唐招提寺 | |
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金堂 | |
所在地 | 奈良県奈良市五条町13-46 |
位置 | 北緯34度40分32.1秒 東経135度47分5.4秒 / 北緯34.675583度 東経135.784833度座標: 北緯34度40分32.1秒 東経135度47分5.4秒 / 北緯34.675583度 東経135.784833度 |
山号 | なし |
宗派 | 律宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 盧舎那仏(国宝) |
創建年 | 天平宝字3年(759年) |
開山 | 鑑真 |
中興年 | 寛元2年(1244年) |
中興 | 覚盛(大悲菩薩) |
札所等 |
大和北部八十八ヶ所霊場 第26・27番 神仏霊場巡拝の道第24番(奈良第11番) |
文化財 |
金堂、講堂、乾漆鑑真和上坐像ほか(国宝) 礼堂、木造弥勒如来坐像、木造大日如来坐像ほか(重要文化財) 世界遺産 |
公式サイト | 唐招提寺 |
法人番号 | 9150005000294 |
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。開基(創立者)は唐出身の僧鑑真[1]である。鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語[2]で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。「唐律招提」とは「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった[3]。
鑑真(688年 - 763年)の渡日については、淡海三船撰の『唐大和上東征伝』(宝亀10年・779年成立)が根本史料となっている。唐招提寺の歴史については同書のほか、『招提寺建立縁起』、江戸時代のものであるが元禄14年(1701年)義澄撰の『招提千歳伝記』などの史料がある。『建立縁起』は承和2年(835年)に鑑真の孫弟子にあたる豊安が記した『招提寺流記』が原本であるが、この原本はすでに失われ抄出したものが『諸寺縁起集』(護国寺本、醍醐寺本)に収録されている[4][5][6]。
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」・「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため官の承認を経ず私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて社会秩序の乱れにつながっていた[7][8]。
こうした中天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないのでしかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時唐から出国することは国禁を犯すことであった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。1回目の渡航計画(743年)は、鑑真の弟子の如海の密告により船を出す前に発覚し、普照と栄叡が捕縛されてしまった。2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、唐最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画で遂に日本に帰る遣唐使船に遣唐副使の大伴古麻呂の機転で乗船が叶い、ようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた[9][10]。
こうして遣唐使船に同乗すると、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、鑑真は薩摩国に上陸した。翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)にたどり着いた。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7歳(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)に前述のように今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった[11]。
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル[12])。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている[13]。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を切妻造から寄棟造に改造したものとされている。すなわち、『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に「地主屋倉」として挙げられている3棟の倉のうちの一つがこれにあたるとみられる。他に新田部親王時代の建物はない[14]。
『招提寺建立縁起』に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、奈良時代の唐招提寺には、南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂3基、食堂(じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房、小子房、温湯室、倉などがあった。このうち、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築したもの、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった[15]。藤原清河は、鑑真が渡日した際の遣唐使の大使であったが、鑑真の乗った第二船と異なり、清河の乗った第一船は遭難して唐へ戻され彼は唐の地で没した。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物を移築した、もしくは清河の家族が建築費を負担した、の意に解されている[16]。これらの建物のうち、もっとも早く鑑真の在世中に建立されたものは講堂であった[17]。金堂の建立年代には諸説あったが、部材の年輪年代測定の結果、781年に伐採された材木が使用されていることがわかり、鑑真没後の8世紀末の建立であることが確実視されている[18]。『招提千歳伝記』によれば、唐招提寺の歴代住持は鑑真、法載、義静、如宝、豊安の順となっているが、このうち第4代の如宝の時代に金堂を含む伽藍の主要部が建立されたとみられる[19]。また、鎮守社として境内の東に水鏡天神社も建立された。
主要伽藍のうち、もっとも遅れて建立されたのは東塔で、『日本紀略』に弘仁元年(810年)の建立とある[20]。
平安時代中期以後、戒律護持が廃れたため唐招提寺は衰亡した[21]。とはいえ、保延6年(1140年)にはまだ金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などは残存していた[21]。
鎌倉時代になると、釈迦信仰・舎利(釈迦の遺骨)信仰や戒律復興の気運の高まりにともなって、鑑真と彼のもたらした舎利に対する信仰が復興した。まず中川寺の実範が来訪し、『授戒式』を撰述した[21]。さらに、笠置寺の解脱房貞慶が建仁3年(1203年)、唐招提寺にて釈迦念仏会(ねんぶつえ)を始めた[22]。
唐招提寺中興の祖とされるのは、四条天皇に菩薩戒を授けたこともある律宗高僧の覚盛である[21]。覚盛は寛元元年(1243年)に舎利会の創設や鑑真の遺徳顕彰などを行い[21]、さらに翌寛元2年(1244年)に正式に当寺に入寺し、再興した[23]。寺観の本格的な復旧整備を行ったのは覚盛の法灯を継いだ証玄で、諸伽藍の修理や仏像の造立などに尽力し、戒壇の創設も行った[21]。
鎌倉時代末期に入ると、祖父の亀山天皇の禅律振興政策を継承した後醍醐天皇からの崇敬を受けた。元徳2年(1330年)8月9日には、後醍醐帝は覚盛に対し、「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)[24]。仏教美術研究者の内田啓一によれば、後醍醐帝の腹心で護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)を務めた文観房弘真は真言律宗出身で、唐招提寺中興9世長老の覚恵も文観から付法(伝授)を受けていたため、この諡号追贈は文観の推挙によるものではないかという[24]。なお、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)には、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に文観と共に加わった高僧として「教円」という人物が登場するが、これは唐招提寺中興10世長老の慶円がモデルであるとされている[25](ただし史実として慶円が倒幕に加わったかは不明である)。
14世紀の南北朝時代以降、戦乱によって寺勢は再び傾き、寺領も多くが収奪され再び衰退した[21]。
江戸時代中期に入ると、護持院隆光が唐招提寺で授戒を受けた[21]。隆光はのち江戸幕府第5代将軍徳川綱吉とその生母である桂昌院の帰依を受け、綱吉と桂昌院は隆光との関係から唐招提寺にも帰依し、これを庇護して修理を行い[21]、元禄11年(1698年)には戒壇院を再興している[21]。その一方で、たびたび地震や雷火などの天災による被害を受け、享和2年(1802年)の火災では東塔(五重塔)などの重要建築を多く喪失した[21]。
明治となり神仏分離が行われると鎮守社の水鏡天神社も独立した。近代以降、明治から昭和にかけて、諸堂の修理・保存が施工されている[21]。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により宝蔵、開山堂が半壊、鼓楼も損害を受ける[26]。
1941年(昭和16年)には律宗戒学院の設立、1963年(昭和38年)には御影堂(旧興福寺一乗院宸殿の移築)の造立が行われた[21]。
また、鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。
鑑真和上の業績と名声を通じ、1978年(昭和53年)の日中平和友好条約の成立にも寄与し、高い評価を受けている[21]。
国宝。奈良時代(8世紀後半)建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われ、2009年11月1日 - 3日に落慶行事が行われた。寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。
正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)で、手前の7間×1間を吹き放し(壁、建具等を設けず、開放とする)とすることがこの建物の特色である。吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)、元亨3年(1323年)、元禄6年(1693年)から元禄7年(1694年)に修理されている。特に元禄の修理は大規模で、創建当初は垂木のすぐ上に瓦を葺いていたものを改めて、屋根勾配を急にし、桔木(はねぎ)を入れ、近世風の小屋組とした。そのため屋根高は創建時より2メートル以上高くなっている。外面の各所に打ち付けられた長押も元禄材で、創建当初は現状よりせいの低い長押が用いられていた。1898年から1899年の修理では小屋組の構造を再度改め、西洋式のキングポストトラスとしている。このように修理が重ねられて来たが、平成の大修理に伴う調査の結果、当初材が良好に残存していることが分かった。地垂木は9割が当初材を再用しており[27]、扉も当初材を加工して使用している[27]。2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には天応元年(781年)に伐採されたヒノキ材が使用されており[28]、建立は同年以降ということになる。[29]
堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。盧舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は盧舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は盧舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある[19]。
国宝。入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重要文化財、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(国宝、奈良時代)を安置する。1970年(昭和45年)に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた。また、講堂は僧侶が習学するための空間であったことから講師、読師が座る論義台が置かれる。
重要文化財。文化財指定名称は「旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関」。鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌前後の6月5日 - 7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院の宸殿で、慶安2年(1649年)の建立。一乗院が廃寺となった後、奈良県庁とされたり、1962年までは奈良地方裁判所の庁舎として使用され、1964年(昭和39年)に唐招提寺に移築された。障壁画は鑑真像に奉納するため、1971年から1982年にかけて日本画家東山魁夷によって新たに描かれたもの。
1970年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫。例年春と秋に期日を限って公開される。金堂にあった木造大日如来坐像(重要文化財)の他、「旧講堂木彫仏群」といわれる、もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期から平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されている。
南大門を入ると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)がある。かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出て金堂左右に達していた。金堂・講堂間の東西にはそれぞれ鼓楼(国宝)と鐘楼がある。講堂の東方には南北に長い東室(ひがしむろ、重要文化財)があるが、この建物の南側は礼堂(らいどう、重要文化財)と呼ばれている。講堂の西にあった西室、北にあった食堂(じきどう)は今は失われている。この他、境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、開山堂、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡などがある。
(参考)京都・壬生寺の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)は、唐招提寺旧蔵。
典拠:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
2014年(平成26年)に西室跡周辺などで三彩瓦(白・緑・黄の三色釉薬(うわぐすり)を施した瓦)が見つかった[43][44]。