博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、博多の総鎮守として知られる櫛田神社(福岡市博多区)に山笠と呼ばれる作り山を奉納する神事(祇園祭礼)[1][2]。国の重要無形民俗文化財に指定されている[1][3]。
祭礼期間は歴史的変遷を経て毎年7月1日から15日となっている[3]。最終日の未明には関係者が参列して櫛田神社祇園例大祭が執り行われる[4][5]。そして近隣の町で構成される「流(ながれ)」ごとに山笠を奉納した後(櫛田入り)、山笠を所定の順路を競って巡行する「追い山」が行われる[2]。各地に伝わる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭の一つで、博多どんたくとともに博多を代表する祭りである。
福岡市博多区の博多部(那珂川と御笠川(石堂川)間の区域)で行われる。「博多祇園山笠行事」として国指定民俗文化財(重要無形民俗文化財)に指定されている(所有者は博多祇園山笠振興会)[1][3]。櫛田神社の氏子が行う奉納行事で、地域住民が伝統的に催す町内行事である。
参加者や福岡市民などからは「山笠」「ヤマカサ」とも略称される。祭礼そのものを指す「山笠」と区別するため、神輿に相当する山笠を「山」「ヤマ」と称することがある。山笠を担いで市内を回ることを山笠を「舁く」(かく)、担ぐ人を「舁き手」(かきて)と称する。
「博多祇園山笠」(登録商標第5006232号ほか)や「博多山笠」(登録商標第5006233号ほか)に関する商標権は博多祇園山笠振興会などの団体が所有している[6]。
豊臣秀吉による太閤町割の後、江戸時代の前期には「流」(ながれ)と呼ばれる複数の町で構成する町組織が形成され、当番町を決め、その責任によって山笠行事一切の運営を取り仕切るとともに、流各町には年寄、中年、若手という年齢組織が組み込まれ、町組織と祭礼組織が一体化して運営されてきた[3][2]。特に最終日には山笠を建てた流ごとに櫛田神社に山笠番付(一巡するまで毎年順位が繰り上がる輪番制)の順に山笠を奉納し(櫛田入り)、その後、所定の順路を競って舁き運ぶ「追い山」が行われる[2]。この追い山の予行演習として3日前の午後に「追い山馴らし」が行われる[2]。戦後の一時期、山笠を建てた流は14流に増えたが現在の「流」は恵比須流・大黒流・土居流・東流・西流・中洲流・千代流の7流である(福神流は山笠を建てない)。東流のみ、当番町を持たず流全体で運営する。当事者として祭りに参加できるのは、原則として地域住民および地域出身者のみである。
山笠を巡行する際の掛け声「おっしょい」は1996年(平成8年)に日本の音風景100選に選ばれた。2016年(平成28年)12月1日、博多祇園山笠を含めた日本全国33件の祭が、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された[7]。さらに略して「オイサ」ともいう[8]。
博多祇園山笠は女人禁制の祭りで、旧来の流は子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。しきたりとして、女性は舁き手の詰め所に入れず、かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と立て札した。「不浄の者」は喪中の者と女性を指しているが、女性差別として2003年(平成15年)に立て札の設置は中止された。代わりに「関係者以外立入るべからず」や「関係者以外立入禁止」の立て札が設置される。
博多祇園山笠の起源については、円爾山笠発起説や永享四年祇園山笠成立説など諸説ある[2]。
なお、室町時代から安土桃山時代にかけての祭礼の様相は資料が僅少で分かっていない点も多い[2]。
秀吉による太閤町割の後、江戸時代前期には「流(ながれ)」と呼ばれる近隣の町で構成する町組が形成され、昭和前期まで九つの町組のうち七つの町組が正式参加し、六つの流が「山笠」と呼ばれる作り山を製作して博多の街で山舁きを行った[2]。
さらに1725年(享保10年)頃までには速さを競う「追い山」が形成された[2]。一説には江戸時代1687年(貞享4年)に[9]土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起きた。このとき2つの流が抜きつ抜かれつを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回り所要時間を競い合う「追い山」が始まったという。
明治時代になっても江戸時代と同じく祭礼期間は原則として旧暦の6月1日から15日だった[2]。1911年(明治44年)の決議で祭礼期間を新暦の7月1日から15日までとすることになった[2]。なお追い山馴らしが始まったのは1883年(明治16年)である[2]。
1945年(昭和20年)は福岡大空襲の影響で中止となった[11]。
戦後に入り1955年(昭和30年)に「博多祇園山笠振興会」が発足し、当時から「博多部外」の新天町なども飾山笠行事が行われ、1962年(昭和37年)から「博多部外」の福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。1970年(昭和45年)から小学生が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まった。
2020年(令和2年)は、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、次年夏まで延期して戦後初の開催見送りとなった[12]。2021年(令和3年)は、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、舁き山の行事(追い山など)は前年と同様、次年夏まで延期して開催を見送る[13]が、飾り山の展示は中洲流・千代流を除き7月1日から14日まで実施された[14]。
2022年(令和4年)博多祇園山笠振興会の総会で、3年ぶりとなる舁き山の開催を決定した[15]。
一般の祭りの神輿や山車に相当する、御霊を宿らせる「御神入れ」するものを「山笠」や「ヤマ」と称する。山笠発祥とされる鎌倉時代の山笠の姿は明確でない。
山笠の規模は幕末から明治初期に最盛期となり、高さは五丈二、三尺(16メートル弱)に達した[2]。一方、博多の街路には1883年(明治16年)には電信線が架設され、1890年(明治23年)まで低い山笠が製作されたが「団飯山(にぎりめしやま)」と揶揄されたという[2]。1891年(明治24年)、山笠の高さを回復するため募金と陳情が行われ、逓信大臣の許可を得て電信柱21本を全長五丈のものとし、地上から高さ四条三、四尺になるよう取り替えられた[2]。しかし、1896年(明治29年)の博多電灯設立後、1897年(明治30年)に街には電灯線及び電話線が架設されたため、この年は櫛田神社境内に観賞用の山笠一本を建て山舁きは行われなかった[2]。さらに1898年(明治31年)に福岡県知事が山笠行事の中止を提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれ、従来の高い岩山笠は飾り置く「飾り山」とし、運行は3メートル程の「舁き山」を用いることとした[9]。
これより前の江戸時代には路上に留め置いた状態の山笠を「据山(すえやま)」、舁き廻して運行されている状態の山笠を「舁山(かきやま)」と呼んでいた[2]。しかし、明治30年代には観賞用の山笠を「据え山」のちに「飾り山」、山舁き用の山笠を「舁き山」と呼ぶようになった[2]。1910年(明治43年)には市内で路面電車が開通して軌道上空に架線が設備されると、架線より高い山笠の運行が不可能となり「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的となった。1979年(昭和54年)に市内の路面電車が全廃されると舁き山の高さは徐々に緩和され、現在は4.5メートルまでとなっている。
終戦までは、流ごとに飾り山の台座部分である山笠台に舁き山の飾りを載せ、飾り山と舁き山を同一の山笠と見なしたが、戦後は明確に分離され、多額の費用を要する飾り山は商店街や企業の協賛で建てることとなる。1964年(昭和39年)に川端通商店街(上川端通)は、山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、現在も櫛田入りを奉納している。ほかの舁き山よりもコースが短く設定され、櫛田入りなどの時間計測も参考記録としている。他の流の山笠が再び以前の形に戻す計画はない。
「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しない伸縮式である。飾り山は煙が出るが、最初は1991年(平成3年)末に公開された映画ゴジラvsキングギドラと協業で、八番山笠・上川端通のゴジラ人形から煙を吐き出した。
飾り山や山笠の人形の衣装の生地は長年、京都の西陣織を使用していたが、2002年(平成14年)より地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった。
山笠の所属する町内の組織的な団体を「流(ながれ)」といい、歴史的な変遷を経て、大黒流、東流、西流、土居流、恵比須流、千代流、中洲流の七流となっている[16][17]。
博多祇園山笠では町ごとに子供、若手、中年、年世路が分けられ、それぞれ体力にあった役割を分担する年齢階梯制が とられている[18]。
例えば大黒流であれば12の町で構成されており、各町には一般参加者(小学生以下の者と役員OBを含む)と町内役員がおり、若手(中学生以上)、赤手拭(実労部隊)、取締(町代表責任者)、町総代(町内会長)がいる[16]。また、年令階梯制による役割に応じて頭に巻く手拭い(てのごい)の色と意匠が分けられている[16][17]。
山笠の前方(舁き山笠の場合は進行方向)を表(おもて)といい、反対側の後方を見送り(みおくり)という[19]。
沿道のあちこちに水が用意されており、柄杓や桶を用いて、舁き山が通り過ぎる直前に舁き山や舁き手の前方から掛けられる。この水は“勢い水(きおいみず)”と呼ばれ、舁き山や舁き手を清める意味と共に、舁き手の冷却や乾燥による舁き山の崩壊を防ぐなどの役割がある。勢い水を掛けるのは主に、先走りの中の“水係”や沿道の住民である。
実際に山を舁くときに身に着ける法被が水法被である[21]。山笠に参加する舁き手たちは水法被に締め込み姿で貫かれ、足元は地下足袋と脚絆で、江戸時代までは締め込み一丁であった。1898年(明治31年)に裸体同然のスタイルを問題視して県議会で山笠を廃止する案が提出されたが、博多の反対派は玄洋社の進藤喜平太から紹介された古島一雄の助力で水法被を着用することで山笠廃止を撤回させ、以来現在まで水法被に締め込みのスタイルが続いている。
水法被のほか、舁き手は階級を表す手拭(てのごい)、役割を表す襷(ねじねじ)を装着、舁き縄を携帯(使わない時は締め込みに挟んでおく。昔は腰に巻いていた人もいたが現在は、ほぼいない。)、台上がりは指揮棒(てっぽう)を持つ。鍵、財布、携帯電話、等は必要に応じて信玄袋に入れておく。言わば当番法被=タキシード、水法被=ユニフォーム、てのごい=階級章、ねじねじ=腕章、てっぽう=指揮棒に該当する。これらの衣服、物品は流または町内毎に決められており、流または町内のロゴが入った当番法被、水法被、てのごいは厳重に管理しておりインターネットオークションなどで部外者へ譲渡は認めていない。
一般に向けて「博多」のロゴ、または木瓜紋が入った、水法被、ねじねじ、てっぽう(ロゴ以外は上記と全く同じ)が土産物として市販され、締め込み、舁き縄などは舁き手と同じものが市販されている。成人は市販品を着用して祭りに参加出来ない。
博多祗園山笠の法被には、実際に山を舁くときに身に着ける水法被と山笠期間中の正装とされる当番法被(長法被)の2種類がある[21]。
山笠の掛け声「おっしょい」は1996年(平成8年)に日本の音風景100選[注釈 1]に、青森の「ねぶた祭り」の掛け声とともに選ばれた。
お汐井取りのときに「おしおい、おしおい」と言いながら取りにいった掛け声が訛って「おっしょい」となったという説がある。
1〜7番山笠は櫛田神社、東長寺、承天寺、須崎町を通る。
追い山では午前1時過ぎから櫛田神社前の道路に山笠が次々に付けられる[16]。
そして午前4時59分の大太鼓の合図で一番山が櫛田神社の境内へ進み、清道を半周したところで舁き山を神社の能舞台に向けて止め、桟敷の観客とともに「祝い目出度(祝いめでた)」を合唱をし、一気に街へ出る[16]。以後、順次櫛田入りを行い7本の山笠が追い山コースを疾走する[16]。最後に飾り山1本が櫛田神社の清道入りのみを行う[16]。
7つの流れは7年に1度の割合で一番山笠を務めるが、流により当番町となる年が異なり、自分の地域が「一番山笠の当番町」に回ることは生涯一度の場合も多い。一番山笠を務めた翌年は七番山笠に回り、以後毎年番手を一つずつ上げる。順番は恵比寿流→土居流→大黒流→東流(旧東町流主体)→中洲流(1949年(昭和24年) - )→西流(旧西町流主体)→千代流(1950年(昭和25年) - )となる。
年 | 恵比須流 | 土居流 | 大黒流 | 東流 | 中洲流 | 西流 | 千代流 | 上川端通 | |||||||||||||||
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山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | |
2013年 (平成25年) |
1 | 37秒49 | 30分36秒 | 2 | 36秒94 | 27分40秒 | 3 | 37秒53 | 27分25秒 | 4 | 32秒46 | 25分57秒 | 5 | 36秒95 | 29分43秒 | 6 | 32秒61 | 27分30秒 | 7 | 34秒78 | 26分37秒 | 8 | 58秒27 |
2014年 (平成26年) |
7 | 36秒14 | 28分20秒 | 1 | 35秒18 | 25分57秒 | 2 | 35秒76 | 26分44秒 | 3 | 31秒84 | 24分58秒 | 4 | 38秒96 | 28分40秒 | 5 | 33秒29 | 26分59秒 | 6 | 40秒56 | 25分01秒 | 53秒51 | |
2015年 (平成27年) |
6 | 36秒83 | 28分11秒 | 7 | 38秒47 | 26分11秒 | 1 | 34秒68 | 25分54秒 | 2 | 31秒81 | 26分42秒 | 3 | 37秒30 | 28分46秒 | 4 | 30秒68 | 26分23秒 | 5 | 34秒31 | 25分43秒 | 58秒64 | |
2016年 (平成28年) |
5 | 36秒03 | 29分15秒 | 6 | 36秒16 | 27分01秒 | 7 | 36秒01 | 26分48秒 | 1 | 31秒98 | 26分15秒 | 2 | 39秒34 | 29分46秒 | 3 | 31秒14 | 26分28秒 | 4 | 33秒79 | 26分12秒 | 52秒94 | |
2017年 (平成29年) |
4 | 32秒65 | 28分42秒 | 5 | 37秒42 | 28分01秒 | 6 | 36秒03 | 27分23秒 | 7 | 31秒50 | 26分03秒 | 1 | 35秒19 | 31分45秒 | 2 | 32秒87 | 27分26秒 | 3 | 32秒53 | 25分26秒 | 54秒62 | |
2018年 (平成30年) |
3 | 33秒82 | 28分26秒 | 4 | 36秒10 | 27分31秒 | 5 | 36秒38 | 26分41秒 | 6 | 32秒15 | 26分07秒 | 7 | 36秒42 | 30分04秒 | 1 | 32秒63 | 27分03秒 | 2 | 33秒44 | 26分45秒 | 1分01秒71 | |
2019年 (令和元年) |
2 | 32秒36 | 28分59秒 | 3 | 35秒42 | 26分34秒 | 4 | 46秒38 | 27分36秒 | 5 | 32秒32 | 25分06秒 | 6 | 36秒04 | 30分02秒 | 7 | 29秒64 | 28分13秒 | 1 | 34秒05 | 25分26秒 | 1分04秒65 | |
2020年 (令和2年) |
新型コロナウイルス感染症の流行による影響で延期[23][13] | ||||||||||||||||||||||
2021年 (令和3年) | |||||||||||||||||||||||
2022年 (令和4年) |
1 | 35秒87 | 32分01秒 | 2 | 37秒25 | 30分25秒 | 3 | 40秒76 | 29分33秒 | 4 | 31秒31 | 27分15秒 | 5 | 40秒01 | 31分46秒 | 6 | 39秒96 | 29分02秒 | 7 | 34秒94 | 27分34秒 | 8 | 56秒38 |
2023年 (令和5年) |
7 | 32秒94 | 31分37秒 | 1 | 36秒12 | 28分38秒 | 2 | 35秒80 | 28分07秒 | 3 | 31秒30 | 27分36秒 | 4 | 37秒89 | 31分17秒 | 5 | 33秒53 | 30分12秒 | 6 | 32秒45 | 26分39秒 | 1分02秒18 | |
2024年 (令和6年) |
6 | 35秒32 | 31分21秒 | 7 | 35秒30 | 29分12秒 | 1 | 40秒00 | 28分19秒 | 2 | 31秒23 | 27分38秒 | 3 | 36秒18 | 31分02秒 | 4 | 35秒14 | 29分40秒 | 5 | 32秒55 | 27分07秒 | 1分14秒58 |
年 | 恵比須流 | 土居流 | 大黒流 | 東流 | 中洲流 | 西流 | 千代流 | 上川端通 | |||||||||||||||
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山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | 全コース | 山番 | 櫛田入り | |
2013年 (平成25年) |
1 | 32秒45 | 33分10秒 | 2 | 35秒41 | 30分37秒 | 3 | 36秒29 | 30分02秒 | 4 | 32秒06 | 28分49秒 | 5 | 37秒33 | 33分46秒 | 6 | 33秒18 | 30分40秒 | 7 | 35秒08 | 29分43秒 | 8 | 49秒78 |
2014年 (平成26年) |
7 | 34秒09 | 33分47秒 | 1 | 37秒73 | 31分17秒 | 2 | 35秒76 | 30分20秒 | 3 | 30秒95 | 28分25秒 | 4 | 35秒98 | 33分43秒 | 5 | 32秒76 | 30分51秒 | 6 | 33秒58 | 29分05秒 | 53秒38 | |
2015年 (平成27年) |
6 | 33秒48 | 32分49秒 | 7 | 35秒88 | 30分45秒 | 1 | 37秒11 | 30分05秒 | 2 | 31秒22 | 28分39秒 | 3 | 35秒15 | 34分19秒 | 4 | 30秒78 | 30分41秒 | 5 | 33秒85 | 29分23秒 | 48秒53 | |
2016年 (平成28年) |
5 | 41秒83 | 33分31秒 | 6 | 37秒74 | 30分44秒 | 7 | 34秒97 | 29分37秒 | 1 | 31秒54 | 29分17秒 | 2 | 35秒43 | 33分58秒 | 3 | 31秒05 | 30分44秒 | 4 | 33秒40 | 29分38秒 | 52秒55 | |
2017年 (平成29年) |
4 | 32秒32 | 32分58秒 | 5 | 34秒69 | 31分34秒 | 6 | 35秒47 | 29分45秒 | 7 | 30秒67 | 29分17秒 | 1 | 34秒75 | 34分38秒 | 2 | 31秒62 | 31分06秒 | 3 | 31秒05 | 28分53秒 | 52秒79 | |
2018年 (平成30年) |
3 | 33秒77 | 31分52秒 | 4 | 35秒72 | 30分43秒 | 5 | 34秒24 | 29分26秒 | 6 | 30秒69 | 29分17秒 | 7 | 37秒78 | 33分18秒 | 1 | 31秒01 | 31分14秒 | 2 | 31秒22 | 29分00秒 | 60秒24 | |
2019年 (令和元年) |
2 | 32秒29 | 33分24秒 | 3 | 34秒76 | 31分38秒 | 4 | 34秒59 | 30分43秒 | 5 | 32秒74 | 28分35秒 | 6 | 34秒31 | 34分38秒 | 7 | 30秒31 | 32分33秒 | 1 | 33秒00 | 29分28秒 | 56秒18 | |
2020年 (令和2年) |
新型コロナウイルス感染症の流行による影響で延期[23][13] | ||||||||||||||||||||||
2021年 (令和3年) | |||||||||||||||||||||||
2022年 (令和4年) |
1 | 34秒08 | 38分55秒 | 2 | 36秒59 | 36分38秒 | 3 | 35秒42 | 33分53秒 | 4 | 32秒28 | 34分01秒 | 5 | 36秒70 | 35分58秒 | 6 | 32秒60 | 34分44秒 | 7 | 32秒24 | 31分23秒 | 8 | 52秒55 |
2023年 (令和5年) |
7 | 33秒08 | 35分48秒 | 1 | 34秒35 | 33分01秒 | 2 | 35秒53 | 31分19秒 | 3 | 30秒29 | 30分11秒 | 4 | 37秒16 | 37分14秒 | 5 | 33秒40 | 33分51秒 | 6 | 32秒73 | 30分45秒 | 1分06秒64 | |
2024年 (令和6年) |
6 | 34秒07 | 37分30秒 | 7 | 35秒20 | 34分45秒 | 1 | 35秒62 | 32分52秒 | 2 | 31秒36 | 30分36秒 | 3 | 38秒36 | 36分11秒 | 4 | 37秒09 | 35分27秒 | 5 | 34秒47 | 32分57秒 | 1分07秒96 |
舁き山笠と飾り山笠には通し番号が付される。一番から七番は舁き山笠を持つ流に割り当て、飾り山笠を設置する流は飾り山笠にも同じ番号を割り当てる。八番は上川端通、九番以降は飾り山笠のみの設置場所に割り当てられ、櫛田神社の飾り山笠は番外とされる。八番の上川端通と番外の櫛田神社を除き、割り当てる番号は毎年輪番である。また舁き山笠の番号は、そのまま追い山の出発順となっている。
飾り山笠は「表(正面)」と「見送り(背面)」で異なる題材の人形が作られる。題材は歴史上の出来事や講談の名場面を採るのが伝統だが、その年に放送中のNHK大河ドラマに合わせた題材や、見送りに若者や未成年者が見て喜ぶものを題材とすることもある。具体例としては『サザエさん』(新天町:2012年~/博多駅商店連合会:2013年~2015年)、『アンパンマン』(渡辺通一丁目:2015年~)、『機動戦士ガンダム』(上川端通:2024年)等のアニメ、『華丸・大吉のなんしようと?』(博多駅商店連合会:2009年、2016年)等の福岡ローカルのバラエティ番組、2019年度のラグビーワールドカップ(博多駅商店連合会:2019年)のような記念イベント等を題材として人形が作られている。また福岡ドームの飾り山笠は表に福岡ソフトバンクホークスの選手の人形を飾るのが恒例となっている。
飾り山笠は例年7月1日から7月15日まで公開され、追い山当日の0時になると一部を除き「山崩し」「山解き」などと称する解体作業が始まり姿を消す。
山笠人形や飾り物は伝統的に「福を招く縁起物」として、祭りが終わると争うように剥がされ、山笠台を残して取り壊されるものであったが、近年では「山笠シーズン以外でも観光客が見られるように」との配慮から、一部の飾り山笠に限り通年の常設展示が行なわれるようになっている。
舁き山笠も15日早朝の追い山を終え各町内へ戻った後、同様に解体されていたが、通年展示や安全性への配慮から取り止める流が相次ぎ、伝統的な「山崩し」で舁き山笠を解体している流は、2019年(令和元年)現在では西流のみとなっている[24][25]。
太字は、山笠期間外にも展示される飾り山笠。
※千代流は2019年(令和元年)まで西部ガス本社に飾り山笠を建てていたが、2022年(令和4年)以降は飾り山笠を中止している。
1950年(昭和25年)から唐人町に飾り山笠を建て、子供山笠4本を各町内会にて運営した歴史がある。寿通の子供山笠は子供たちに地域の伝統を理解させるために開始された。寿通子供山笠は現在の博多小学校子供山笠となっている。走る飾り山笠で有名な上川端通子供山笠を運営したことがある。現在、子供用の舁き山は3台有り、大人の舁き山を2/3に縮小した形で同地区の飾り山共々、アニメや子供番組のキャラクターを題材にする場合が多い。何れも7月1日から8日の間の金曜日から日曜日にかけて主に流れ舁きを行う。少女は小学校低学年まで参加できる。台上がりは8から10名で出来るだけ多くの参加者が台上がり出来るように停止中に台上がりが交代する場合が多い。
千代小、博多小、RKB子供山笠教室や中央区天神の新天町で行なわれる子供山笠は少女も参加できる。これらに参加する少年少女は大人と同様、水法被を羽織った締め込み姿になる。締め込みは大人用とは違い幅18センチ長さ3.5メートルの柔らかい白い布を締めこむ場合が多い。幼児は取り廻し(力士の廻しに付ける下がりに似た物)や伊達下がりを付ける場合がある。子供山笠の様子は新聞やテレビなどで紹介されている。
戦前にも子供山笠が有ったが中絶し、上記の趣旨から1970年(昭和45年)に当時の奈良屋小学校で開始された。学校の統廃合に伴い、博多小学校の行事となった。博多流と称する。学区の大部分が何れかの流に属することから参加者の大部分は各自で用意した属する流または町内の水法被を着用、締め込みも各自で用意する場合が多く白の他、黒や赤もある。学区の一部に山笠に不参加の流や流に属さない地区があることから、そこからの参加者は学校が用意した「博多小」または「山かき子」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する。水法被は世話役(教職員)も着用する。舁き山はRKB子供山笠教室と共用する。
1981年(昭和56年)からRKB子供山笠教室が開始された[注釈 2]。小学生の男子児童の参加者300名を放送エリアから幅広く一般募集する。参加者は当日、櫛田神社に集合、主催者が用意した背に「山かき子」、襟に「博多子供やま」または「博多子供山笠」、袖に「RKB」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する。締め込みは各自で用意したものも認められる。世話役はスポンサーのハウス食品が提供する「うまかっちゃん」の赤いロゴが入った水法被を着用する。博多小の参加者が舁いて来た舁き山が神社境内に着いたところで山を交代で舁く。この様子は後日放送される。
1987年(昭和62年)千代小学校の創立百年を記念し、上記と同様の趣旨で開始された。学区のほぼ全てが千代流と一致することから参加者は「千代」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用、主に学区内で流れ舁きを行う。2012年(平成24年)からは櫛田入りも行っている。
福岡部で大人子供を通して唯一の舁き山。元々博多部と関係が深い事や転勤で福岡部の人口が増えたことから上記と同様の趣旨で1980年(昭和55年)に発案、1988年(昭和63年)に寿通(大黒流)の協力で開始された。1991年(平成3年)から自前の舁き山を導入した。参加者は「新天町」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する。世話役は「新天」のロゴが入った長法被を着用。博多部からも世話役の応援を受ける。新天町エリア内の流れ舁きとなり、博多部には入らない。
11日、14日の「流舁」は「追善山」の行事が行われることがある。これは1年の間に亡くなった各流の山笠功労者遺族の家の前まで舁山を舁いて、祝いめでたと博多手一本を捧げ故人の冥福を祈るものである。「神事」で遺族はその年の山笠行事に関わることができない[注釈 3][28]。
山笠期間中は山笠関係者はキュウリを食べることが御法度とされており、これはキュウリの切り口が櫛田神社の神紋の一つである祇園の神紋と似ているためといわれている[26]。櫛田神社や京都・八坂神社など水天神系の神紋の図柄は木瓜(ボケ)の花である。「夏が旬のキュウリを断ってまで祭りに懸ける」意気込みとする説もある。しかしながら「石城志」によれば”此祭りに胡瓜を食ふ事を禁ずべきのいわれなし”とある[29][30][31]。
テレビ放送は基本的にTVQ九州放送を除く在福テレビ各局が行っている。各局とも男性アナウンサーや出演タレントが各流に食い込んで実際に山を舁いたり、舞台裏を取材・報告したりしている。各局の追い山中継では、毎回中央の有名タレントをゲストに迎えて中継している。全国ネットではBS-TBS(RKB毎日放送制作)が生中継している(2023年(令和5年)現在)。各社の中継放送を下記する。
追い山は公共交通機関が通常運行しない早朝に催行されるため、当日には福岡都市圏の各交通事業者が観客輸送を目的として朝3時前後に始発し4時前後に最寄り駅・バス停に到着する臨時列車・バスを運行する。2022年(令和4年)はすべて運行中止。2023年(令和5年)は列車のみ運行(バスは運行せず)。
なお2019年(令和元年)までは福岡市内各地(一部は市外都市圏)と櫛田神社周辺部の停留所との間を結ぶ臨時バスも運行されていたが、鉄道の臨時列車が運行再開された2023年(令和5年)以降も臨時バスについては運行されない。2013年(平成25年)実績では30路線43本が運行されていた。2019年(令和元年)より早朝割増運賃(片道普通運賃の2倍額)が適用された[33]。
最寄り駅は以下の駅。