時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 永享7年(1435年) |
死没 | 永正8年2月19日(1511年3月18日) |
改名 | 兼敏→兼倶 |
神号 | 神龍大明神 |
墓所 | (吉田神社) |
官位 | 従二位、非参議 |
氏族 | 卜部氏嫡流吉田家 |
父母 | 父:卜部兼名、母:不詳 |
兄弟 | 兼倶、卜部兼昭 |
妻 | 不詳 |
子 | 兼致、卜部兼永[1]、清原宣賢、中御門宣秀室 |
特記 事項 | 吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。『神道大意』『日本書紀神代抄』など。 |
吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。卜部兼名の子。官位は従二位・非参議。本姓は卜部氏。吉田神社の神主。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[注 1]。
家系は神祇の四姓の一つである卜部氏の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興した。
永享7年(1435年)、卜部兼名の子として誕生。初め兼敏と称したが、文正元年(1466年)に兼倶に改名している。
始め神祇大副を務め、卜部氏の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と「中臣祓(なかとみはらえ)」について研鑚を重ね、後土御門天皇に進講したのを始め、公家達にも講義を行った。文明16年(1484年)、吉田神社に斎所として虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る大元宮を創建して、日本各地の神を祭ったが、伊勢神宮には反対された[2]。吉田神道の入門書であり、また根本経典でもある「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。
明応8年(1499年)に42歳で死去した子・兼致のために吉田山に寺院「神龍院」を創設し、その長老に息子の妙亀を就けた[3]。神龍院はその後梵舜など吉田家の人間が跡を継いだ[3]。
永正8年(1511年)、薨去。享年77。死後吉田社(現在の吉田神社)の境内に葬られ、神龍社にて、神龍大明神として祀られている。孫に吉田兼右[注 2][4]。
兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があった[2]。兼倶は、吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした[5]。