かとう はるこ 加藤 治子 | |||||
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本名 | 加藤 治子 | ||||
別名義 | 御舟 京子(旧芸名) | ||||
生年月日 | 1922年11月24日 | ||||
没年月日 | 2015年11月2日(92歳没) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市赤坂区(現東京都港区) | ||||
死没地 | 日本・東京都世田谷区 | ||||
血液型 | AB型 | ||||
職業 | 女優 | ||||
ジャンル |
舞台 映画 ラジオ テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1937年 - 2015年 | ||||
配偶者 |
加藤道夫 (1946年 - 1953年死別) 高橋昌也 (1958年 - 1973年) | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『七人の孫』シリーズ 『大岡越前』シリーズ 『泣かないで!かあちゃん』 『だいこんの花』シリーズ 『寺内貫太郎一家』シリーズ 『さくらの唄』 『家族熱』 『阿修羅のごとく』シリーズ 『おやじのヒゲ』シリーズ 『浅見光彦シリーズ』 『こんにちは、母さん』 映画 『瀬戸内少年野球団』 『Mishima: A Life In Four Chapters』 『マルサの女2』 『歩いても 歩いても』 『おとうと』 アテレコ 『魔女の宅急便』 『ハウルの動く城』 | |||||
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加藤 治子(かとう はるこ、1922年〈大正11年〉11月24日 - 2015年〈平成27年〉11月2日[1])は、日本の女優。血液型はAB型。
東京市赤坂区(現東京都港区)に、呉服問屋の娘として生まれる。
松竹少女歌劇学校を経て、1937年、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名で松竹少女歌劇団に入る。同期には、後の男役トップスター・小月冴子や曙ゆり、並木路子、矢口陽子(後の黒澤明夫人)、月城彰子(後の十代目・岩井半四郎夫人)などがいた。1939年には東宝に迎えられ、『花つみ日記』で映画デビューする。榎本健一の相手役など数本の映画に出演した。
1941年に慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志らが結成した新演劇研究会(解散するが、戦後に麦の会として再出発)に入団。1946年、加藤道夫と結婚し、本名の瀧浪治子から加藤治子に改姓[2]。麦の会は1949年に文学座に合流し、以降は主演級で活躍した。
1963年には芥川、高橋昌也、高木均、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加した(1975年に退団)。
1964年、『七人の孫』で母親を演じ、森繁久彌らと共演。以後、ホームドラマでの母親役を当たり役にして人気を集める(新御三家と呼ばれた郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の母親役も演じている)。
共演はいしだあゆみ、樹木希林、平田満との組み合わせが多かった。
向田邦子や久世光彦とは公私ともに親しく、向田作品では常連出演者かつキーマン役を務め、女の業を滲ませた役も演じた。ほか、篠田正浩作品にも常連起用されていた。
1994年から2009年までは『浅見光彦シリーズ』(TBS系)に浅見雪江(光彦の母)役でレギュラー出演していた。
晩年までコンスタントに作品を選ばずに出演(映画における遺作は『おとうと』、テレビドラマでの遺作は『魔術はささやく』)。
私生活では加藤道夫と結婚するも1953年に死別、1958年には高橋昌也と再婚するが、1973年に離婚している。
2015年11月2日(月曜日)午前7時7分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去[1]。92歳没。