十二単(じゅうにひとえ)、または十二単衣は、平安時代後期に成立した公家女子の正装。十二単という名称は、文献上女房装束(にょうぼうしょうぞく)、裳唐衣(もからぎぬ)等と呼ばれていた装束[1]の後世の俗称である。五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)とも呼ばれる。
五衣・唐衣・裳という名称は、この装束が「袴・単・五衣・打衣・表着・唐衣・裳」から構成されていることに由来している。
五衣唐衣裳を十二単と呼ぶ風潮は、「平家物語」の異本『源平盛衰記』の中に「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」[2]とある言葉の意味を、世間では取り違えられて広まったものとみられている。五衣唐衣裳を宮中では十二単とは呼ばないからである[3]。また、昔は袿の枚数を「単」で表し、2枚重ねると「二単」、7枚重ねると「七単」というような語彙もあった。この記述では単を着て、言葉のまま上に12枚の袿を重ね着した重ね袿姿で平徳子は入水したという意味になる[4]。しかし、元来の意味とは違っても、五衣・唐衣・裳を十二単と呼ぶ俗称は一般的に使用されている[5]。
十二単は20キログラム (kg) 程あり、四季に応じた名称の「かさね」を用いた[6]。また、宮中では女性の「束帯」に当たる装束として「物具装束」[7]が平安後期まで存在したが、女性が公儀の場に出るのを嫌う風潮もあって、着用される機会が減り廃れた。
また一説として、平安時代の平均気温は、現在の平均気温より1 ℃低く(例えば、鹿児島の気温は仙台の気温に相当する)、この頃の京都は非常に寒かったため防寒着として着ていたとされる[8][出典無効]。しかし、歴史気候学の研究によると、屋久杉の年輪の炭素同位体比の分析や平安海進の痕跡から、平安時代は温暖な時期であったことが示されており[9]、防寒着説はこれに矛盾する。また、少なくとも現代においては、仙台の気温[10]は鹿児島の気温[11]と比べて5℃〜7℃程度低く、比較事例として適切とは言えない。
十二単の構成は、上衣から次の通り。
日本の朝廷の伝統的な装束では、袿(うちぎ)と呼ばれる複数の衣を重ねることが基本で、その色の組み合わせ、あるいは袷の衣服の表地と裏地の色の組み合わせを「かさね」(襲・重)と呼ぶ[6][12]。かさねは袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされたところでもある。『栄花物語』等には当時の女房が工夫を凝らしたさまが詳述されている。ある女房は重ねに凝り、通常よりも多く20枚以上の衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には5枚となり、それ以後「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれ女房装束に定着されるようになった。
このような重ね・襲ねの取り合わせを「重ね・襲ねの色目」というが、色目については主に季節感を取り入れた組み合わせになっている。春夏秋冬・または植物や色単体のグラデーションによりおびただしい数の種類があり、着用の季節や行事が厳密に定められていた。これらの季節感などを無視した取り合わせを用いることはマナー違反・センスがないと見なされ、当時の女性が工夫を凝らして装ったことが当時の物語や日記などに垣間見ることができる。
襲ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび。表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅・裏は紫または蘇芳)、桜(表は白・裏は赤または蘇芳)などがある。
重ねも同様で、色の重ね方に決まりがあり、重ねる色の数やグラデーションの具合でそれぞれに固有の呼び名(裾濃・匂いなど)があった。ただし、重ねと襲には同じ名称のものもあるため、古典研究の際の混乱の元にもなっている。