では老け役を多く担当し、媒体によっては「“老け役”として様々な作品で強烈なアクセントの役割を果たしてきた」[11]、「好々爺よりも理不尽な物語を背負う役でこそ真価が発揮された」などと評されている[5]。
映画評論家の樋口尚文は、加藤を以下のように評している。「加藤さんは、日本人特有の脆さを体現した俳優だと思います。だからこそ脇役で短い出演シーンでも、我々の琴線に触れ、目に焼き付いてしまうのです」[5]。
加藤と親交のあった作家・水上勉は、加藤を以下のように評している。「痩せこけて骨太で神経質で頑固である。豊満な孟宗竹の切り口のように艷やかではないが、黒竹のように加藤嘉は締まっている」[5]。
中村雅子との結婚生活の話として、娘・千代は以下のように回想している。「父の役者の仕事がない時は家の雰囲気も朗らかでしたが、父は常に役柄と同居して生きているような人でした。台詞が上手く頭に入らないと、父はよく家具に八つ当たりしていました。そのため父が居間で台本を覚える間は、私と母はできるだけ物音を立てないよう細心の注意を払って生活していました」[5]。
1度目は1933年に新橋の芸者見習いと上海へ駆け落ちして結婚し[5]、女子をもうけたがその後離婚。ある女優と2度目の結婚[5]をして男子と女子をもうけたが離婚。1950年(昭和25年)に当時の大スター女優・山田五十鈴と3度目の結婚をし、1952年(昭和27年)に夫婦で現代俳優協会を結成したが[13]、3年で離婚した。
1958年(昭和33年)に映画『米』で親子役として共演した、東映の新進女優・中村雅子と4度目となる結婚をし、後に女優となる加藤千代をもうけた[5]。また、これ以外にも様々な女優との恋の噂があり、マスコミからは「ドン・ファン」と評され、叩かれたこともある。妻の中村は、後年の著書『トランクいっぱいの恋文』で、恋多き加藤について「ヨシ(加藤)が惚れっぽいことは確かだが、それは彼が少年のようにいつも純粋な情熱(を持っていたから)なのだ」と回想している[5]。
中村とは22歳差ということでマスコミに騒がれ、お互いの親族から大反対されたが、それらを乗り越えての結婚だった[注釈 1]。新婚早々加藤の京都での仕事が偶然続いたため、しばらくの間“別居婚”状態になったが、夫婦はラブレターでやり取りを続けた[5]。
太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品