周化人

周化人
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1903年[1]
死去: 1976年
イギリス香港
出身地: 清の旗 広東省高州府化州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 周化人
簡体字 周化人
拼音 Zhōu Huàrén
ラテン字 Chou Hua-jen
和名表記: しゅう かじん
発音転記: チョウ ホワジェン
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周 化人(しゅう かじん、1903年 - 1976年)は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。別名は億孚。号は達京

事跡

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1925年民国14年)、北京の中国大学に入学する。1929年(民国17年)、北平大学(現在の北京大学)に入学し、中国国民党左派の顧孟余に師事した。後に顧の紹介で汪兆銘(汪精衛)と知り合うことになる。1933年(民国22年)、汪の推薦により津浦鉄路管理局副局長に任ぜられた。1935年(民国24年)、イギリスへ留学してロンドン大学で学ぶことになる。

汪兆銘が重慶を脱出して日本の保護を受けるようになった頃、周化人も帰国して汪を補佐することになる。1939年(民国28年)9月、汪兆銘派の中国国民党組織部副部長に就任する。以後、汪の命により、北平上海香港で政治工作に従事した。翌1940年(民国29年)2月には中央秘書処宣伝組組長となった。

同年3月、正式に汪兆銘政権が成立すると、周化人は鉄道部常務次長に任ぜられている。1941年(民国30年)8月、社会行動委員会委員となった。10月、広東省政府委員兼広州特別市市長に任命されている。翌1942年6月まで、その地位にあった。同年12月、新国民促進委員会上海分会委員に転じる。1943年(民国32年)1月、全国経済委員会委員となった。翌年7月、上海市第1区行政督察専員に任ぜられる。

日本敗北、汪兆銘政権崩壊直前に、周化人は吉林へ逃れた。しかし戦後に結局逮捕され、上海市の提藍橋監獄に収監された[2]。その後、何らかの事情で釈放され、香港に逃れている[3]。香港では『中国文学史稿』などの書物を執筆した。

1976年、香港で病没。享年74。

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  1. ^ 『化州県志』966頁、『最新支那要人伝』70頁による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』899頁、『上海監獄志』は1902年光緒28年)としている。
  2. ^ 『上海監獄志』による。
  3. ^ ただし『化州県志』同上では、周の逮捕について言及していない。

参考文献

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  • 化州市地方志編纂委員会編『化州県志』広東人民出版社、1996年。ISBN 721800797X 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 『上海監獄志』(上海地方志弁公室ホームページ)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
関仲義
広州特別市長
1941年10月 - 1942年6月
次代
汪&#x5C7A