『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、旧字体:南總里見八犬傳)は、江戸時代後期に曲亭馬琴によって著わされた長編小説、後期読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。
文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣が身体のどこかにある。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。
馬琴はこの物語の完成に、48歳から76歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。読本は発行部数も少なく[注釈 2]価格も高価であったが、貸本によって多くの人々に読まれており[2]、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判しているが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示している。逍遥の批判以降『八犬伝』の評価は没落していくが、1970年代から80年代にかけて復権し、映画や漫画、小説、テレビゲームなどの源泉として繰り返し参照されている[3]。
なお、里見氏は実在の大名であるが、「八犬伝で有名な里見氏」と語られることがある。『八犬伝』の持つ伝奇ロマンのイメージは安房地域をはじめとする里見家関連地の観光宣伝に資しているが、史実とフィクションが混同されることもある。
『南総里見八犬伝』は9輯98巻106冊からなる。刊行初期には5巻=5冊を1輯にまとめて発刊していたが、最終的には全体の半数以上を「第9輯」が占めるという異様な構成になっている。これは馬琴が陰陽思想における陽の極数である9にこだわったためである[注釈 3]。巻数と冊数が一致しないのは、上下分冊にした巻があるためである。
『水滸伝』などに範をとった章回小説の形式をとっており、物語は「回」によって区切られ、回ごとに内容を示す対句の題がついている。通常1冊に2回が収録されている。『八犬伝』の回数は180回と数えられるが[5][6]、上下回に分かれる回などもあり、「第180回」の数字を持つ回に至っては「第百八十回上」「第百八十回下」「第百八十勝回上」「第百八十勝回中編」「第百八十勝回下編大団円」に5分割されている。
肇輯5冊の刊行は文化11年(1814年)。曲亭馬琴はすでに『椿説弓張月』(文化3年/1806年 - )、『俊寛僧都島物語』(文化5年/1808年)などを上梓しており、読本作家としての名声を築いていた。
28年間に版元は3回変わった。第5輯までの25冊を山青堂(山崎平八)が出版し、山青堂から版木を譲られた涌泉堂(美濃屋甚三郎)が第6輯を刊行した。しかし涌泉堂は資金繰りに困り、第7輯刊行には文渓堂(丁字屋平兵衛)の助力を得ている。その後、経営に行き詰った涌泉堂が『八犬伝』の版木を上方の版元に売り渡す事態を起こしているが、文渓堂がこれらの版木を買い戻している。第8輯以降、文渓堂が『八犬伝』の刊行を続けて完成に至るとともに、肇輯から第7輯に関しても刷り出している。
執筆中、馬琴は天保4年(1833年)頃から右目の視力が衰え、やがて視力を失った。天保9年(1838年)には左目の視力も衰えはじめ、天保11年(1840年)11月には執筆が不可能になった。このため息子の嫁の路(土岐村路)に口述筆記させて執筆を続けた。馬琴が手探りで記し、路が書き継いだ原稿(第九輯巻四十六=第177回)が早稲田大学に現存している。なお、漢字をまったく知らない路に偏や旁を教えながら口述筆記した、とされることもあるが、これは馬琴が「回外剰筆」で多分に誇張した(執筆状況そのものを物語化した)苦心談が独り歩きしたものである[7]。早稲田大学蔵の自筆原稿では、路が確かな筆運びの整然とした文字で書き継いでいる[7]。
天保12年8月20日(1841年10月4日)、馬琴は本編(第百八十勝回下編大団円)を完成させた[8]。
輯・帙 | 冊数 | 回 | 版元 | 画工 | 筆工 (浄書) |
挿絵彫刻 (剞劂) |
出版年 |
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肇輯 | 5冊(巻之1~巻之5) | 第1回~第10回 | 山青堂 | 柳川重信 | 千形仲道 | 朝倉伊八郎 | 文化11年(1814年) |
第2輯 | 5冊(巻之1~巻之5) | 第11回~第20回 | 山青堂 | 柳川重信 | 千形仲道 | 朝倉伊八郎 | 文化13年(1816年) |
第3輯 | 5冊(巻之1~巻之5) | 第21回~第30回 | 山青堂 | 柳川重信 | 千形仲道 | 中村喜作 | 文政2年(1819年) |
第4輯 | 5冊(巻之1~巻之5) | 第31回~第40回 | 山青堂 | 柳川重信 | 千形仲道 | 中村喜作 | 文政3年(1820年) |
第5輯 | 5冊(巻之1~巻之5) | 第41回~第50回 | 山青堂 | 柳川重信 渓斎英泉 |
田中正造 | 中村喜作 神田庵驥徳 |
文政6年(1823年) |
第6輯 | 6冊(巻之1~巻之5下) | 第51回~第61回 | 涌泉堂 | 柳川重信 渓斎英泉 |
谷金川 田中正造 |
中村喜作 | 文政10年(1827年) |
第7輯 | 7冊(巻之1~巻之7) | 第62回~第73回 | 涌泉堂 | 渓斎英泉 柳川重信 |
筑波仙橘 谷金川 |
天保元年(1830年) | |
第8輯 上帙 |
5冊(巻之1~巻之4下套) | 第74回~第82回 | 文渓堂 | 柳川重信 | 谷金川 | 朝倉伊八 横田守 桜木藤吉 原喜知 |
天保3年(1832年) |
第8輯 下帙 |
5冊(巻之5~巻之8下套) | 第83回~第91回 | 文渓堂 | 柳川重信 | 谷金川 墨田仙橘 |
朝倉伊八 横田守 桜木藤吉 原喜知 田中三八 |
天保4年(1833年) |
第9輯 上套 |
6冊(巻之1~巻之6) | 第92回~第103回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) | 谷金川 | 朝倉伊八 横田守 桜木藤吉 |
天保6年(1835年) |
第9輯 中套 |
7冊(巻之7~巻之12下) | 第104回~第115回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) | 谷金川 千方道友 |
横田守 桜木藤吉 高木翦樫 |
天保7年(1836年) |
第9輯 下套上 |
5冊(巻之13之14~巻之18) | 第116回~第125回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) | 谷金川 | 横田守 桜木藤吉 鳥山某 |
天保8年(1837年) |
第9輯 下套中 |
5冊(巻之19~巻之23) | 第126回~第135回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) | 谷金川 | 横田守 桜木藤吉 森田某 |
天保9年(1838年) |
第9輯 下帙之下 甲号 |
5冊(巻之24~巻之28) | 第136回~第145回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) 渓斎英泉 |
谷金川 白馬台音成 |
鏤廉吉 森田甲 横田守 常盤園 |
天保10年(1839年) |
第9輯 下帙之下 乙号上套 |
5冊(巻之29~巻之32) | 第146回~第153回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) 歌川貞秀 |
谷金川 | 沢金次郎 朝倉伊八 常盤園 鏤近吉 |
天保11年(1840年) |
第9輯 下帙之下 乙号中套 |
5冊(巻之33~巻之35下) | 第154回~第161回 | 文渓堂 | 歌川貞秀 | 谷金川 | 沢金次郎 常盤園 |
天保11年(1840年) |
第9輯 下帙 下編之上 |
5冊(巻之36~巻之40) | 第162回~第166回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) 渓斎英泉 |
谷金川 | 沢金次郎 常盤園 高谷熊五郎 |
天保12年(1841年) |
第9輯 下帙 下編之中 |
5冊(巻之41~巻之45) | 第167回~第176回 | 文渓堂 | 柳川重信(二世) | 谷金川 | 高谷熊五郎 沢金次郎 |
天保12年(1841年) |
第9輯 下帙 下編之下 |
10冊(巻之46~巻之53下) | 第177回 ~第180勝回下編大団円 回外剰筆 |
文渓堂 | 柳川重信(二世) 渓斎英泉 |
谷金川 亀井金水 対二楼音成 |
高谷熊五郎 沢金次郎 米蔵幸太郎 |
天保13年(1842年) |
『八犬伝』の板木は、3千数百枚に及ぶ[9]。板木は明治維新後に和泉屋吉兵衛・兎屋などの手を経て博文館の所有となった。板木を用いた出版は明治30年まで行われた[10]。
江戸時代には今日的な意味での著作権は作者になく[11]、出版権(板株)は版元の間で取引され、版元は自らが蔵板する本を自由に再摺し、板木の仕立て直しを行ったり、改題を行うこともできた[11][10]。馬琴は刊行にあたって挿絵や意匠にさまざまな指示を出しているが[12]、これらの指示が反映されたとみなされる初版初摺本が、研究上重視されている[11][12]。後摺本にも馬琴が関与したものと、馬琴の関知しないものがある[12]。『南総里見八犬伝』という作品の流通・普及の上では、後摺本の果たした役割も大きい[10]。
馬琴の手許にあった『南総里見八犬伝』(手沢本)は国立国会図書館に収蔵されており、馬琴による書き入れも見られる[13]。明治大学所蔵の板本は初摺本がそろったものとして評価が高い[11]。
長大な物語の内容は、南総里見家の勃興と伏姫・八房の因縁を説く発端部(伏姫物語)、関八州各地に生まれた八犬士たちの流転と集結の物語(犬士列伝)、里見家に仕えた八犬士が関東管領・滸我公方連合軍(史実世界の古河公方連合軍)との戦争(関東大戦、対管領戦)を戦い大団円へ向かう部分に大きく分けられる。抄訳本では親兵衛の京都物語や管領戦以降が省略されることが多い。
嘉吉元年(1441年)、結城合戦で敗れ安房に落ち延びた里見義実は、滝田城主神余光弘を謀殺した逆臣山下定包を、神余旧臣・
時はくだり長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。落城を目前にした義実は飼犬の八房に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫を与える」と戯れを言う。はたして八房は景連の首を持参して戻って来た。八房は他の褒美に目もくれず、義実にあくまでも約束の履行を求め、伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き、八房を伴って
富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔(八郎の子)・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がいないことを証した。その傷口から流れ出た白気(白く輝く不思議な光)は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。義実は後を追い自害しようとした大輔を止め、大輔は僧体となって、「犬」という字を崩し
物語は再び嘉吉元年(1441年)にさかのぼる。結城合戦に敗れた大塚番作は、鎌倉公方の近習であった父から公方家の宝刀・村雨丸を託されて落ち延び、長い旅の末に故郷の武蔵大塚村に戻った。しかし大塚家の家督と村長の職は、姉の亀篠と蟇六の夫婦に奪われており、番作は姓を犬塚と改めて隠棲した。長禄4年(1460年)、番作と妻の
蟇六夫婦は、番作の隠し持つ村雨を奪おうと画策し、信乃の飼い犬・与四郎が管領家からの御教書を破損したと言いがかりをつける。番作は自害することで信乃を救うとともに、再興された公方家(足利成氏)に将来村雨丸を献上することを託す。蟇六夫婦は村人の手前信乃を引き取ることとし、養女浜路の将来の婿とすることにした。蟇六夫婦は下男・額蔵(犬川荘助)を信乃の監視にあてる。しかし、ふとしたきっかけから信乃と荘助は互いが同じ珠と痣を持っている事を知り、義兄弟の契りを結ぶ。二人は表向きは不仲を装いながらともに文武の研鑽に励む。村人の糠助が死に際して珠と痣を持つ息子(犬飼現八のことだがその時点で信乃と荘助は現八という名前を知らない。)がいたことを語ったこと、梅の木に八房の梅の実が生り、仁義八行の文字が浮かび上がったことから、同じ縁に連なる義兄弟の存在を予感する。
文明10年(1478年)、信乃18歳の夏6月、蟇六夫婦は信乃に勧めて古河公方成氏の許に旅立たせる。信乃を亡き者として浜路を陣代の側妾に差し出そうとするたくらみであり、村雨丸は蟇六夫婦の指示で浪人
信乃は滸我で成氏に謁見したが、村雨丸が贋物であった事から管領方の間者と疑われ襲われる。防戦しながら芳流閣の屋根に追い詰められた信乃を捕らえるべく、投獄されていた捕物の名人犬飼現八が登場するが、二人は組み合ううちに利根川に転落した。下総行徳へと流れついた二人を助けたのは、旅籠・古那屋の主人古那屋文五兵衛と、その子の犬田小文吾であった。しかし古那屋に匿われてまもなく、信乃は破傷風により瀕死の床に就く。また、信乃にかけられた追手によって文五兵衛も拘引されてしまう。
小文吾の妹・
房八の首で文五兵衛を釈放させつつ、密かに房八・沼藺夫婦を埋葬して惨劇の始末をつけた信乃・小文吾・現八は、荘助を迎えるため大塚へ向かう。一方、丶大・文五兵衛・妙真(房八の母)らは親兵衛を伴って安房に向かうが、途中で丶大一行は暴漢に襲われ、親兵衛は神隠しに遭う。
これよりさき、大塚では蟇六夫妻が浜路と陣代の婚礼を開こうとしたが、浜路が失踪した(網乾によって拉致されていた)ために、激怒した陣代らに殺された。その場に帰り着いた荘助は陣代らによって襲われるが、これを返り討ちにする。しかし、荘助は領主によって捕えられ、主人殺しの罪が着せられて死罪とされた。行徳から神宮河原までやって来た三犬士は船頭の姨雪世四郎(実は犬山道節の郎党)からこのことを聞き、情報を集めて荘助を救うことを計画。まさに荘助の処刑が行われようとする刑場を破り、荘助を救出する。追手をかけられた四犬士の危地を救ったのは、世四郎とその子力二・尺八であった。四犬士は、世四郎の言葉に従い、世四郎とゆかりのある音音が暮らす上野国荒芽山に向かった。
四犬士は途中、犬山道節が管領扇谷定正に仇討ちを仕掛けた騒ぎに巻き込まれながら、音音(実は道節の乳母、力二・尺八の母)が嫁たち(曳手・単節)と暮らす荒芽山の家にたどり着く。道節・世四郎もそれぞれここに合流する。珠の因縁を知った道節は村雨丸を信乃に返し、邪法である火遁の術を捨てて犬士の群れに加わる。しかしそこへ巨田助友率いる管領家の軍勢が襲撃し、犬士たちは離散を余儀なくされる。文明10年(1478年)7月7日のことであった。
荒芽山から武蔵国に逃れた小文吾は、宿を貸した旅人を襲っていた盗賊の並四郎を返り討ちにする。並四郎の妻・船虫は小文吾に謝礼として尺八(実は領主である千葉家の重宝であった名笛・嵐山)を渡したが、これは罠であった。船虫は石浜城主・千葉家の眼代に小文吾を盗人として突き出すが、尺八をいぶかしんだ小文吾がひそかに返していたために罠は不発に終わる。小文吾は千葉家の家老・馬加大記に引き合わされるが、実は大記こそがかつて船虫夫婦に嵐山を盗ませた黒幕であった。大記は小文吾の才覚を見抜き、自らの主家への謀反に加担するよう持ちかけるが断られる。小文吾は警戒した大記によって城内に軟禁される。抑留はそのまま1年近く続いたが、その間に小文吾は老僕の口から、かつて大記が千葉家の重臣粟飯原胤度を排除して権力を掌握するために行った策謀の話を聞く。寛正6年(1465年)、大記は同僚の籠山逸東太に胤度を殺させ、逸東太も千葉家にいられないよう仕向けた上、粟飯原一族を子女に至るまで皆殺しにしたのであった。
石浜城下に女田楽師が連れ立って訪れたが、そのうちの一人である美貌の
荒芽山の離散後、諸国を巡った現八は、文明12年(1480年)9月に下野国
偽赤岩一角(実は妖猫)は、後妻に納まっていた船虫とともに大角を訪れ、雛衣を復縁させた。これは偽一角が目の治療のために孕み子の肝とその母の心臓とを要求するためのものであった。大角は孝心に迫られて窮したが、夫を救い自らの潔白を明かすために雛衣は割腹する。その腹中からは珠が飛び出して偽一角を撃った。以前雛衣が病となった際、大角は珠をひたした水を飲ませたのだが、雛衣は珠を誤飲してまい、その後懐妊と見られる様子が現れたのであった。大角は現八とともに正体を現した妖猫を退治した。大角は妻の喪に服し、家財を処分して、文明13年(1481年)2月に現八とともに犬士として故郷から旅立つ。
荒芽山の離散後、諸国を巡った信乃は、文明13年(1481年)10月に甲斐国を訪れた。信乃はここで武田家家臣の泡雪奈四郎に鉄砲で誤射されてトラブルとなり、仲裁に入った猿石村村長・
夏引は泡雪奈四郎と不倫の仲にあり、浜路を疎ましく思っていた。木工作は奈四郎の許を訪ねて口論となり、逆上した奈四郎は木工作を撃ち殺す。夏引と奈四郎はその罪を信乃にかぶせようと
実は、眼代は犬山道節が変装していたものであった。指月院は故あって丶大が住持を務めることになり、そこにたまたま荘助・道節らが立ち寄ったことから犬士の捜索拠点になっていた(この時は道節が近辺の、荘助が遠方の探索に当たっていた)。夏引と奈四郎の謀議は小坊主に立ち聞きされ、信乃や浜路のことも知られたのであった。道節の後にやって来た本物の眼代も偽装工作の不審に気づいて夏引らは拘引され、奈四郎は逃亡したが悪行の報いを受けることになる。
指月院で丶大はまた、浜路は実は里見家の姫(義実から家督を譲られた里見義成の五女)で、幼少時に大鷲に攫われた浜路姫であったということを伝える。道節・信乃は安房へ向かう浜路姫を隅田川まで送って別れ、残る犬士を探す旅に出る。
文明14年(1482年)3月、越後国小千谷を訪れた小文吾は、石亀屋次団太の好意によって逗留する。この地の山賊・
荘助と小文吾は再会するが、二人はこの地を治める長尾景春の母・
文明14年(1482年)9月、現八と大角、信乃と道節の四犬士は、武蔵国穂北荘で邂逅する。氷垣残三が率いる穂北荘は、結城合戦の残党や豊島家の遺臣など、管領家を快く思わない郷士たちの自治の里であった。当初は盗賊と間違えられるという出会い方をした犬士たちと穂北荘であるが、残三の娘である聡明な重戸の判断や伏姫神の加護もあって誤解は解け、犬士たちはこの地を新たな拠点とすることになる。現八と大角はいったん指月院に行き、荘助・小文吾と合流することになった。
そのころ毛野は物四郎と名乗り湯島天神で放下師となっていた。文明15年(1483年)1月20日、扇谷定正夫人
1月21日、
指月院を後任の住持に引き渡した丶大は、下総結城で結城合戦戦死者の大法要を行うこととした。七犬士たちは結城に向かう。
里見家に従属していた上総館山城主蟇田素藤は、盗賊の倅から幸運に恵まれて一城の主に成り上がった人物である。八百比丘尼妙椿の幻術によって、浜路姫の姿を見た素藤は、浜路姫に恋慕して婚姻を願うも、義成に断られる。妙椿の助力を得た素藤は、文明15年(1483年)1月、里見家の嫡男・義通を人質にとり、里見家に反旗を翻した。里見の軍勢は人質と妖術に悩まされ、館山城を攻めあぐねた。2月、富山を訪れた老侯里見義実は刺客に襲われたが、このとき犬江親兵衛と名乗る大童子が現れて危難を救う。親兵衛の「神隠し」は伏姫神によるもので(このことは「神隠し」時の挿絵で読者には示唆されている)、犬江親兵衛は伏姫神の庇護下に置かれ、実年齢以上の成長を遂げていたのであった。また、荒芽山で行方不明となった音音・世四郎夫婦らも富山に導かれていた。親兵衛は速やかに素藤の乱を鎮定する。
ひとたびは助命され追放された素藤であったが、妙椿とともに再乱の機をうかがう。3月に妙椿は幻術によって、親兵衛が浜路姫と密通しているという疑いを義成に持たせることに成功した。義成は親兵衛を結城に向かわせ、また珠からも引き離してしまう(ただし、親兵衛の珠は自ら親兵衛の許に戻る)。親兵衛がいない里見家の領国では、素藤と妙椿が上総館山城を奪取した。
親兵衛は不忍池のほとりで、扇谷家の奸臣たちの讒言に遭った河鯉孝嗣が処刑されようとするところに遭遇する。孝嗣の危難を救ったのは、河鯉家に恩義を持つ政木狐であった。孝嗣は名を政木大全と改めて里見家に仕えることとする。義成は幻術により親兵衛を疑ったことを覚る。誤解が解かれた親兵衛は上総館山に赴き、4月13日に素藤を討った。退治された妙椿が現した本体は、玉梓の怨念の宿った狸であった。
一方結城では、悪僧徳用と一部の結城家重臣が法要の妨害を図った。七犬士は協力して襲撃者と戦い、素藤の再乱を鎮定して駆けつけた親兵衛も合流し、ここに八犬士は集結する。文明15年(1483年)4月16日のことであった。結城家が介入して事態は収拾される。犬士たちはともに安房に赴き、里見家に仕えることとなった。
八犬士の結集を見た里見義実であったが、丶大が出家したことで金碗氏が絶えることを惜しみ、八犬士の姓(氏・本姓参照[注釈 4])を金碗に改めることを提案、改姓許可を得るため朝廷に使節を派遣することとする。使者に選ばれたのが犬江親兵衛で、文明15年(1483年)7月に京都に向け出発し、8月に入京して朝廷から許可を得た。しかし、美貌の親兵衛は管領細河政元に気に入られて抑留されてしまう。親兵衛は「京の五虎」と称される武芸の達人たちや、結城を追われ京都に戻っていた悪僧徳用(父は細河家の執事)との試合を行い、大いに武勇を示した。10月、巨勢金岡の描いた画の虎が抜け出て京都を騒がす事件が発生する。11月、虎を退治した親兵衛は、褒賞として帰国を認めることを細河政元に認めさせ、安房への帰国の途に就く。
文明15年(1483年)冬、犬士たちを恨む扇谷定正は、山内顕定・足利成氏らと語らい、里見討伐の連合軍を起こした。里見家は犬士たちを行徳口・国府台・洲崎沖の三方面の防禦使として派遣し、水陸で合戦が行われた。京都から帰還した親兵衛や、行方不明になっていた政木大全も参陣し、里見軍は各地で大勝利を収め、諸将を捕虜とした。
文明16年(1484年)4月、朝廷から停戦の勅使が訪れて和議が結ばれ、里見家は占領した諸城を返還した。信乃は、捕虜となっていた成氏に村雨丸を献上し、父子三代の宿願を遂げた。
八犬士は里見義成の八人の姫と結婚し、城を与えられ重臣となる。時は流れ、犬士たちの痣や珠の文字は消え、奇瑞も失われた。丶大は安房の四周に配する仏像の眼として犬士たちに数珠玉を返上させる。
里見家第三代当主の義通が没すると、高齢になった犬士たちは子供に家督を譲り富山に籠った。彼らは仙人となったことが示唆される。里見家もやがて道を失って戦乱に明け暮れ、十代で滅ぶことになる。
原典には、馬琴による小説仕立ての「あとがき」が置かれている。里見家の事跡を尋ねる廻国の頭陀(僧侶)との会話という形式で、馬琴が用いた参考史料の開示、里見氏の史実(当時の軍記物にもとづく)や安房の地理の解説がなされている。このほか、著者の失明の事実が読者に明かされ、筆記者お路との労苦が語られるとともに、お路への慰労の言葉が書かれている。
安房国は里見氏の領国で、平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の4郡で構成される。『八犬伝』では発端部の舞台であり、物語の後半でも犬江親兵衛の再登場、八犬士の結集と里見家への仕官によって舞台となる。『八犬伝』の発端部は、軍記物に記された「里見義実の安房入国伝説」(後述)を土台に作られている。
八犬伝の物語の多くは武蔵国、とくに江戸の近郊で展開する。本作に江戸城は登場しないが、これは江戸幕府に対する遠慮とされる。
甲斐国は武田氏(武田信昌)の領国である。作中、犬塚信乃と後の浜路(浜路姫)をめぐる物語が展開する。
馬琴は自身が甲斐を訪れた記録は無いものの兄の興旨が甲府勤番として赴任しており、他作品や随筆などでもしばしば甲斐に関する事情が記される事があり、随筆の中で興旨書簡からヒントを得ている事が記されていることから、興旨を通じて甲斐国に関する知識を得ていたと考えられている。
「里見八犬士」は、もともと享保2年(1717年)に刊行された槇島昭武編『和漢音釈書言字考節用集』(「増補合類大節用集」とも。馬琴は肇輯に付した「八犬士伝序」[22]に「槇氏字考」として言及している)に、「尼子十勇士」などとともに掲載された武士の名前のリストである。『和漢音釈書言字考節用集』では「犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江新兵衛・犬村大学」の名が列挙されている。
かれらの活動時期や事跡はもとより、実在したかどうかも明らかではない。馬琴は、実在したかもしれない8人の武士の物語ではなく、彼らの名を借りた伝奇小説(稗史)をつくると言明している。
馬琴が言明するものではないが、八犬士やその他の作中登場人物について、歴史上の人物と重ね、「モデル」と主張する説がある。
史実の里見家最後の当主であった館山藩主里見忠義は、江戸幕府によって伯耆国に転封され(倉吉藩参照)、1622年にその地で没した。このとき忠義に殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称される[注釈 13]。彼らの墓は鳥取県倉吉市の大岳院にあり、また倉吉から分骨した墓が館山城の麓に建てられている。
この「八賢士」を八犬士のモデルに求める説もある。例えば川名登は「この殉死した八人の話で、ふと『南総里見八犬伝』を思い出す。馬琴はどこかでこの八殉死者の話を聞いたのではなかろうか。殉死者の気持は、『八犬伝』の中の八犬士のような働きをして再び里見家を再興したかったにちがいない。」と述べている[23]。
もっとも、この言説が広まったのは『八犬伝』が一世を風靡してからとも指摘される[24]。
里見義堯の娘で正木信茂に嫁いだ種姫は、夫を第二次国府台合戦(1564年)で失うと、若くして出家して養老渓谷近くの宝林寺(現在の市原市朝生原)に隠棲し[注釈 14]、そこで生涯を過ごした[25][26]。この種姫を伏姫のモデルと唱える説がある[26]。
『八犬伝』には博覧強記をうたわれた馬琴の漢学教養や中国白話小説への造詣が、ときに「衒学的」と評されるほど引用されたり、物語構成に組み込まれたりしている。その作中で折に触れて引用される漢籍が、フィクションである「稗史」の世界に奥行きを持たせている[要出典]。たとえば第一回において、白竜の昇天を見た里見義実が古今の典籍を引用して竜を解説するくだり[注釈 15]はよく知られている。
『八犬伝』にもっとも大きな影響を与えた白話小説は『水滸伝』である。たとえば「犬士列伝」の筋立てに『水滸伝』の構想が散見される[27][28][29][30]。馬琴は『高尾船字文』『傾城水滸伝』などの翻案作品を執筆しただけでなく[31][32]、原典の翻訳『新編水滸画伝』の刊行に関わったほか[33][34][35]、金聖歎による七十回本(水滸伝の成立史参照)を批判して百二十回本を正統とする批評を行うなど、『水滸伝』の精読者であった。
『水滸伝』以外では『三国志演義』が多く参照されている[36]。とくに関東大戦の描写において顕著であり、たとえば洲崎沖海戦は赤壁の戦いを焼き直したものである。また、『封神演義』からの影響を指摘する説もある[要出典]。
馬琴は「回外剰筆」において、南総里見家について記した「史書」として『里見記』『里見九代記』『房総治乱記』『里見軍記』を挙げ、また『北条五代記』『甲陽軍鑑』『本朝三国志』などの「俗書」にも里見家への言及があることを述べている。また、とくに近年の著として中村国香『房総志料』の名を挙げている。
馬琴が「史書」として取り上げた書籍は、今日では創作を交えた軍記物とみなされている。八犬伝は「里見義実の安房入国伝説」を発端部のモチーフとし、後日談として里見義豊と里見実堯・義堯親子との確執(犬懸の戦い)に触れているが、これらの記述はこうした軍記物に依拠している。今日の歴史学では、同時代史料の検討などを通して、初期里見氏の歴史は従来信じられてきた姿と大きく異なることが指摘されている[要出典]。
越後小千谷の描写には、当時親交のあった鈴木牧之『北越雪譜』の原稿が参照されており、同地で行われる牛の角突きが作中に取り込まれている。
馬琴は、みずからの創作技法として「稗史七則」をまとめ、『八犬伝』第九輯巻之七に付言として記している。このうち「隠微」は、物語には文外に「深意」があるとするものである。「百年の後知音を俟て是を悟らしめんとす」という馬琴の言葉には、多くの読者や研究者が魅了されてきた。
『八犬伝』の物語構造や人物配置には仏教説話や日本神話、あるいは民間信仰などのモチーフが複合的に投影されていると解釈する研究者もいる。「隠された出典」と解釈されたものに以下のようなものがあげられる。
徳田武らによって『八犬伝』に執筆当時の社会情勢への馬琴の批評を見出す解釈も存在する[要出典]。親兵衛の造形には打ちこわしの際に現れたという大童子の姿が重ねられており、また親兵衛の京都物語に登場する足利義政批判に大御所徳川家斉批判が、虎退治の物語には大塩平八郎の乱(1837年)の隠喩があるともされる[要出典]。また、小谷野敦は里見の領国を日本のミニチュアととらえ、領民を組織して行われた里見家の軍事訓練の描写などに江戸時代後期の海防論との関係を見出している。
『八犬伝』は江戸時代の戯作文芸の代表作の一つであり、大衆文化への影響力も大きなものであったが、江戸読本への文学的評価の低さもあいまって、長らく文学研究の主要な対象とはされてこなかった。
1980年に『八犬伝の世界』を上梓した高田衛は、副題に「伝奇ロマンの復権」を掲げ、「典拠」に関する大胆な解釈を打ち出した。これに対しては実証性を問う徳田武との間で論争が行われた。近年は、文学分野での学術研究も進められ、江戸思想史研究の資料として利用されるようにもなっている。八犬伝の研究者には以下のような人物がいる。
日本国外では、1983年の映画『里見八犬伝』やアニメ『THE八犬伝』といった派生作品を通じて八犬伝の名が知られている。
英語への翻訳は、ドナルド・キーンによる「浜路クドキ」の部分英訳[37]や、Chris Drake による部分訳[38]などが知られている。現時点では、完訳・刊行は行われていないが、日本文学研究者による翻訳の試みが進行中であり、随時ブログ上で一般公開されている[39]。
中国語へは、李樹果訳により1992年に南開大学出版社より全4巻で発行されている[40]。
人気作品であった『八犬伝』は、刊行中からすでに歌舞伎の演目になり、抄録や翻案作品、亜流作品を生み出した[41]。現在でも、日本で生まれたファンタジーの古典として多くの作品に参照されており、登場人物の名やモチーフの借用はしばしば行われている。本作は現在に至るまで大衆文学・ドラマ・漫画・アニメ・ゲームなど各ジャンルの創作に影響を与え、多くの翻案が生み出された[3]。「前世の因縁に結ばれた義兄弟」「共通する聖痕・霊玉・名前の文字」「抜けば水気を放つ名刀・村雨」などのモチーフを借りた作品は枚挙にいとまがない。また、現代と価値観の異なる時代に書かれた古典で、しかも長大であることもあり、『八犬伝』の名を冠していても原作から自由に新たな世界を創作している翻案作品が多い。原作を志向した作品であってもさまざまなレベルの再解釈が行われ、現代の作品として蘇生されている。また、『八犬伝』執筆時の馬琴のエピソードも、芥川龍之介『戯作三昧』などの創作の題材となっている。
南総里見八犬伝執筆時の馬琴を描いた小説作品として、以下のようなものがある。