大聖周帝 史思明 | |
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燕 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 燕 |
在位期間 | 759年 - 761年 |
都城 | 燕京 |
姓・諱 | 史窣干(初名)→思明 |
諡号 | 大聖周皇帝 |
生年 | 長安3年(703年) |
没年 |
順天3年3月9日 (761年4月18日) |
后妃 | 辛皇后 |
年号 |
応天 : 759年 順天 : 759年 - 761年 |
史 思明(し しめい)は、唐代の軍人[1]。燕の第3代皇帝。
突厥とソグド人の混血出身で、安禄山と同世代で同郷だったため親しい仲にあった。また、自身も6つの言語を解し教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。
至徳元載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った(安史の乱)。しかし、聖武2年(757年)に安禄山の次子の安慶緒が、父を殺害するとその後を継いで燕の皇帝と称した。史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立。やがて唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人達が自分の殺害を計画していることを知ると降伏を撤回し、天成3年(759年)3月、洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。だが、順天3年(761年)、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺された。