南九州のデータ | |
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宮崎県+鹿児島県の合計 | |
国 | 日本 |
面積 | 16,922.33km2 |
総人口 |
2,560,678人 (直近の統計[注釈 1]) |
人口密度 |
150.7人/km2 (直近の統計[注釈 1]) |
九州を南北に分割する区分はしばしば用いられ、二分する場合は北九州(北部九州、九州北部)と南九州(南部九州、九州南部)、三分する場合はこれに中九州(中部九州、九州中部)が加わる。
最も一般的な範囲は宮崎県と鹿児島県を合わせた地域[1][2] とされるが、地域区分の境界は明確ではない。このため、南九州という言葉の用法も行政組織や民間企業などの所掌によってさまざまであり、後述のとおり必ずしも両県のみで構成されるとは限らない。
南九州市(2007年(平成19年)12月1日に、鹿児島県の揖宿郡頴娃町、川辺郡知覧町、川辺町の3町が合併して発足。
広い平野がある程度連続している北九州、中九州とは異なり、これらと南九州との間には九州山地が国見山地から祖母山系まで連なって横たわり、古代以前の交通の要路は海運であった。宮崎平野、大隅平野、国分平野や川内平野、出水平野が散在するほかは山がちであり、都城盆地、小林盆地や人吉盆地、大口盆地が散在する。
北部九州との陸路の交通路の要衝は、九州山地を越えて最初の平地であり、東九州軸(日向街道)では延岡、熊本と延岡を結ぶ日向往還では高千穂、「山回り」(人吉街道)では人吉、「海回り」(薩摩街道)では水俣などである。
これらの玄関口の内、高千穂は軍事的要衝としての意義は強かったが、九州山地の山深くであり南九州の主要な平地である国分平野から遠いため、薩摩にとって最も重要な玄関口は「人吉」であった。西都原には古墳群があり、のちに国府も置かれている。古墳時代の「表日本」は、対馬海流域の日本海側なので、日本という国の玄関であった出雲地域に古墳群があるが、その他、平野や盆地の玄関口の地域に多く分布している。
ニニギノミコトや神武王( → 神武東征)といった日本神話や、邪馬台国に登場する熊襲や隼人などの勇猛な一族の説話に登場する市町村が多く、大宰府などがアジア大陸文化の窓口となった北部九州とは一線を画している。山間部には、平家落人伝説が残る山村(隠田百姓村)が多い[5]。
古来から「貝の道」として南島(奄美群島、琉球諸島など)との交易関係は深く、土器と引替えに、装身具または資材としての貝殻(ゴホウラやヤコウガイ)を多く取引していた。
南九州を支配下においた島津氏は琉球侵攻により琉球王国を服属させると、南島の文化が多く流入した。食文化、地名など、他の地方とは異なる、南島と共通の文化も持っている。サツマイモはフィリピンから中国を経て17世紀初頭頃に琉球諸島に伝来、それが18世紀頃に南九州に伝来、やがて日本全国に広まった。薩摩揚げは、中国から伝わった琉球料理「チキアギ」が鹿児島に定着し広まったものである。
南九州において昭和30年代頃まで存在していた古い民家は母屋と別棟が隣接した構造を呈しており、これは南西諸島にみられる母屋と別棟が離れた構造と、北部九州にみられるカギ型構造との中間であるとされる[6]。また、田植祭における足耕と呼ばれる風習や、江戸時代中期に薩摩藩で始まった棒踊りもその起源を南西諸島に求めることができる[7]。
熊本県を含めたいわゆる「南九州3県」の合計面積が日本の6.5パーセントを占めているのに対し、工業製品出荷額は1.9パーセントを占めるに過ぎない。その一方で農業農産物出荷額は11.5パーセントを占めており、日本における重要な食糧供給地の一つとなっている。特に畜産、柑橘類、茶、タバコ、イグサの産地を多く抱える。[8]
畜産については、特に肉用牛の飼育が北海道に続いて鹿児島県が2位、宮崎県が3位、熊本県が4位となっており、またブロイラーの飼育も鹿児島県が1位、宮崎県が2位となっている[9][10]。
クルマエビの養殖が盛んであり、沖縄県、鹿児島県、熊本県で日本の生産量の大半を占める[11]。
ここでは南九州の歴史について述べる。南九州の歴史については、おおむね鹿児島県と宮崎県を合わせた地域について述べられることが多いが、広義で人吉・球磨地域や水俣・芦北地域で組まれる熊本県南地域や天草諸島を含めて述べられることもある。九州全域の歴史については九州の歴史、鹿児島県の歴史については鹿児島の歴史、宮崎県の歴史については宮崎県の歴史、熊本県南地域および天草諸島の歴史については熊本県の歴史を参照すること。
縄文時代の南九州には、上野原遺跡をはじめとして掃除山遺跡や奥ノ仁田遺跡など、多様な生活遺構を含む遺跡が分布しており、日本列島における縄文文化の先駆けになったと考えられている。しかしながらこの高度な縄文文化は約7300年前に鬼界カルデラで起きた大噴火によって消失してしまった[12]。
弥生時代には、中期後半から後期にかけて、宮崎県南部や鹿児島県東部を中心に花弁形竪穴建物と呼ばれる特徴的な竪穴建物が建築される。
古墳時代の南九州は、5世紀 - 6世紀頃にはヤマト王権と活発な交流を持ち、宮崎県では生目古墳群や西都原古墳群などが出現し、鹿児島県でも大隅地方に唐仁古墳群や塚崎古墳群などの大古墳群が多く造営されたが[13]、律令体制が導入される7世紀後半頃から、当地住民の一部は大隅隼人、阿多隼人(薩摩隼人)などと呼ばれるようになった。南九州の行政区分として7世紀にまず日向国が設立され、8世紀に日向国から薩摩国と大隅国がそれぞれ分離設立された。しかしながら南九州はシラスなど火山灰質の土地が多く畑作が優勢であったため、稲作を制度の基礎としたヤマト王権と対立し、ついには720年(養老4年)、隼人の反乱と呼ばれる地域紛争に発展した[14]。
中世に入ると鎮西平氏が肥前を拠点に南九州へと進出、薩摩平氏一門河邊氏が栄える。大規模な荘園島津荘(都城盆地)の開墾と共に、南島や大宰府との交易で栄えた。室町時代、14世紀頃には地頭職島津氏が南九州へ下向、本格的な足場作りを始める。南北朝時代では南朝方についた薩摩平氏ほか薩摩・大隅の土着国人らが島津氏と激しく争い、これらを臣従させる。その後も島津氏は一族や肝付氏、禰寝氏や種子島氏など周辺国人との争いを繰り広げながらやがて薩摩国、大隅国、日向国の守護を務め南九州を支配下に治める。戦国時代には九州全域に影響力を及ぼすまでになったが、1587年(天正15年)、羽柴秀吉の九州征伐によって領地を薩摩国、大隅国、および日向国の一部に制限された。1876年(明治9年)8月21日には薩摩国、大隅国、日向国を合わせた領域が「鹿児島県」とされたが、後に分県運動が起き、1883年(明治16年)5月9日に宮崎県が分割された[15]。
地質学(地形学)においては九州を北部九州、中部九州、南部九州に三分する分類が用いられる。南部九州(南九州)は臼杵 - 八代構造線(中央構造線)より南側の領域を指し、西南日本弧外帯に属する。
南九州はフォッサマグナの西側から続く西南日本弧の地形と台湾付近から続く南西諸島の地形が交錯する部分にあたり、これに加えて多くの火山性地形を持つ複雑な様相を呈している。基盤となる地層は古生代から鮮新世にかけて形成された地層群であり、秩父帯、四万十層群および宮崎層群に分けられる。
南九州北部を構成する九州山地は北東 - 南西方向に延びる帯状の地質構造を持ち、北東に隣接する四国山地の延長をなしている。この帯構造は南九州中央部付近で屈曲し南北方向へと向きを変え南西諸島へと延長される。屈曲構造は複雑であり出水山地付近の「北薩屈曲」、人吉盆地北東部の「人吉屈曲」、宮崎平野西部の「野尻屈曲」などが複合している。かつてはおおむね一直線上に並んでいた山脈が日本海と沖縄トラフの拡大によって折り曲げられ、屈曲点を境にして南部が東へ向かってずれるように移動しているためにこのような構造となっている。
南九州の西部には多くの火山が分布しており、活動時期は西から東へ進むにつれて新しくなる傾向がある。これら火山群の東端にあたる鹿児島湾を中心として「鹿児島地溝」と呼ばれる地溝が南北に延び、これに沿って「南九州火山群」と呼ばれる火山列が連なっている。この火山列には霧島山や桜島などの活火山や大規模噴火を特徴とするカルデラが並んでおり、溶結凝灰岩やシラスなど火山噴出物を起源とする厚い地層がカルデラから数十キロメートル離れた地域にまで広がっている。火山列は南方海上にまで延びており南西諸島のトカラ列島へと続いている[16][17][18][19]。