吉田 半兵衛(よしだ はんべえ、生没年不詳)とは、江戸時代の京都の浮世絵師。
師系・経歴不明。宝永7年(1710年)刊行の浮世草子『寛濶平家物語』には、「むかしの庄五郎が流を、吉田半兵衛まなびながら、一流つゞましやかに書出しければ」とあるが[1]、この庄五郎も『寛濶平家物語』にその名があるのみで経歴は不明である。しかし『寛濶平家物語』に「京大坂の草子は半兵衛一人にさだまりぬ」ともあるように、貞享年間の関西における版下絵師として、江戸の菱川師宣に匹敵対抗する存在であった。作画期は寛文の頃から元禄6年(1693年)頃までとされ、元禄6年以降作品が見当たらないことから、その頃没したのではないかといわれる。井原西鶴著作の浮世草子の挿絵を描き、多くの図彙や浄瑠璃本の挿絵、『好色貝合』などの好色本を作画した。宝永6年刊行の『子孫大黒柱』巻之二、「心と書おぼえたる富貴草」には「半兵衛」という絵師が登場しており[2]、これが吉田半兵衛の事とされ、京都大宮通、のちに寺町通に住んだという。
※以下いずれも挿絵