古井 由吉 (ふるい よしきち) | |
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誕生 |
1937年11月19日 日本・東京都 |
死没 | 2020年2月18日(82歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学修士 |
最終学歴 | 東京大学大学院ドイツ文学研究科修士課程修了 |
活動期間 | 1968年 - 2020年 |
ジャンル | 小説・随筆 |
主題 |
非社会的な場における男女の恋愛 生と死、過去と現在、男と女の狭間 古典や説話をモチーフとした私小説 |
文学活動 | 内向の世代 |
代表作 |
『杳子』(1970年) 『栖』(1979年) 『槿』(1983年) 『仮往生伝試文』(1989年) 『楽天記』(1992年) 『白髪の唄』(1996年) 『辻』(2006年) |
主な受賞歴 |
芥川龍之介賞(1971年) 日本文学大賞(1980年) 谷崎潤一郎賞(1983年) 川端康成文学賞(1987年) 読売文学賞(1990年) 毎日芸術賞(1997年) |
デビュー作 | 『木曜日に』(1968年) |
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古井 由吉(ふるい よしきち、1937年11月19日[1] - 2020年2月18日)は、日本の小説家、ドイツ文学者。いわゆる「内向の世代」の代表的作家と言われている[2]。代表作は『杳子』(1970年)、『聖』(1976年)『栖』(1979年)『親』(1980年)の三部作、『槿』(1983年)、『仮往生伝試文』(1989年)、『白髪の唄』(1996年)など。精神の深部に分け入る描写に特徴があり、特に既成の日本語文脈を破る独自な文体を試みている[3]。
東大独文科卒。1971年に男女の愛の微妙な心理の揺れをついた『杳子』で芥川賞受賞。その後『行隠れ』、『聖』『栖』『親』三部作などで、民俗学や病理学を駆使した刺激的な作風を展開している。
東京府東京市出身。港区立白金小学校から同高松中学校を経て、1953年4月、獨協高校に入学。隣のクラスに美濃部強次(古今亭志ん朝)がいた。同年9月、都立日比谷高校に転校。同級生に尾高修也や塩野七生、福田章二(庄司薫)がいた。
1956年3月、日比谷高校卒業。1956年4月、東京大学文科二類入学。同文学部独文科卒。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。東大の同期に蓮實重彦がいた。その後、金沢大学助手、同大学講師を経て、立教大学助教授に着任。教員として蓮實と再び同僚になる[4]。
大学教員の時期は、「日常に潜在する苦そのもの」を見た(講談社文芸文庫の自筆年表より)とするフランツ・カフカの研究に加えて、ロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホなどの翻訳をすすめる一方、1968年、処女作「木曜日に」を同人雑誌『白描』に発表、続いて発表した「先導獣の話」、「円陣を組む女たち」で評価される。
1970年3月付で立教大学を退職し、作家業に専念する。神経を病んだ女性・杳子と登山で出会った男を非現実的・幻想的なイメージを交えて描いた「杳子」(『文芸』1970年8月号)で、1971年に第64回芥川賞を受賞。古井を含むこの時期の作家は小田切秀雄によって「内向の世代」と命名され、「社会的問題やイデオロギーなど外部に距離をおいて、内に向っている作家たち」との批判を受けた(実際はこの一派の作家にそうした現実逃避の傾向は希薄であるとの反批判もある)。ことに古井は「朦朧派」(石川達三)や「退屈の美学」(後年の江藤淳による批判)との揶揄も受けたが、他方で秋山駿や柄谷行人らには擁護された。
その後も『杳子・妻隠』の延長線上にある作風の『行隠れ』(1972年)、『櫛の火』(1974年)などを経て、1977年から、後藤明生、坂上弘、高井有一とともに責任編集者として、平凡社から季刊雑誌「文体」を刊行。様々な媒体で旺盛に短篇を発表する。
1980年、都会に投げ出された男女の生活を描く『栖』で第12回日本文学大賞受賞。1983年、偶然出会った男女の間の濃密な性を描いた『槿』で第19回谷崎潤一郎賞受賞。1986年には芥川賞選考委員に選出され、翌年短編「中山坂」(『眉雨』所収)で第14回川端康成文学賞受賞。
1990年、宗教説話を引きながら生死に対する認識をたどった『仮往生伝試文』で第41回読売文学賞受賞。1991年、椎間板ヘルニアのため2ヶ月間入院、この体験が転機となり、『楽天記』(1992年)『白髪の唄』(1996年)と、老いの中で正気と狂気、生と死、現在と過去など様々な相克のあわいを継ぎ目なく往還する独特の作風に達する。
1997年『白髪の唄』で第37回毎日芸術賞受賞、以降は文学賞を一切辞退している。その後左右相次いでの眼の故障もあり(この経験は『聖耳』などの作品にも書かれている)、2005年に芥川賞選考委員を「執筆に専念する」として辞任。朗読会や講演も多数行っている。以降の作品に『辻』『白暗淵(しろわだ)』などがある。
『折々の馬たち』などの作品にも窺えるように、熱烈な競馬ファンとしても知られ、エッセイのみならず、自身の居住区付近の馬事公苑を散策したり、その近辺で見かけたとおぼしい馬から喚起される想念など、競馬にまつわる描写が作品に登場することも少なくない。晩年まで日本中央競馬会の機関誌『優駿』にエッセイを連載したり、デイリースポーツ紙上でGI競走の当日に自らの予想を寄稿していたこともある。
2020年2月18日午後8時25分、肝細胞癌のため東京都内の自宅で死去[5][6]。82歳没。
ロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホといった心理・想念を錯綜した記述で描く作家からの影響を礎としつつ、心理主義とは異なる手法と柔らかく明晰な文体で男女の奇妙な愛縁を描いたが、その作風の集大成とも言うべき『槿』以降はそうした明瞭な物語性を離れ、一貫した(自然主義や身辺雑記的でない)私小説的リアリズムによる随想的かつ小説的でもあるような作品を書き続けている。
(静謐だがしばしば性的な側面を持つ)男女の愛、認識論、民俗学、連歌や短歌、漢詩、神話や説話などの古典、記憶や追想、老耄などをライトモチーフとし、身辺の多岐にわたる事柄を又聞きならぬ「又語り」する体裁で、隠微な日常性にあふれた描写と同時に情景と心理のあいまいとした内奥を明晰かつ幻想的に描く作風、文法・人称・時間軸などの構成を意図的に脱臼させめまぐるしい想念の流れを映し出した眩惑的な文体を確立。また、以前は『円陣を組む女たち』など、僅かな作品でしか描いてこなかった戦争体験を、近年では積極的にモチーフとして採用し始めている(『野川』、『白暗淵』など)。『蜩の声』の作中には、戦時下あるいは戦後間もない頃の記憶が随所にちりばめられている。