かが まりこ 加賀 まりこ | |||||||||||
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『読切倶楽部』1964年5月号より | |||||||||||
本名 | 加賀 雅子(かが まさこ) | ||||||||||
生年月日 | 1943年12月11日(80歳) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京都神田区小川町(現千代田区神田小川町)[1] | ||||||||||
身長 | 156 cm | ||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||
職業 | 女優、司会者 | ||||||||||
ジャンル | テレビドラマ、映画、歌番組 | ||||||||||
活動期間 | 1960年 - | ||||||||||
活動内容 |
1960年:ドラマ出演でデビュー 1962年:映画デビュー | ||||||||||
配偶者 |
高田明侑(1974年 - 1980年) 清弘誠(事実婚)[1] | ||||||||||
著名な家族 |
加賀四郎(父)[2][1] 加賀千景(姪)[3] | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『妻たちの初体験』 『出逢った頃の君でいて』 『私の青空』 『花より男子』シリーズ 『5→9〜私に恋したお坊さん〜』 映画 『月曜日のユカ』 『美しさと哀しみと』[1] 『泥の河』[1] 『陽炎座』 『麻雀放浪記』[1] 『梅切らぬバカ』 | |||||||||||
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加賀 まりこ(かが まりこ、1943年〈昭和18年〉12月11日[1] - )は、日本の女優、司会者。本名:加賀 雅子(かが まさこ)[4]。有限会社活動屋所属。デビュー以来、奔放な言動でマスコミを賑わせ、「小悪魔」[4]や「和製ブリジット・バルドー」などと呼ばれる[1][4]。
東京都神田区小川町(現在の千代田区神田小川町)に生まれ、新宿区神楽坂で成人し、現在も新宿区在住。父・加賀四郎は映画会社大映のプロデューサーとして知られ[5]、芸能一家の中で育つ。姉は13歳年上、兄は12歳年上[6]。兄は大映・松竹のプロデューサーの加賀祥夫[7]。
小学生の時分より隣町である神田神保町の古本街に通い、澁澤龍彦翻訳の「マルキ・ド・サド選集」を愛読。小さい時から思ったことは何でも口にする歯に衣きせぬ毒舌だったという[6]。また映画で見た、オードリー・ヘプバーンの髪型にするため1人で美容院に行くほどの早熟な子供であった[6]。
中学校時代には陸上競技を行っており、2年時には走幅跳で都大会で優勝している[8]。高校生になると行動範囲は広がり、六本木や麻布界隈で飯倉の高級イタリアレストラン「キャンティ」に学生服のまま通っていた。キャンティでは安井かずみ、コシノジュンコらと親しくなった。また、キャンティのママ・川添梶子の自立した生き方に強い憧れを抱いていたという。なお、六本木野獣会のメンバーと誤解されることがあるが[9]、本人は無関係だと否定し[10]、「野獣会などは田舎者の集まり」と言っている[11]。
千代田区の錬成中学校を経て明星学園高等学校入学。同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ[12]、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビュー。芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだった[13]。
松竹と5年間の新人契約を交わして1962年に『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビュー[14]。中尾彬、山本陽子らと共演した主演映画『月曜日のユカ』は、加賀まりこの代表作の一つである[15]。その後数々の映画やドラマに出演し、小悪魔的なルックスと高い演技力で人気女優となった。反面、常に歯に衣着せぬ発言、かつ強気であったため「生意気」のレッテルを貼られ、尖ったキャラクターイメージでお馴染みとなり、その言動が波紋を呼ぶこととなった。
20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事と女性週刊誌がイメージだけで書く記事に嫌気がさし、人生をリセットする目的で半年先のスケジュールまでキャンセルして、単身パリに渡る。それまでに稼いだ金で豪遊のかたわら、イヴ・サン=ローラン、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワーズ・サガンらと交友する[13]。この滞在中、1964年6月にフランスを訪れた大相撲の横綱大鵬や前頭(後に横綱)琴櫻(初代)と撮った記念写真が残されている(詳細は「大鵬」の項目を参照)。
半年が経ち、金が底をつき帰国を考えていた矢先に、国際電話で演出家・浅利慶太から舞台出演の打診をされる。帰国後、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演。連日大入りの大盛況となった。この舞台で初めて女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れる[16]。
川端康成は大変加賀を気に入っており、撮影所や劇場によく見学にきたり、ともに朝食を摂ることもある仲であった。加賀は川端について「いいダチ」と述懐している。1965年に出演した映画『美しさと哀しみと』の作品中のレズビアン「坂見けい子」を加賀が演じることになり、川端は原作者として加賀と初対面した[17]。川端は加賀のリハーサルの演技を見て、「加賀さんの熱っポイ激しさに私は驚いた」、「私がまるで加賀まりこさんのために書いた様な、他の女優は考えられないような、主演のまりこがそこに現れた」[17]と述べ、登場人物の「けい子」というエキセントリックで妖精じみた娘に、「演技より前の、あるいは演技の源の、加賀さんの持って生まれた、著しい個性と素質が出ていた」[17]と褒めた。
1989年10月18日〜1990年10月3日まで古舘伊知郎共にフジテレビ系列「夜のヒットスタジオSUPER」の司会を務める。
2005年から2007年にかけて放送の『花より男子』に出演したことで若い世代からも「道明寺のお母さん」と認知され、特に女子高生から声をかけられることが増えた(なお、本人は自虐的に語っている)。この役について「鉄の女というか、血が通ってない役は似合わないと思って最初は断ったけど、クランクイン1週間ほど前にプロデューサーと演出家の方に口説かれ、その熱意に打たれて出演を決めた。反響が凄かったわ」と語っている[18]。
2011年秋に中尾彬と一緒に肺炎予防大使に就任[19]。肺炎予防推進プロジェクトの一環で、肺炎球菌ワクチン接種の啓発に一役買った[19]。
2013年6月からは1ヶ月間スポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。
2017年10月18日放送分のフジテレビ系『良かれと思って!』に出演した際、6歳下のドラマ演出家と事実婚している加賀は「60歳の時から(事実婚している)。向こうが振り向いてくれた。5年越し、55歳の時から(アプローチしていた)」と自分から男性に働きかけたことを明かした[20]。
石坂浩二とは1966年に舞台で共演したことを契機として交際が始まり、一時は同棲にまで至るも、お互いの仕事が忙しくなり関係は自然消滅した[21]。なお後に石坂と結婚する浅丘ルリ子を石坂に紹介したのも加賀である[21]。
飯島愛とは『クイズ赤恥青恥』(テレビ東京)で出会って共演して以来親交があった。飯島は加賀の出産当日に亡くなった娘と同じ1972年生まれという共通点もあって「私もあなたのお母さんになる」というつもりで交流が始まったという[22]。飯島の死後(2009年)に行われたお別れ会では発起人の一人として名前を連ねた[23]。
父・四郎は大映のプロデューサー。兄は大映・松竹のプロデューサーの加賀祥夫[7]。祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉。母方の祖母は神田錦町で貸席を営んでいた松本フミ。
伯父・加賀一郎は、アントワープオリンピックで陸上競技100mと200mに出場しており、ベルリンオリンピックにも役員として選手団に同行、もう一人の伯父・加賀二郎は松竹株式会社元常務[8]。また父方・母方の従兄妹は元女優の岸雅子(のち加賀周子)、『シャボン玉ホリデー』カバーガールをつとめた加賀美知子、元日本テレビプロデューサーの加賀義二。加賀本人は父似と語っている[5]。姪は女優の加賀千景。姪の夫は俳優の田中健。
1972年、加賀は未婚のまま女児(父親は非公表)を妊娠、シングルマザーとしての育児を決意するも、1972年2月14日、出産7時間後に死亡した(死因は非公表)[1][30]。その後、1974年にフジテレビプロデューサーの高田明侑と結婚し、1980年に離婚[31]。現在ではTBS社員の演出家と事実婚の関係である[5][32]。
発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
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ワーナー・パイオニア | |||
1971年4月 | LP | L-8003W | 愛しあう2人のために 愛のレッスン
Side A:
Side B:
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1999年1月25日 | CD | WPC7-8598 | |
2014年3月19日 | CDSOL-1560 | ||
2018年7月4日 | UVPR-10016 |
麻雀最強戦2017
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