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原田 真二 | |
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基本情報 | |
出生名 | 原田 真二 |
別名 | Shinji Harada, Shine, ハラシン |
生誕 | 1958年12月5日(66歳) |
出身地 |
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学歴 | 青山学院大学二部中退 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1977年 - |
レーベル | |
事務所 | 株式会社エアーフィールド[2] |
共同作業者 |
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公式サイト | official web site |
原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日[3] - )は、日本のシンガーソングライター。広島市榎町(現:中区榎町)出身[出典 1][注釈 1]。
ボーカル、作詞、作曲、編曲、プロデュース。楽器はギター、ピアノ、キーボードを主要に扱うが、ベース、パーカッション、マリンバ、ブルース・ハープ、ドラム、琴、和太鼓なども演奏。ミックス、プログラミング、AI共作[13]もこなす、マルチプレイヤー、マルチミュージシャンである。所属事務所はエアーフィールド(個人事務所)。血液型はAB。2011年(平成22年度)広島市より広島市民賞[6]。ひろしま平和文化大使委属[6]。
ザ・モンキーズのテレビショーや[出典 2]、エルビス・プレスリーの宇宙中継ライブ(『アロハ・フロム・ハワイ』)などで観て[出典 3]、「ライブが人を感動させるんだ」と幼いながら感動した[19]。中学生で洋楽ロックの虜になり、エルトン・ジョンやウイングスなどのロック、スティービー・ワンダーなどのソウル系、ジョン・ウィリアムズ、ヘンリー・マンシーニなどの映画音楽などをジャンルレスに聴いた[出典 4]。中学に入ると同郷の吉田拓郎がブレイクし[出典 5]、広島の中学生・高校生たちはわれもわれもとフォーク熱に憑りつかれ[出典 6]、フォークギターを持っていなければ「オクレテル!」という状況になった[出典 7]。原田も中学から兄のギターを借りて、自身でもギターを始め[出典 8]、吉田拓郎をコピーする[出典 9]。当時の広島は拓郎の影響が強く、ロックをやっている人は周りにほとんどいなかったという[22]。またヤマハ広島店でギターとピアノを習い[出典 10]、アイドル雑誌の付録に付いていた天地真理などの歌謡曲の歌本でギターを弾いたり[17]、譜面がある物は探して、アレンジを確認したりし[出典 11]、早くからプロのアーティストを目指した[出典 12]。中学3年のとき、拓郎の影響を受けた自作曲を初めて作る[21]。広島市立舟入高校進学後、友人とビートルズから"ビ"を抜いたビールスなる名前のロックバンドを結成した[出典 13]。当時のあだ名は"広島のエルトン・ジョン"[25]。同校2年在学中の秋に『月刊明星』の広告で見た憧れの拓郎たちが作ったフォーライフ・レコード新人オーディションに[出典 14]、締め切りまで1ヵ月もなかったことから[出典 15]、修学旅行を休んで、その間にヤマハと自宅で制作した3曲を録音して応募[出典 16]、吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた[出典 17][注釈 2]。受験勉強もろくにやらず[20]、高校卒業まで自身でサヨナラコンサートの企画を立て運営に奔走した[出典 18]。また広島市内の女子高を回り、校門から出て来た女生徒にチケットを売りまくった[30]。その甲斐あって1977年3月31日に広島青少年センターで開催したビールスのサヨナラコンサートは入場料300円で、300人の若い女の子を集めた[出典 19]。2日後の1977年4月2日、多くの仲間たちの激励に送られ、広島駅から新幹線で上京した[出典 20]、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学[出典 21]。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした[出典 22]。
フォーライフに送った応募テープは、アマチュアでは考えもしない一人で8重録音(多重録音)をしていたといわれ[出典 23][注釈 3]、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる[35]。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように[37]、最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった[出典 25]。デビューアルバムに参加した鈴木茂が、「ほとんどやることはなかったよ」と言ったという[37]。原田真二バンドと佐野元春のバンド、ハートランドをドラマーとして掛け持ちした古田たかしは[39]、ブレイク前の佐野を「すごいんだよ、マインドが真二とそっくりなんだ」と評した[37]。
「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース[16]。「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューを飾ると、3曲が同時にオリコンベスト15入りするという[40]、日本音楽史上初の快挙を達成した[出典 26]。「3ヶ月連続レコードリリース」は、当時の所属事務所アミューズの社長大里洋吉のアイデアによるものだが[33]、どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかったという事情もあった[出典 27]。「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイム・トラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「Feel Happy」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した(4週連続1位)[出典 28]。10代でのファーストアルバム、オリコン1位獲得は、男性シンガーソングライターでは未だ原田のみ(2018年8月現在)[出典 29]。
「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され[19]、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは[46]、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした[出典 30]。原田はそれまでの先輩たちとは違う、感性や音楽的バックグラウンドを持つシンガーソングライター、ポップス・クリエイターの新世代であった[46]。原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している[出典 31]。ポップスとロックの間を自在に行き来するサウンド・センス[46]、加えて洗練された響きを持つコード進行の多用など[46]、ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は[38]、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した[出典 32]。近年のシティポップの特集ではスルーされることが多い原田であるが、シティポップの特集としては早い段階だった『昭和40年男』2014年2月号の「オレたちシティポップ世代」という特集では「てぃーんず ぶるーす」を「洋楽テイストのメロディで80年代シティポップの伏線となった」と論じられている[54]。元祖ピアノロック"等と今日いわれるように[48]、男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと[出典 33]、その特徴あるカーリーヘアー[注釈 4]と少女マンガの世界から飛び出したような愛らしいルックス[出典 35]、ハスキーボイスが[出典 36]、当時、隆盛を極めたテレビの歌番組などで最大限に発揮され[出典 37]、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受け、ロック・アイドル的人気を博した[出典 38]。あのジャニーズ事務所でさえ存続の危機が伝えられるほど低迷したアイドル不在の時代に突如出現した原田たち[38]、そのすさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い[出典 39]、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した[出典 40]。既存の枠に捉われない原田の登場は、変化する時代の象徴に映り、原田は"時代のアイコン"になった[33][注釈 5]。
当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが[出典 41]、『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた[出典 42]。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演[注釈 6]、第5回(1978年2月16日)放送では、番組初の2曲同時ランクイン[65](6位「キャンディ」、10位「シャドー・ボクサー)、以降も毎回のように出演し[出典 43]、少し早くデビューしたChar、同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ[出典 44][注釈 7]、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった[出典 45]。ロック・ミュージシャンがテレビに出演すること自体が裏切り行為だった時代で[38]、ロックはそれまで商売にはならないものと考えられていた[38]。ロック・ファンが圧倒的にマイノリティだった70年代初頭の日々を記憶していた古くからのロック・ファンにとっては、ロックバンドらしき風体の連中がゴールデンタイムの歌謡番組に出演しているだけでも奇妙な違和感を覚えた[38]。原田は「拓郎さんたちのやり方はもう古い。やっぱりテレビに出て、よりたくさんの人に自分の音楽を聴いてもらった方がいい」[70]、「音楽的なつっぱりは、勿論必要だと思うけど、それ以外は意味がない。この時代にテレビに出ないなんて感覚的にズレていると思う」[24]、「アイドル歌手って、作られた芸能界の人って想像するよね。ボク、嫌いなのよ。人に与えられた曲しか歌えないのはマズいよね。これだけ日本人の中に歌謡曲が入り込んでいる以上は、ボクがテレビに出て少しづつでもロックを送り込むしかないよ。ロックを思い切り出来るようにするんは、テレビに出なきゃならないわけ」[15]、「シンガーソングライターにはマイナー志向が多いけど、一人ぐらいメージャーが居てもいいんじゃないのかな。ステージ活動があくまでメインだからメージャーの僕はテレビ出演には抵抗がないよ。多くの人に自分の音楽を理解してもらいたい」[82]などとも話すが、デビュー45周年となった2023年のインタビューでは「メディアを活用し、アイドル的な売れ方をしたことは自分の意には反していたのですが…」「アイドル的な売り方のおかげで世間に認知され、こうして45年突っ走ってこれたことは事実。あれは、必要なことだったのでしょうね」とも述べている[7]。
また『月刊明星』、『月刊平凡』、『セブンティーン』などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にも頻繁に登場[出典 46]。当時アイドルの最大のステータスともいえた『月刊明星』(1978年3月号)の表紙や『TVガイド』の表紙をニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど[注釈 8]、極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した[出典 47]。日本のロックをメジャーシーンに浮上させる重要な切っ掛けを作り、一時代を築いたのが原田だった[40]。『週刊読売』は1978年2月26日号で「郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹などの路線とは、ひと味違った新しいタイプのアイドルが現れた。原田真二という19歳の大学生。ケーキのような甘いマスクで、歌は地味ながら、ソフトなバタ臭さが特徴。これを称してソフト&メローのティーンズ版というそうだ。昨年の暮れ、『てぃーんず ぶるーす』『キャンディ 』『シャドー・ボクサー』とたて続けに三枚ものシングル盤を出して、華々しくデビューし、いずれもヒット曲となった。近来稀なシンデレラボーイである(中略)アメリカでもピーター・フランプトンをはじめとした中性的なイメージのさわやか男性歌手がもてはやされているとか。これが最近の傾向というから、原田真二クンもきっとはやるだろう」などと評した(原文ママ)[85]。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり[71]、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった[出典 48]。ここに至り、ロックと歌謡曲の間の境界線はさらに曖昧化し[38]、原田真二や世良公則と沢田研二や西城秀樹との差異は肉眼では測定不能なまでに接近した[38]。「ロック御三家」によって日本のロック・シーンが活況を呈し[出典 49]、ロック御三家以上にテレビを中心とした用意周到なメディア戦略で打って出た[38]サザンオールスターズ[87]、それまで地味な活動を続けていたゴダイゴ[87]、甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが「ロック御三家」に続いた[出典 50][注釈 9]。この内、ロック御三家とサザンオールスターズ以外は、メジャーになった切っ掛けは、ロックが商売になると判断した企業やテレビドラマ、映画などとのタイアップによるもの[46]。またロックミュージシャンだけではなく、ニューミュージック寄りのイメージが持たれていた渡辺真知子、八神純子、中原理恵なども、原田に続いて積極的にテレビ出演した[70]。彼らがそれぞれにヒット曲を飛ばしたことにより、テレビをメインにした"新戦略"は"大きな価値"のある戦略として認識されるに至った[70]。ロック御三家以前にもキャロルとダウン・タウン・ブギウギ・バンドがテレビにも出て、商業的な成功を収めてはいたが[47]、回りが続かず[47]、シーン全体に大きなムーブメントを興すには至らなかった[47]。「日本でロックはメジャーになれない」という極論を言う音楽評論家もいたほど[47]。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し[46]、巨大ビジネスとなっていったのである[出典 51]。ロック御三家は、"日本語のロック"黎明期のスピリッツを失わせたと当時主張する者もいたが[38]、ロックと歌謡曲を融合させたロック御三家こそ、「商売としてのロック」「J-POPの原点」という論調もある[38]。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜は今日まで絶えたことはない[66]。ロックアーティストがテレビと本格的に向き合う"尖兵"となった[出典 52]原田の登場は、後に続いた多くのJ-POP系シンガーソングライターに大きな影響を与えており[出典 53]、その功績は図り知れない[出典 54]。
『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等[出典 55]、アイドル性が強調されたが、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた[出典 56][注釈 10]。自身でも「テレビの現場でのコミュニケーションは、間違いなく生意気だったでしょうね(笑)」と話すまだ10代という若さ、かわいいルックスと相反する明確な主張ゆえに衝突を生んだ。バラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル(当時のバラエティー番組は今と違い、歌のコーナーがあった)[82]。(後述)に始まり、まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽的志向の裏返しから脱アイドルを望み「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした[出典 57]。「芸能界の体制には巻き込まれたくない」、「歌謡曲って独特のニオイがあるでしょう。最高にイヤ」[出典 58]、「ジェット機で全米ツアーしたい」[出典 59]発言等、原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れないと話すが[99]、これだけでは済まない。中でも物議を醸したのが年末の賞レースを辞退した際の発言[96]。原田は1978年の早い段階で、日本レコード大賞や日本歌謡大賞等、同年の年末の賞レースの新人賞の大本命との下馬評が高かったが[96]、春先の段階で早々に辞退を表明し[96]、しかも「新人賞は欲しくない!欲しい奴にやってくれ」と発言してしまった[96]。実際は「年末の歌謡界の行事は歌謡界の中での出来事だから、カヨウカイで仕事をしてるって気持ちがボクにはないから。ほかに欲しがっている人たちが大勢いるなら、ボクの分をその人たちに上げたらいいと思っています」という発言だったのだが[96]、当時のマスメディアはより刺激的に見出しを書く傾向があり[96]、先のような問題発言が大きくフィーチャーされた[96]。当時の賞レースは、対象の歌手に最優秀賞を取らせるべく所属事務所やレコード会社の関係者が血眼の争いをやっていた時代で[96]、民放テレビにも盛んに出演する原田のこの発言が面白いはずもなかった[96]。「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」と当時を振り返っている。
ソロとしてデビューはしたが、元々ロックバンド志向であった[18]。デビューコンサートは1978年1月16日に広島郵便貯金ホールでの凱旋コンサートだった[出典 60]。通常、ファースト・コンサートは、関係者へのお披露目の意味合いから、東京か大阪の大きな会場を選ぶのが一般的だったが[30]、先述のアマチュア時代の最後に広島で開催したサヨナラコンサートで、多くの人にお世話になった感謝から、広島の人たちにお礼がしたい、と故郷での開催を選んだ[30]。動員2500人、立ち見350人で会場が埋まる[20]。プロとしての初コンサートではプライドから、コンサートの構成にも関わり[100]、全曲オリジナル曲で通した[20]。クライマックスでは興奮したファンが制止を振り切り、ステージに殺到し、激励に駆け付けた吉田拓郎も「スゲエなあ…」と絶句した[20]。この日のバックバンドのメンバーは、ギターが元愛奴の青山徹、ベースはこの後RCサクセションに参加するゴンタ2号(岡雅夫)、ドラムスに古田たかしと元Charバンドのロバート・ブリル、キーボードに山田秀俊とスペクトラムに参加する吉田俊之と一流のセッションマンが結集され[18]、これが自身のバンド・原田真二&クライシスに発展している[18]。
1978年4月1日、岡山県倉敷市民会館からスタートした初の全国ツアー「Feel Happy Concert」では、自身は芸能界的アイドルではなく、発言で問題を起こした"アーティスト"であり、ロックミュージシャンであることを証明しなければならないという必要があった[18]。当初4ヵ所の予定が追加を重ね、結局9ヵ所で開かれたこのツアーでは、ハードなロックンロールあり、軽快なポップスあり、ギター一本の弾き語りありと多彩な音楽性を打ち出した[18]。1978年7月24日、デビュー1年目(9ヶ月)、10代ソロ歌手、では史上初の日本武道館公演を行う[出典 61]。この公演を皮切りに9月15日の大阪府立体育会館まで全国六都市12ヶ所で行ったアリーナ[注釈 11]ツアーも[出典 62]、井上陽水がやって以来のもの[出典 63]。まだコンサート用のアリーナは無い時代で[11]、5000〜6000人規模の全国の体育館を廻った[出典 64]。多忙な毎日を縫って最新のサウンドシステムを探しにアメリカと日本を何度も往復し[11]、ドゥービー・ブラザーズが使っていた爆音を奏でる「A-1VIPシステム」というスピーカーを自身で見つけるなど[出典 65]、当時世界最高のPAシステムをアメリカとイギリスから導入した[出典 66][注釈 12]。これらを操らなければならないという事情から音楽最優先のスタッフを結集した[104]。武道館公演を伝えた当時の文献に「ポップスというよりも、もうこれはロックそのもの。ツイン・ドラムス(2台のドラムを使う)を使用…。このコンサートのために、1週間つま恋で合宿し『ステージでは、ステージなりに新しいものを作り上げたい』と、全ての曲を新しくアレンジし直した」などと書かれている[103]。お客はほぼ100%女子中高生であった[出典 67]。この年の武道館ライブを中心としたステージ・ドキュメント映画「OUR SONG and all of you」も製作されている。監督はドキュメンタリー映画「キャロル」で名をあげた龍村仁である。翌1979年の武道館では、数曲、サックスプレイヤーの手を借りた以外は、原田のバンド5人だけで全ての音を出した[18]。ギター1本弾き語りの松山千春を除くと[18]、当時の武道館コンサートでは、最も小さい編成でやり遂げ[18]、バンド総体としてのハイレベルのパフォーマンスも高い評価を受けた[18]。 同年、4枚目のシングル「タイムトラベル」で『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場。
当時の音楽番組は基本的に生放送・生演奏が多く、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめることが多かった[32]。例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏に必要なモニタースピーカーが十分に用意されていなかったり[82]、短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。新人が意見するということ自体がタブーだった時代、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着、そういう時代であったという[出典 68]。メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったもの[出典 69]。こうした改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる[出典 70]。原田は「『ザ・ベストテン』あたりから、テレビ局の音に対する気遣いがめちゃくちゃよくなりました」[65]、『ミュージックフェア』は昔から良かった」等と話している[32]。
また中学の時、高校受験を突破するという名目で通った、プラスの方向へ潜在意識を動かすことにより、人間の潜在能力を引き出すメンタルトレーニングのセミナー「考え方教室」で、心の大切さ、人間の可能性について学び、人にはもっとやれることがあるんじゃないかという考えが芽生える[出典 71]。これらの学びがその後の原田の音楽的テーマの基盤となっている。関連して、精神世界関連について広く探求していたこともあり、コスモポリタン、救世主、潜在意識、ヒーリング、プラス思考といった、当時としては聞き慣れない難解な用語を混ぜて音楽を語ったり[18]、その哲学的側面も芸能界において異質とみなされる部分もあった[18]。ちなみに、デビュー当時の座右の銘は、ジョセフ・マーフィーの「人生に奇跡をおこす」[106]。近年では「Where there is a will, there is a way!」(意志のある所に、道は開ける)と言っている。
デビュー時の所属事務所アミューズは、現在はサザンオールスターズ(桑田佳祐)の貢献により大手となっているが、当初は渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉(現アミューズ会長)が渡辺プロダクション退社直後に原田を紹介され、原田のために設立した弱小個人事務所であった[出典 72]。青山学院大学入学後の1977年5月に大里とともに約1ヵ月渡米した[出典 73]。アルバム(LP)中心のアーティストのためのプロダクションを経営したいと考えていた大里のところに、原田に最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフが原田のプロモーション・マネジメントを持ちかけた。「マスメディアを使うにもバーニングでは原田との接点がない、フォーライフではマスメディアとの接点がないということで、ぼくが間に立つことになった」と大里は説明している[71]。バーニング社長の周防郁雄は、原田が「自分のための会社を作って欲しい」と言ったことから、バーニングとは別の会社を作ることを決め、面識のあった大里に紹介し、大里と周防で資金を折半してアミューズを設立したと話している[109]。
デビュー間も無くの人気沸騰で、毎日がアイドル雑誌の取材やテレビ出演など息つく暇なく多忙な日々に追われた[7]。また、事務所社長の大里がキャンディーズの元マネージャーだった事から、改めて渡辺プロダクションに契約プロデューサーとして出向しその解散コンサートにかかりっきりとなったため、原田の活動を十分にケアーすることができなかった[107]。この芸能界のリズムに巻かれ進んでいたのでは、アーティストとしての創作活動など無理なように思え、先々の不安が重なったことが事務所移籍を決断した大きな理由だった[16]。結局、アミューズは半年で退社し[76]、RCサクセションが所属していたりぼんへ移籍[11]。入れ替えに入社したのがサザンオールスターズで[出典 74]、大里は「原田が辞めていなかったら、サザンオールスターズを売り出す余裕はなかった」と話している[107]。
またそのかわいいルックスとあえてピアノを弾いて歌うイメージ戦略、松本隆の繊細な詞の世界も、デビュー時の人気に一躍買ったわけだが、その一方で“ひ弱で軟弱なアイドル”的なイメージで見られる事も多く、原田自身は、一貫した音楽で伝えたいテーマを持っていたことから、脱アイドルを望み、意識的にロックテイストとメッセージ性の強いハードな方向へと進んでいく[出典 75]。
そして、初めて作詞も手がけた6枚目のシングル「OUR SONG」は、どうしても強力なメッセージを込めたロックバラードに仕上げたかったという[27]。9枚目のシングル「MARCH」でも「自分だけの道を、自分の形で、自分以外のために」とこれからの方向性を示唆した。この曲を最後に、より自分らしい活動を求め21歳で独立。原田自身はこのデビュー時を振り返って、この時代、楽曲達があったからこそ、これから頑張らなきゃいけない時期まで今の自分が生かされてきたと語っている[出典 76]他、主にライブで発言された)。
3万人とも言われたファンクラブ会員がいたこととは裏腹に[出典 77]、“アイドル”という括りにされることから“自分がやりたい音楽”がうまくできず、デビュー3年目でマネージャーだけ連れて、セルフ・プロダクション(個人事務所)[37]「クライシス・マネージメント」(現:エアーフィールド)を興し[出典 78]、独自の活動へ入る[40]。「普通は人気が確立されてから独立を考えますが、そういう状況じゃなく独立したので、たちまちイメージしていたものが打ち砕かれて大変な状況になった。今思えば無謀。でも、だからこそ経験できたこと、学べたことがいっぱいあった。ほとんどのアーティストは売れるまでに下積み時代があるのですが、僕にはそれがなかった。必要だからこそ通ってきた道なんだろうなあと今思う」と語っている[112]。
その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは70枚以上になる[16]。1980年代からはソングライターとしても活躍し、吉川晃司や松田聖子とのコラボレーションでは、オリコンベストテンヒットも出している。その他のアーティストにも200曲以上の楽曲を提供[16]。またCM・TV番組テーマ曲・ミュージカル音楽など多方面で活躍[16]。複数の小学校の校歌も手がけている[16]。2001年から2004年まで松田聖子のライブパートナー、プロデューサーとして活躍。これは少女期にファンクラブに入るなど原田ファンだった聖子からの申し入れであった。二人の息子も音楽の道を志しているという[113]。
1981年12月25日、中野サンプラザでのクリスマスコンサートのステージ上から、米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)を発表。英語圏での活動を夢とした原田は、向こうのマーケットの視察、自分のオリジナルなスタイルの確立、曲を書き貯める、歌詞の勉強、をその理由に挙げた。アメリカでは、本場のショーアップされたエンターテイメントとしての音楽を再確認するとともに「逆に日本にいて見えなかった日本のよさ」を強く感じ、日本人としての個性を取り入れたオリジナルなスタイルを確立すべく、洋楽的発想に和を融合させた音楽を模索。帰国後は日本の伝統楽器等を取り入れたジャパネスクな新境地の音楽スタイルも見せ、またダンサブルな方向、ショーアップされたステージへと移行していった[27]他、多所で発言)。
1983年12月、翌年のニューアルバム発売に先駆け「Modern Vision」と題したアクトを取り入れたコンサートを渋谷公会堂で開催。舞台セット/ライティング/エキストラ/パントマイム/ブレイクダンス等を駆使しオープニングアクト(演劇風演出)等を取り入れ、アルバムと平行したメッセージをライヴでも発信。このショーアップされたステージはアクト・ライヴと題され、1990年代初頭までの彼のコンサートスタイルの一つとなる[111]。
1985年10月には新たに「Friday Night Club」というイベントを企画し、金曜日の夜に定期的にライヴを行った。飲食できるスペースも確保しつつ、スタンディング・ライヴで盛り上がる空間の演出と演奏。当時の日本ではまだクラブ感覚でライヴを楽しめる場所がなかった時代に、欧米風システムを持ち込んだ。バンドメンバーもオーディションにより一新。原田自身も大胆に化粧を施し、オリエンタルなコスチュームでビジュアルにも拘った。その後のTRFやZOOのメンバーもこのイベントに参加している[27]。
デビューアルバムのタイトルが「Feel Happy」だったように、デビューから音楽のテーマが「LOVE & PEACE、HAPPINESS」。広島出身であるという事も重なり、当時から一貫して「純粋に音楽の持つ力を信じていて、音楽を通してメッセージを発信し平和に貢献したい」「世界の一人一人が同じ意識を持てば、世の中は平和に近づけるはず」と語っている。「広島で育ち、平和を希求する歌を作り続ける」という根幹がぶれることはなかった[7]。
近年ではなおいっそうその意識が高くなり、2000年から、自然環境・心の環境問題(やさしさの復活)をテーマにしたチャリティーイベント「鎮守の杜コンサート」を定期的に開催[出典 79]。明治神宮、伊勢神宮、厳島神社などの代表的神社から大中小、全国の神社をその会場としている。2005年より主に鎮守の杜コンサート他、原田のチャリテーイベントをサポートする趣旨のNPO法人「ジェントル・アース(Gentle Earth)」を設立[114]。「鎮守の杜コンサート」他、Global Harmony「Peace Charity Concert」、「希望の音・夢のはじまり」、「Universal Peace Day(ニューヨーク)[115]」、「Singing Angel Project(SAP)」他、大小様々なチャリティー&平和イベントに携わる[7]。今後も求められるなら、国内外問わず、あらゆる場所に出向き演奏したいと語る。
フォーライフオーディションを合格した原田は、高校卒業後のデビューが決まっていたが、高3の夏休みにレコード会社の招待で上京[14]。銀座の音響ハウスというプロのスタジオを自由に使っていいからと言われ3曲ほど多重録音をさせてもらったが、スタジオには吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげる等、当時のフォーライフの大御所たちが全員見学に訪れ見守り[出典 80]、質問もされる中での作業で、自由どころか、すごいプレッシャーのかかった初レコーディングになったという[出典 81]。
デビュー曲「てぃーんず ぶるーす」は、「君の世代へ」というタイトルで、高校時代に原田が歌詞も付けたものを既に作っていた[出典 82]。当時の暴走族問題なども取り上げ、自分たちの世代に向かっての強い想いを世界平和の願いも込めて歌うという、ヘビーな内容であったが[出典 83]、プロデューサーの吉田拓郎は流行歌として商業ベースに乗せられることが可能な作詞家として松本隆を起用した[出典 84]。ところが拓郎は松本が作って来た作詞についても「こんなのシングルには弱い」と気に入らず[11]、「わしが書く」と言い張った[出典 85]。原田は最初が肝心なので「自作曲でデビュー出来ないなら辞めてやる」ぐらいの気持ちで譲らず[出典 86]、選択に難航[出典 87]。大里から「いや、真二のメロデイで行きましょう」と進言があり[19]、拓郎が折れた[19]。レコーディング地である箱根のホテルで明け方まで会議したが結論が出ず、早朝、拓郎と二人でプールサイドを散歩していると、いきなり拓郎にプールに突き落とされ、その一部始終を松本が8ミリビデオで撮影していたという、半ば計画的とも思えるハプニング[出典 88]。そのあと原田の希望が通り自作曲でのデビューが決まった。「あれはきっと "てぃーんずぶるーす" で行くぞっていうことだったと思うんですよね」と、当時のエピソードとして原田が語っている[出典 89]。なお、レコーディングが行われた南箱根の旧ロックウェルスタジオは、90年代後半に原田が買い取り所有。現在は「Studio Modern Vision」としてリニューアルしている。松本は、「まだ若いんだから自分がのたうちまわるような歌詞にしたほうがいい」「原田を見たとき、男の子の痛み、壊れやすい少年の世界観が表現できると思った」「原田がセールスに結び付けられたことで、"男の子のアイドル" "ボクの少年シリーズ" を、後の近藤真彦で集大成させた」と述べている[116]。
初のレギュラー番組はデビュー間もない1977年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の「歌おう!原田真二と」(毎週水曜日夕方4時30分から30分枠)。ゲストも登場し(天馬ルミ子など)最新ミュージックビデオ等も流したりする音楽情報番組であった。ただ大きく違うのは、主に原田とピアノ越しに出てくる人形(アリンス君)が会話をしながら進行していくということ。これには原田も違和感を覚えながらやっていたと十数年後のライブのMCネタで語っていた[110]。
『8時だョ!全員集合』に出演する際、「少年少女合唱隊」のコーナーでの企画(振り付けブームの折、ピンク・レディーの振り付けで「キャンディ」を歌う)[96]が、出演当日まで原田サイドに知らされていなかった[96]。原田が拒否したわけではなかったが、リハーサルを終えるとマネージャーがプロデューサーにかけあい、結果「真二帰るぞ」ということになってそのまま帰宅[65]。その夜原田は自宅でバンドメンバーとドキドキしながら生番組の様子を見ていたという[出典 90]。司会のいかりや長介が「今日帰っちゃったやつがいるんだよ」とエクスキューズしたが[65]、その後『8時だョ!全員集合』には二度と呼ばれることはなかった[105]。
デビュー時、数人の新人歌手と一緒にお昼の生バラエティー番組『TVジョッキー』に出演し自己紹介を促された際、一緒にゲスト出演していた新人の女性アイドル2人が明るい調子で「よろしくお願いしまーす」と挨拶したため[出典 91]、内心「一緒にされるのは嫌だな」と思った原田は「アーティストの原田真二です」とクールに発言してしまい[出典 92]、この"アーティスト"という呼称に司会の土居まさるからはその場で注意を受け[14]、番組終了後、上層部からマネージャー共々お呼び出しがかかり「新人が発する言葉ではない」と厳重注意を受けたという逸話が残る[出典 93]。「誰かに失礼なことを言ったわけでもないのですが、テレビではそういうことは言ってはいけないんだ」とその時初めて認識したという[出典 94]。当時は「自分が何者か」というのを分かって欲しく必死だったと回想している[14]。なお『TVジョッキー』にはその後もお呼びがかかり、この番組の常連となり再三出演。カラオケで歌う歌手が多い中、生放送の小さな公開スタジオにバンド機材を持ち込み生演奏。アルバムの中の曲も歌わせてもらうなど、ロックバンドとしての待遇を受けた。
新人時代「ザ・ベストテン」の楽屋で、本番前にバンドメンバーとセッションに夢中になり、通りかかった沢田研二に「おはよう」と声をかけられたが気づかず無視した形となった。後で事情を知って、すぐに侘びに行き、沢田は「気にしないよ」と言ってくれたのだが、その時局に居合わせた芸能リポーターが自分が担当する芸能情報番組「3時にあいましょう」の中で「ジュリーに挨拶も返さない生意気な新人」と誇張して話を広めた。真意を確かめようとしたが、その人物は逃げ回ったという[出典 95]。沢田研二サイドからは1978年春に正式に楽曲提供の依頼があった[20]。
1978年は歌謡界にニューミュージックのムーブメントが最初に起こった年で、原田を含めて全員初出場だったツイスト、さとう宗幸、渡辺真知子、サーカス、庄野真代の紅白六組が「ニューミュージック・コーナー」という括りで続けて歌わされた後、ステージの上で一列に整列、みんなで審査員の講評を受けるという非常に珍妙なステージをやった[119]。
1980年夏頃、ジョン・レノンプロデュースでのレコーディングの話が内々で持ち上がっていた[出典 96]。オノ・ヨーコを通して、ジョンも面白いと言ってくれているということで[出典 97]、翌年レコーディングするつもりで曲を書き始めていたが、1980年12月8日、ジョンはニューヨークで銃弾に倒れ幻となった[出典 98]。当時、河口湖でバンド合宿中だったが、その日は練習を取りやめメンバー全員喪に服した。
2000年12月、この年から(〜2004年まで)プロデュースを手がけていた松田聖子の離婚発表に伴い、各マスコミが一斉に、新恋人、ダブル不倫、来夏結婚とまで報道され、報道陣が大挙自宅付近に押し寄せ大騒動になる[8]。当事者の二人は否定、実際根拠となるものは何もなかったが、その後も週刊誌などが定期的にこの話題を取り上げた[121]。後に「ただ純粋にプロデュースを依頼され、お引き受けし取り組んでいただけで、あくまで音楽を通じてのパートナーです」とした。一部メディアに対しては「せめてちゃんと取材して本当のことを伝えてほしい。発行部数を上げる為なら何を書いても、報道してもいいものなのだろうか」と語った[122]。
下記は『オデッセイ★原田真二編』記載の年表を主に構成[123]。
発売日 | タイトル | カップリング | 形態 | 製造番号 | 順位[注釈 14] | |
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フォーライフ・レコード | ||||||
1st | 1977年10月25日 | てぃーんず ぶるーす | ANGEL FISH | Single | FLS-1010 | 6位 |
2nd | 1977年11月25日 | キャンディ | グッド・ラック | FLS-1011 | 10位 | |
3rd | 1977年12月20日 | シャドー・ボクサー | サン・ライズ | FLS-1012 | 14位 | |
4th | 1978年4月10日 | タイム・トラベル/ジョイ | FLS-1024 | 4位 | ||
5th | 1978年7月25日 | サゥザンド・ナイツ/スペーシィ・ラブ | FLS-1029 | 16位 | ||
6th | 1978年11月21日 | OUR SONG | SOMETHING NEW | FLS-1037 | 19位 | |
7th | 1979年3月21日 | スウィート・ベイビー | 恋をブレンドドレッシング | FLS-1040 | 33位 | |
8th | 1979年9月21日 | a day | I Love You Gently | FLS-1055 | 39位 | |
9th | 1979年11月21日 | MARCH | GET OUT OF YOUR HEAD | FLS-1063 | 57位 | |
ポリドール・レコード 原田真二&クライシス | ||||||
10th | 1980年10月5日 | STRAWBERRY NIGHT | DANSER | Single | 7DX 1007 | 54位 |
11th | 1981年4月21日 | LIFE | MAMA LUCY | 7DX 1078 | 71位 | |
12th | 1981年8月1日 | 熱思考 -She became cold- | ユア・ステップ | 7DX 2005 | 86位 | |
13th | 1981年11月1日 | EVERY SUNDAY | 街で散歩 | 7DX 2007 | 97位 | |
フォーライフ・レコード 原田真二&クライシス[注釈 15] | ||||||
14th | 1983年5月5日 | 雨のハイウェイ | WRONG WAY | Single | 7K-94 | 71位 |
15th | 1983年9月21日 | 愛して、かんからりん。 | Oh,Dana | 7K-120 | 93位 | |
16th | 1984年3月21日 | MODERN VISION | Danger Man | 7K-138 | ||
17th | 1984年11月21日 | Teardrops | Let Me Hold You Again Tonight | 7K-163 | ||
フォーライフ・レコード | ||||||
18th | 1985年9月21日 | 永遠を感じた夜 | Breathe | Single | 7K-194 | |
19th | 1986年3月5日 | 寒がりのVOICE | SUBWAYの夜明け | 7K-213 | ||
20th | 1986年6月21日 | 伝説KISS | HEAT DANCING | 12inch | 12K-230 | 86位 |
21st | 1986年9月21日 | 見つめてCARRY ON | SLENDER GIRL | Single | 7K-238 | 98位 |
22nd | 1987年7月21日 | SWEET HEART | WEEKEND RAIN | 7K-268 | 80位 | |
23rd | 1987年10月21日 | LOVE OPERATOR | TEEN'S BLUES (PARTY VERSION) | 7K-274 | ||
24th | 1987年12月16日 | 君にもっと近づきたくて | CANDY | 7K-281 | 80位 | |
NECアベニュー | ||||||
25th | 1988年10月21日 | You are my Energy | REVUE NIGHT | Single | N07E-22 | |
8cmCD | N10C-15 | |||||
日本コロムビア | ||||||
26th | 1992年10月21日 | Miracle Love | Whisper | 8cmCD | CODA-109 | |
27th | 1993年9月1日 | 波を聴いた夜-Love Affair- | Hey,Hey,Girl | CODA-2361 | ||
28th | 1993年11月1日 | HONEY CHRISTMAS | SILENT NIGHT (A CAPELLA) | CODA-258 | ||
29th | 1996年2月21日 | 生命交響楽 | 下柚木の丘はいつだって | CODA-896 | ||
30th | 1996年4月20日 | ひろしまから始めよう | HIROSHIMA,THE PLACE TO START | CODA-916 | ||
31st | 1996年6月29日 | LOVE MIRACLE | Everlasting Love with 氷上恭子 | CODA-959 | ||
KONAMI | ||||||
32nd | 1998年3月21日 | 恋は500マイル | Yell〜We'll save your love〜 | 8cmCD | KIDS 7602 | |
33rd | 1998年9月23日 | 夢が踊りだす時 | Cinderella Magic | KIDS 7607 | ||
エアーフィールド | ||||||
34th | 2002年5月30日 | 海風 UMIKAZE | Maxi Single | AFKT-0002 | ||
UNIVERSAL MUSIC K.K. | ||||||
35th | 2003年8月1日 | 薔薇と月 -ROSE AND MOON- | ROSE AND MOON | Maxi Single | TRCS-0005 | |
2003年10月8日 | ||||||
Shine Records | ||||||
36th | 2007年5月13日 | 大和〜YAMATO The Global Harmoney〜 | 大和〜YAMATO The Global Harmoney〜(英語) | Maxi Single | SH-004 | |
Devotion artist | ||||||
37th | 2008年2月3日 | Calling… | Come On おじょママ〜I Love Luしー〜 | Maxi Single | DVCDS-00030 | |
Shine Records | ||||||
38th | 2010年4月10日 | Goodbye Tears | 広島の夢〜Dream of Hiroshima | Maxi Single | SH-005 | |
39th | 2010年12月17日 | Island of Peace 因島 [注釈 16] | SH-006 | |||
40th | 2011年1月31日 | In A Strong Wind Ahead | Rain | SH-007 | ||
アクセスロード/エアーフィールド | ||||||
41st | 2014年8月29日 | YAMATO The Global Harmony | Maxi Single + DVD | YZAF-1/2 | ||
42nd | 2015年10月8日 | Heart Aid | YZAF-0003 |
発売日 | タイトル | 形態 | 販売元 | 製造番号 | 順位[注釈 14] | |
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フォーライフ・レコード | ||||||
1st | 1978年2月25日 | Feel Happy | LP | フォーライフ・レコード | FLL-5017 | 1位 |
1992年11月20日 | CD | FLCF-22183 | ||||
2007年10月24日 | Feel Happy 2007〜Debut 30th Anniversary〜 | フォーライフミュージックエンタテイメント | FLCF-4198 | |||
2nd | 1979年4月21日 | natural high | LP | フォーライフ・レコード | FLL-5028 | 7位 |
1992年11月20日 | CD | FLCF-22184 | ||||
ポリドール・レコード 原田真二&クライシス[注釈 17] | ||||||
3rd | 1980年11月5日 | HUMAN CRISIS | LP | ポリドール・レコード | 28MX2004 | 41位 |
1994年12月19日 | CD | POCH-1468 | ||||
4th | 1981年8月21日 | ENTRANCヨ(エントランス) | LP | 28MX2023 | 51位 | |
1994年12月19日 | CD | POCH-1469 | ||||
5th | 1981年12月21日 | Merry Christmas | LP | 15MX2034 | ||
フォーライフ・レコード 原田真二&クライシス | ||||||
6th | 1983年7月21日 | Save Our Soul | LP | フォーライフ・レコード | 28K-51 | 43位 |
1992年11月20日 | CD | FLCF-22185 | ||||
7th | 1984年3月21日 | MODERN VISION | LP | 28K-67 | 30位 | |
1985年4月5日 | CD | 35KD-9 | ||||
1992年11月20日 | FLCF-22186 | |||||
フォーライフ・レコード | ||||||
8th | 1985年11月1日 | Magical Healing | LP | フォーライフ・レコード | 28KD-97 | 28位 |
CD | 35KD-24 | |||||
1992年11月20日 | FLCF-22187 | |||||
9th | 1986年10月21日 | DOING WONDERS | LP | 28K-120 | 33位 | |
CD | 35KD-60 | |||||
1992年11月20日 | FLCF-22188 | |||||
NECアベニュー | ||||||
10th | 1988年11月21日 | Urban game | LP | NECアベニュー | N28U-15 | |
CD | N32C-15 | |||||
1993年2月21日 | NACL-1509 | |||||
11th | 1991年2月21日 | KINDNESS | CD | NACL-1016 | ||
1993年2月21日 | NACL-1511 | |||||
日本コロムビア | ||||||
12th | 1992年9月21日 | Miracle Love | CD | 日本コロムビア | COCA-10371 | |
1998年6月20日 | COCA-15246 | |||||
2001年10月21日 | オンデマンドCD-R | COR-15246 | ||||
2009年6月22日 | オンデマンドCD | コロムビアミュージックエンタテインメント | CORR-10278 | |||
13th | 1993年9月21日 | Make it a Paradise | CD | 日本コロムビア | COCA-11013 | |
1998年6月20日 | COCA-15247 | |||||
2013年5月23日 | CORR-10889 | |||||
14th | 1994年3月21日 | Glistening Holidays | COCA-11616 | |||
1998年6月20日 | COCA-15248 | |||||
2001年10月21日 | オンデマンドCD-R | COR-15248 | ||||
2010年1月25日 | オンデマンドCD | CORR-10620 | ||||
15th | 1994年3月21日 | plugged | CD | 日本コロムビア | COCA-11617 | |
1998年6月20日 | COCA-15249 | |||||
2001年10月21日 | オンデマンドCD-R | COR-11617 | ||||
2009年6月22日 | オンデマンドCD | コロムビアミュージックエンタテインメント | COCA-11617 | |||
16th | 1995年9月21日 | Best Songs | CD | 日本コロムビア | COCA-12867 | |
1998年6月20日 | COCA-15250 | |||||
2001年10月21日 | オンデマンドCD-R | COR-12867 | ||||
2009年6月22日 | オンデマンドCD | コロムビアミュージックエンタテインメント | CORR-10281 | |||
KONAMI | ||||||
17th | 1998年11月6日 | Urban Angels | CD | KONAMI | KICS 7613 | |
2004年12月5日 | Urban Angels 2004 | Shine Records | SH-002 | |||
Shine Records | ||||||
18th | 2005年10月25日 | Harmoney -僕らのハーモニー- [注釈 18] | CD | Shine Records | SH-003 | |
ROPPONGI WAVE RECORDS | ||||||
19th | 2007年8月15日 | Feel Free | CD | ROPPONGI WAVE RECORDS | XNRW-10002 | |
テイチクエンタテインメント/Conitinental Star | ||||||
20th | 2011年9月21日 | OUR SONG with Tokyo New City Orchestra | CD | テイチクエンタテインメント/Conitinental Star | TECG-330051 | |
IVY Records | ||||||
21st | 2017年10月25日 | PRESENCE | CD + DVD (初回限定盤) |
IVY Records | QAIR-30013 | 225位 |
CD | QAIR-10100 | |||||
22nd | 2019年10月25日 | ROCKS | CD + DVD (初回限定盤) |
IVY Records | QAIR-30015 | |
CD | QAIR-10168 |
発売日 | タイトル | 形態 | 販売元 | 製造番号 | 順位[注釈 14] | |
---|---|---|---|---|---|---|
NECアベニュー | ||||||
1st | 1989年9月21日 | Just Urban Night | CD | NECアベニュー | 4988041300777 | |
1993年2月21日 | NACL-1510 | |||||
AIR FIELD | ||||||
2nd | 1991年7月21日 | ACOUSTIC NIGHT 1 ‐KINDNESS WAVE‐ | CD | AIR FIELD | AF001/ 2 | |
1997年7月31日 | KONAMI | KICS-7608/9 | ||||
フォーライフ・レコード | ||||||
3rd | 1996年12月18日 | Shinji Harada at Budokan '78〜Time Travel〜 | CD | フォーライフ・レコード | FLCF-3673 |
発売日 | タイトル | 形態 | 販売元 | 製造番号 | 順位[注釈 14] | |
---|---|---|---|---|---|---|
Shine Records | ||||||
1st | 2003年 | SHINJI HARADA COMPLETE BOX | CD | Shine Records | ||
フォーライフミュージックエンタテイメント | ||||||
2nd | 2012年7月4日 | 原田真二 35th Anniversary BOX<コンプリート FOR LIFE Years> | Blu-spec CD + DVD | フォーライフミュージックエンタテイメント | FLCF-5047 |
発売日 | タイトル | 形態 | 販売元 | 製造番号 | |
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フォーライフ・レコード | |||||
1st | 1986年3月5日 | Friday Night Club | VHS | フォーライフ・レコード | V68M4006 |
キティエンタープライズ | |||||
2nd | 1989年9月21日 | Live Act Urbangame | VHS | キティエンタープライズ | V58M4112 |
ハピネット・ピクチャーズ | |||||
3rd | 2005年3月25日 | OUR SONG and all of you (ライヴ・アット・武道館) | DVD | ハピネット・ピクチャーズ | HMBH-1009 |
4th | 2007年1月26日 | Shinji Harada MTV PREMIUM LIVE in duo | HMBH-1032 | ||
テイチクエンタテインメント/Conitinental Star | |||||
4th | 2013年2月20日 | Shinji Harada 35th Anniverary Special Live!! "The Load to the Light 1st Stage Final" | DVD | テイチクエンタテインメント/Conitinental Star | TEBG-58010/1 |
楽曲 | タイアップ | 収録作品 |
---|---|---|
OUR SONG | SONY「βマックス」CMソング | シングル「OUR SONG」 |
MODERN VISION | TOYOTA「セリカ」CMソング | シングル「MODERN VISION」 |
Breathe | 筑波万博「健康・スポーツ館」テーマ曲 | シングル「永遠を感じた夜」 |
SWEET HEART | 高砂殿 CMソング | シングル「SWEET HEART」 |
君にもっと近づきたくて | SHARP「ビデオカメラ」CMソング | シングル「君にもっと近づきたくて」 |
You are my Energy | フジテレビ系アニメ『F-エフ』エンディングテーマ | シングル「You are my Energy」 |
ROMANTIC DANCE | ロッテ・アーモンドチョコレート CMソング | アルバム『Urban game』 |
FLY (THEME OF I.S.A) | I.S.A. CMソング | |
永遠の時間-KINDNESS | イオングループ CMソング | アルバム『KINDNESS』 |
波を聴いた夜-Love Affair- | ロッテチョコレート「ラミー&バッカス」CMソング | シングル「波を聴いた夜-Love Affair-」 |
生命交響楽 | TBS系『いのちの響 生命交響楽』テーマソング | シングル「生命交響楽」 |
ひろしまから始めよう | 広島ホームテレビ「千本の傘プロジェクト」イメージソング | シングル「ひろしまから始めよう」 |
LOVE MIRACLE | セガサターン『ナイトゥルース』テーマソング | シングル「LOVE MIRACLE」 |
恋は500マイル | テレビ朝日『深夜水族館』挿入歌 | シングル「恋は500マイル」 |
文化放送『CLUB db』エンディングテーマ | ||
夢が踊りだす時 | はごろもフーズ「ディッパーシーチキン ティーンズ篇」CMソング | シングル「夢が踊りだす時」 |
海風 UMIKAZE | 日韓合作映画『白神渡海』主題歌 | シングル「海風 UMIKAZE」 |
薔薇と月 -ROSE AND MOON- | 岐阜県「花の都ぎふ祭り ひだ・みの花紀行」イメージソング | シングル「薔薇と月 -ROSE AND MOON-」 |
大和〜YAMATO The Global Harmoney〜 | 広島県呉市「大和ミュージアム」テーマソング | シングル「大和〜YAMATO The Global Harmoney〜」 |
Come On おじょママ〜I Love Luしー〜 | 関西テレビ『おじょママ!P』エンディングテーマ | シングル「Calling…」 |
広島の夢〜Dream of Hiroshima | 日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』広島ローカルテーマソング | シングル「Goodbye Tears」 |
アーティスト | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 収録作品(初出のみ) | 備考 / タイアップ |
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アワートレジャーズ | 僕らのハーモニー | 原田真二 | 原田真二 | 原田真二 | アルバム『NHK 天才てれびくんMAX MTK the 10th』 | |
杏里 | IMITATION LOVER | 井上鑑 | アルバム『TROUBLE IN PARADISE』 | |||
伊藤さやか | 1,000,000回 I Love You | Heart Box | 清水信之 | アルバム『ナンパ…して! ニュートラルSAYAKA』 | ||
岩城憲 & Tears Project | Believe | 岩城憲 | 原田真二 | シングル「Believe」 | ||
気まぐれMOONLIGHT | ||||||
宇都宮隆 | SET ME FREE | 原田真二 | アルバム『OVERTONE』 | |||
Tango | ||||||
Hello good day | ||||||
小椋佳 | ピラミッドふたつ | 小椋佳 | アルバム『折節の想い』 | |||
KATSUMI | You're my Love | 渡辺克巳 | 上杉洋史 | アルバム『奇蹟のゲーム』 | ||
吉川晃司 | フライデーナイトレビュー | 安藤秀樹 | 大村雅朗 | アルバム『パラシュートが落ちた夏』 | ||
ポラロイドの夏 | 麻生圭子 | アルバム『LA VIE EN ROSE』 | ||||
BIG SLEEP | ||||||
太陽もひとりぼっち | ||||||
心の闇(ハローダークネス) | 安藤秀樹 | アルバム『INNOCENT SKY』 | ||||
キャンドルの瞳 | 後藤次利 | シングル「キャンドルの瞳」 | ||||
Mis Fit | アルバム『MODERN TIME』 | |||||
選ばれた夜 | ||||||
永遠のVelvet Kiss | シングル「MODERN TIME」 | |||||
郷ひろみ | I FEEL MY LOVE WITH YOU | ヘンリー浜口 | 大村雅朗 | アルバム『ALLUSION』 | ||
サーティーズ・スコッチ | 売野雅勇 | アルバム『LABYRINTH』 | ||||
ぎりぎり燃えて | 来生えつこ | |||||
小泉今日子 | Love is Dreamy | 原田真二 | 水谷公生 | アルバム『Today's Girl』 | ||
酒井法子 | 涙がとまらない 〜HOW! AW! YA!〜 | 康珍化 | 松本晃彦 | シングル「涙がとまらない 〜HOW! AW! YA!〜」 | ||
雪の小鳥たちへ 〜Very Merry Christmas〜 | 康珍化 | |||||
沢田研二 | 8月のリグレット | 大津あきら | 井上鑑 | アルバム『NON POLICY』 | ||
ノンポリシー | 秋元康 | |||||
ゼロになれ | 覚和歌子 | 白井良明 | アルバム『耒タルベキ素敵』 | |||
SAYAKA | How do you do? | SAYAKA | Shine | Shine, Taigo Sato, Naoki Tanabe | シングル「ever since」 | Shine 名義 |
シブがき隊 | Like A Wolf | 原田真二・前川克也 | 原田真二 | シングル『5th Anniversary 12inch single X 3』 | 薬丸裕英のソロ曲 | |
シュガー | キスがいっぱい | さがらよしあき | 原田真二 | 瀬尾一三/コーラスアレンジ:古田喜昭 | シングル「キスがいっぱい」 | |
バースディ・スーツ | 毛利公子 | アルバム『Sugar Bean』 | ||||
玉井健二 | 櫻の樹の下で… | 佐藤大 | 小滝みつる | シングル「櫻の樹の下で…」 | メナード『スプリングフェスティバル』CMソング | |
月とブランコのキス | 西平彰 | シングル「月とブランコのキス」 | ||||
いけない葡萄 | 真間綾 | 国吉良一 | シングル「月とブランコのキス」 | 日本テレビ系『うるとら7:00』オープニングテーマ | ||
愛しているんだ | 秋元康 | 西村麻聡 | シングル「愛しているんだ」 | 東芝 CMソング | ||
銀河の夜 | 真間綾 | 国吉良一 | ||||
中川晃教 | 終らないクリスマス | 中川晃教 | ミッキー吉野 | シングル「終らないクリスマス」 | ||
中川勝彦 | 愛じゃない | 松尾由紀夫 | 白井良明 | アルバム『してみたい』 | ||
雨の動物園 | ||||||
中村あゆみ | 彼女はノーマル | 岩里祐穂 | 椎名和夫 | アルバム『Midnight Kids』 | ||
中村雅俊 | 翼のある少年 | 松井五郎 | アルバム『100年の勇気』 | |||
中森明菜 | 処女伝説 | FUMIKO | 小林信吾・北島健二 | アルバム『Stock』 | ||
早見優 | Sunrise Bay Cruzin’ | 原田真二 | 伊藤銀次 | アルバム『WOW!』 | ||
波間のTouch | ||||||
原田知世 | 異国の娼婦 | 秋元康 | 後藤次利 | アルバム『NEXT DOOR』 | ||
ひかる一平 | 胸騒ぎの放課後 | 松本隆 | 瀬尾一三 | シングル「胸騒ぎの放課後」 | ||
堀ちえみ | Jimmy's Girl | 売野雅勇 | 鈴木茂 | アルバム『Lonely Universe』 | ||
ミス・ロンリー・ユニヴァース | ||||||
松岡英明 | Absence | 川村真澄 | ホッピー神山 | アルバム『visions of boys』 | ||
松田聖子 | パイナップル・アイランド | 松本隆 | 大村雅朗 | アルバム『Pineapple』 | ||
ピンクのスクーター | ||||||
Vacancy | 銀色夏生 | アルバム『The 9th Wave』 | ||||
星空のストーリー | 来生えつこ | |||||
本気にS・O・R・R・Y | Seiko Matsuda | 笹路正徳 | アルバム『We Are Love』 | |||
Morning Beach 〜Spring Lakeにて | ||||||
上海ラヴソング | 矢野顕子 | 原田真二 | シングル「上海ラヴソング」 | |||
チャペルの小径 | 原田真二 | |||||
The Sound of Fire | シングル「The Sound of Fire」 | 2001国際オープンフィギュアスケート選手権大会 イメージソング | ||||
奇蹟の起る夜〜☆Kiseki no okiru yoru☆ | Seiko Matsuda, 原田真二 | |||||
あなたしか見えない | シングル「あなたしか見えない」 | |||||
奇蹟の起る夜〜☆Kiseki no okiru yoru☆ | Soundfly SONO | Franz Peter Schubert | ||||
愛♡愛〜100%♥Pure Love〜 | Seiko Matsuda, 原田真二 | 原田真二 | シングル「愛♡愛〜100%♥Pure Love〜」 | フジテレビ系『100%キャイ〜ン!』テーマソング | ||
Ding Dong | ||||||
Call me | 原田真二 | シングル「Call Me」 | ||||
This is the place 2003 | Seiko Matsuda | |||||
逢いたい | シングル「逢いたい」 | 大京ライオンズマンション CMソング | ||||
風色のkiss | ||||||
SEIKO with Crazy.T | Smile on me | 原田真二 | 原田真二 | シングル「Smile on me」 | TBS系「プロ野球中継」テーマソング TBS系「MLB中継・MLB主義」テーマソング | |
制服のぼたん | ||||||
八神純子 | ナイス・メモリーズ | アルバム『夢みる頃を過ぎても』 | ||||
山下久美子 | そばにいたいよ | 銀色夏生 | 後藤次利 | アルバム『アニマ・アニムス』 | ||
瞳いっぱいの涙 | 康珍化 | シングル「瞳いっぱいの涙」 | ||||
最後のドアーまで | 銀色夏生 | 後藤次利・萩田光雄 | アルバム『and Sophia's back』 |
WAVE / SHINJI BAND
原田真二&クライシス (SHINJI & CRISIS)
CRISIS / CRYSIS
with THE AIR
2000年以降
上記以外のライヴサポートミュージシャン
※小室哲哉は、クライシス結成前後に行われた日比谷野外音楽堂でのライヴ後、正式にメンバー加入を目指しオーディションを受けたが採用には至らなかった。
2000年〜 -「鎮守の杜コンサート」全国神社
「鎮守の杜コンサート」は現在、開催される地元で実行委員会を立ち上げてもらい、地元の人たちとじっくり作り上げていく。主に神社本殿にステージを作り、レーザー光線、地元の合唱団、ブラスバンド、ダンスチーム、和楽器、サンバ隊などとコラボ。幻想的かつ、お祭り空間を演出。当日は出演者・スタッフ・観客が一体になって達成感を味わい、このコンサートの最大のテーマである(平和のキーワードともなりえる)、大和民族に元来備わっていた、まず他者を思いやり共鳴しあう和の心(調和)、優しさの重要性を身をもって体感してもらい伝えている[137]。
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
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1978年(昭和53年)/ 第29回 | 初 | タイム・トラベル | 09/24 | 渡辺真知子 |