地理 | |
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場所 | 東シナ海(七島灘[1]) |
諸島 | 薩南諸島 |
島数 | 12[1] |
主要な島 | 中之島、諏訪之瀬島、口之島、平島、宝島、小宝島、悪石島 |
面積 | 101.35 km2 (39.13 sq mi)[1] |
長さ | 160 km (99 mi)[1] |
最高標高 | 979 m (3212 ft) |
最高峰 | 御岳(中之島) |
国 | |
都道府県 | 鹿児島県 |
郡 | 鹿児島郡 |
市町村 | 十島村 |
最大都市 | 中之島(人口171人) |
人口統計 | |
人口 | 684人(2021年1月1日年時点) |
人口密度 | 6.75 /km2 (17.48 /sq mi) |
地名の由来については諸説あり、沖縄奄美地方で「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説や、宝島の「タカラ」が列島全体を指すようになったという説、宝島に乳房の形をした「女神山」があることから、アイヌ語で乳房を意味する「トカㇷ゚」に由来する説などがある[2]。トカラ人とは無関係である。
漢字表記が難しいことや「噶」がJIS X 0208に収録されていないため、トカラ列島[3]と表記されることが多いほか、吐喝喇列島という代用表記もみられる。過去には、七島(しちとう)、川辺七島(かわなべしちとう)、宝七島(たからしちとう)とも呼ばれた[1]。
令制国(旧国名)ではもともと薩摩国(川辺郡)に所属していたが、1897年に大隅国(大島郡)へ転属、1973年に薩摩国(鹿児島郡)へ再転属した経緯がある。
1884年に鹿児島県勧業課に勤めていた白野夏雲によって、七島の地理沿革を記した『川辺郡七島問答』という報告書がまとめられた。七島の地理沿革を記している[4]。
1897年4月1日の郡制施行により、上三島(黒島、硫黄島、竹島など)と吐噶喇列島(下七島)は川辺郡から大島郡へ転属。1908年4月1日の島嶼町村制施行により、上三島と下七島を合わせて十島村(じっとうそん)が発足した。第二次世界大戦後の1946年、下七島がアメリカ合衆国による沖縄統治を補完するため、北緯30度線以南の南西諸島は日本本土と分離されることが決定[3]。下七島はアメリカ軍軍政下に入り、上三島は日本に残された。下七島は食料など生活物資の入手と、沖縄戦で弾薬の薬莢などが残された一方で木材が不足していた沖縄本島などと、金属が不足していた日本本土を中継する利益のため密貿易「ミッコウ」(密航)の拠点となった[3]。
1952年2月4日には下七島が日本に返還され、2月10日に十島村(としまむら)として発足した。またそれまで十島村(じっとうそん)であった上三島は、同日付で村域を上三島、村名を三島村に変更して分立した。
1973年4月1日に十島村と三島村が大島郡から鹿児島郡へ転属となり現在に至る。
列島内には、同字異音であるが「御岳」と名付けられた山が複数存在する。中之島の御岳(おんたけ: 979m)、臥蛇島の御岳(おたけ:497m)、諏訪之瀬島の御岳(おたけ:796m)、平島の御岳(おたけ:243m)、悪石島の御岳(みたけ:584m)の5山が該当する。これら全てが各島の最高峰であり、中之島の御岳は吐噶喇列島最高峰でもある。
南西諸島島弧は北部、中部、南部に分けられるが、北部と中部の間(悪石島と小宝島の間)に「トカラギャップ」と呼ばれる地形的な窪みがあり、生物学的な境界にもなっているとされる[5][6]。
トカラギャップ付近では横ずれ断層型の地震が起きやすいことが知られており、吐噶喇列島では群発地震も繰り返し起きしている[7]。2016年12月に最大震度4、2021年12月に震度5強を観測する活動があった[8]。2021年4月、2023年5月にも同様の群発地震が発生している。
動植物相では悪石島と小宝島の間に「渡瀬線」という分布境界線がある[7]。マムシとハブなど九州本土と奄美群島や沖縄との動植物の境界である[7]。この動植物相の境界線(渡瀬線)がトカラギャップと重なるという見方もある[7]。
東シナ海から流れて来る海流は下七島付近で大きくうねるため、海の難所「七島灘」として古くから知られていた[9]。
平瀬は十島村に属し、口之島の東北東約13kmの海上にあり、約4平方kmの海域内に複数の瀬がある。平瀬から更に東北東約40kmに屋久島がある。また、横当島から南南東約57kmに奄美大島が、東約75kmにサンドン岩がある(国土地理院地図)。
宝島や、中之島にあるタチバナ遺跡[12]からは縄文後期や弥生中期の土器が出土している。
『続日本紀』には、699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが記されており、これらの地名はそれぞれ種子島、屋久島、奄美大島、徳之島に当たるが、度感を吐噶喇列島に比定する説もある。さらに遡る『日本書紀』に吐火羅(白雉5年)、覩貨邏(斉明天皇3年)の文字が見え、中国西域のトハラ人を指すとする説の一方で、日向や筑紫、「海見嶋」に漂着との記述がある事から、これを吐噶喇列島に比定する説もある[9]。
古くは朝廷から南海(南西諸島)に派遣される覓国使および遣唐使の海上目標や休憩地として認識されていた。中世の日宋貿易においても同様であった。
十島は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて南薩摩で権勢を誇った薩摩平氏の河邊氏一族の勢力下に入ったと見られる。河邊氏の差配地として薩南島(河邊十二島)が挙げられ、河邊十二島は「口五島」と「奥七島」に分けられ、奥七島を吐噶喇列島に比定している。
承久の乱(1221年)後は得宗家被官の千竈氏の差配地となる[13]。鎌倉時代の1227年(安貞元年)に薩摩国川辺郡となる。ただし、鎌倉時代に朝廷や政権の実効支配が及んでいたかどうかは不明である[14]。
また十島の各島には平家の落人伝説もあり、平家末裔を称する島司があり、島の実権と祭祀を掌握していたと言う。もっとも、探検家笹森儀助や歴史学者森克己は、上三島の硫黄島の伝承を例に挙げ、これらの末裔と称するは仮冒であり、歴史的知見は一切ないものとみている。むしろ12 - 14世紀に掛け隆盛した熊野水軍による熊野信仰がこの地域に進出した影響をあげている[注 1][15]。
15 - 16世紀には種子島氏の勢力も及ぶ。1450年(宝徳2年)、朝鮮の船が難破して臥蛇島に漂着、生存者の内2名は薩摩、2名は琉球王国に連行される。これをもって臥蛇島などが日琉両属体制にあったとする説がある[16][9]。
中近世(16 - 18世紀)には吐噶喇列島の海域を本拠に薩摩と琉球の間の交易を取り持つ海上交易勢力としての七島衆が現れる。薩摩藩による琉球侵攻では薩摩兵の水先案内人を務め、琉球にも入り死者も出ている。一方で薩摩の内情を琉球王府に伝えるなど、日和見的立場を取っていた[注 2][15]。琉球侵攻以降、吐噶喇列島は薩摩藩島津氏の支配地となり、七島地頭(島津家臣)と七島郡司(七島衆)が置かれる[16]。
文政7年(1824年)には宝島にイギリス船が来島し、牛を略奪したイギリス人1名が射殺される宝島事件が起きた。翌年の文政8年(1825年)には異国船打払令が出された。
太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)8月、疎開船「対馬丸」が悪石島沖で米軍に撃沈され沈没した(対馬丸事件)。
1946年(昭和21年)8月、引揚者や復員兵を乗せ密航(当時は米軍統治下)した宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没、50人の犠牲者を出した[9]。
2018年11月に悪石島にのみ伝わる「仮面神ボゼ」が、ユネスコの世界無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」の構成資産の一つとして登録された[20]。
トカラ馬は小型(体高100-120cm)の日本在来馬種で、明治30年頃に喜界島から宝島に導入され、かつては農耕馬として運搬や畑作業を手伝っていた。1953年には鹿児島県の天然記念物に指定されている。中之島には、観光向けのトカラ馬牧場[21]がある。
鹿児島県鹿児島郡十島村中之島字南平の御岳にテレビ放送の中之島中継局がある。