いんのしまし 因島市 | |||||
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廃止日 | 2006年1月10日 | ||||
廃止理由 |
編入合併 因島市、豊田郡瀬戸田町→尾道市 | ||||
現在の自治体 | 尾道市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 |
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地方 | 中国地方(山陽地方) | ||||
都道府県 | 広島県 | ||||
市町村コード | 34206-8 | ||||
面積 | 39.76km2 | ||||
総人口 |
27,530人 (推計人口、2006年1月9日) | ||||
隣接自治体 |
福山市、尾道市、三原市、 豊田郡瀬戸田町、 愛媛県越智郡上島町 | ||||
市の木 | クロガネモチ | ||||
市の花 | 除虫菊 | ||||
市技 市の歌 |
囲碁 因島市のうた(1954年制定) | ||||
因島市役所 | |||||
所在地 |
〒722-2392 広島県因島市土生町箱崎区7番地4 | ||||
座標 | 北緯34度17分40秒 東経133度10分09秒 / 北緯34.29458度 東経133.16925度座標: 北緯34度17分40秒 東経133度10分09秒 / 北緯34.29458度 東経133.16925度 | ||||
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ウィキプロジェクト |
因島市(いんのしまし)は、かつて広島県にあった市。その領域は瀬戸内海に浮かぶ因島や細島、小細島の全部分および生口島の一部にわたっていた[1]。
廃藩置県前は大部分が備後国に属したが、生口島の領域は安芸国に属していた。なお、藩政期では安芸藩となっていた[2]。
2006年1月10日、隣接する豊田郡瀬戸田町と共に尾道市に編入されたことに伴い消滅した[3]。
同市被編入日の2006年1月10日以降は、旧来の町名に因島を付加して尾道市の町名を冠する。土生町を例として挙げると、2006年1月10日以降は因島土生町となる。以下に、同市被編入前日までの町名を列挙する。
因島島内
因島および細島、小細島、地ノ雀島、沖ノ雀島、ハカン島、四十島
因島および八重子島
生口島の一部、すなわち旧豊田郡東生口村域
生口島の一部と弁天小島、すなわち旧豊田郡東生口村域
市章の制定年月は1954年5月1日である[1][4]。造船すなわち船のスクリューと農業の鋤を表徴化したものである[1]。
シンボルマークの制定年月は1993年5月1日である[1][4]。
波と花と柑橘をモチーフとし、水軍と花、フルーツの島を謳いデザインされたものである[1]。
毎日新聞大阪本社の後援を得て歌詞を懸賞募集し、市章と同時に制定された。作詞・牧由起子、補作・竹中郁、作曲・樋口昌道。日本コロムビアが「因島小唄」とのカップリングでSP盤を製造している。
市の公式サイトでも紹介されていたが、尾道市への編入合併に伴い廃止された。以降も地域の行事では自主的に演奏されることがある。
市花は除虫菊で、制定年月は1983年11月12日である[1][4]。
青い海に映る可憐な白い花が観賞用として市民に親しまれることが所以である[1]。
市木はクロガネモチで、制定年月は1983年11月12日である[1][4]。
鉄の古称であるクロガネは市の主要産業の造船と深い関係があることが所以である[1]。
以下に因島市域の変遷を示す[5]。なお、表中の年月日は町村制および市町村合併による新自治体の施行年月日である。
市町村制 施行以前 の郡域 |
市町村制 施行以前 の村域 |
1889年 (明治22年) 4月 1日 |
1918年 (大正) 7年 1月 1日 |
1921年 (大正10年) 6月 1日 |
1948年 (昭和23年) 5月 3日 |
1949年 (昭和24年) 4月 1日 |
1953年 (昭和28年) 5月 1日 |
2006年 (平成18年) 1月10日 |
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御調郡 | 土生村 | 土生村 | 土生町 | 土生町 | 土生町 | 土生町 | 因島市 | 尾道市 |
田熊村 | 田熊村 | 田熊村 | 田熊村 | 田熊村 | 田熊町 | |||
三庄村 | 三庄村 | 三庄村 | 三庄町 | 三庄町 | 三庄町 | |||
椋浦村 | 三浦村 |
三浦村 |
三浦村 | |||||
鏡浦村 | 中庄村 | 中庄村 | ||||||
外浦村 | ||||||||
中庄村 | 中庄村 | 中庄村 | 中庄村 | |||||
大浜村 | 大浜村 | 大浜村 | 大浜村 | 大浜村 | 大浜村 | |||
重井村 | 重井村 | 重井村 | 重井村 | 重井村 | 重井村 | |||
豊田郡 | 洲江村 | 東生口村 | 東生口村 | 東生口村 | 東生口村 | 東生口村 | ||
原村 |
同市が尾道市に被編入となったため編入前日までの任期となった。以下に各役職を列挙する。
歴代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 脚注 |
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1代 | 安松延二 | 1953年5月17日 | 1957年4月 | [6][11][注 1] |
2代 | 安松延二 | 1957年5月 | 1961年 4月 | [6][11][注 2] |
3代 | 安松延二 | 1961年 | 5月1963年12月 7日 | [6][11][注 2][注 3] |
4代 | 麓新助 | 1964年1月23日 | 1967年3月 9日 | [6][11][注 3][注 4] |
5代 | 伊賀常太郎 | 1967年4月28日 | 1971年4月27日 | [6][11] |
6代 | 伊賀常太郎 | 1971年 | 4月28日1975年 4月27日 | [6][11][注 2] |
7代 | 伊賀常太郎 | 1975年 | 4月28日1979年 4月27日 | |
8代 | 平原清 | 1979年 | 4月28日1983年 4月27日 | [6][11] |
9代 | 楠見昭二 | 1983年 | 4月28日1987年 4月27日 | |
10代 | 岡野敬一 | 1987年 | 4月28日1991年 4月27日 | |
11代 | 岡野敬一 | 1991年 | 4月28日1995年 4月27日 | |
12代 | 岡野敬一 | 1995年 | 4月28日1999年 4月27日 | |
13代 | 村上和弘 | 1999年 | 4月28日2003年 4月27日 | |
14代 | 村上和弘 | 2003年 | 4月28日2006年1月 9日 | [6][11][注 5] |
平成の大合併の当初、因島市の市長・村上和弘は、芸予諸島の中核都市「しまなみ市」(仮称)を模索しながら段階的に合併を進めて行く方針だった。まず、島同士ということから因島市の経済圏である愛媛県の上島諸島の4町村との越県合併を試みたが、実現しなかった。
次に生口島の瀬戸田町に対等の新設合併方式を申し入れた。瀬戸田町は因島市と確執を抱えており、町行政はまずは三原市との合併を模索した。しかし、町議会で反対が1票差で上回り、合併交渉は中断された。その後、住民投票の結果を受けて瀬戸田町と因島市の間で協議が行われたが、瀬戸田町議会の決議によって立ち消えになった[12]。
結果的に合併相手のいなくなった因島市と瀬戸田町に対して、尾道市が合併を持ち掛けた。財政難の両市町は尾道市の提案を受け入れ、それぞれ合併協議に入った。尾道市側としては、合併特例債がなければ因島市と瀬戸田町が財政再建団体に転落しかねず、広域行政の中核を担う自治体として看過できなかった。一方で、因島の市民・経済界の間では、海事事務所(国の出先機関)移転など、合併によるデメリットに反発する声も聞かれた[12]。
市の中枢部分のある島の名前から。
以下に、国勢調査に基づく人口推移を示す。
回 | 西暦 | 世帯数 (世帯) |
人口総数 (人) |
脚注 |
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7 | 1950年 | 9,135 | 41,960 | [1][注 6] |
8 | 1955年 | 9,092 | 41,164 | [1][注 7] |
9 | 1960年 | 9,736 | 41,502 | [1] |
10 | 1965年 | 10,284 | 41,128 | |
11 | 1970年 | 11,193 | 41,729 | |
12 | 1975年 | 11,877 | 41,683 | |
13 | 1980年 | 11,671 | 38,579 | |
14 | 1985年 | 11,729 | 37,239 | |
15 | 1990年 | 11,113 | 32,640 | |
16 | 1995年 | 11,073 | 30,300 | |
17 | 2000年 | 10,999 | 28,187 | |
18 | 2005年 | 10,863 | 26,677 | [14][注 8] |
なお、尾道市被編入後の2012年における因島市域の人口は、25,673人である[15]。
農業ではミカンや八朔などの柑橘類の栽培が行われている。かつては除虫菊の栽培が盛んだったが、産業としての栽培は廃れている。工業では造船業が主力産業である。1960年代後半から1970年代初頭にかけては造船業が盛んだったが、オイルショック以降は不況となり、1987年には日立造船が撤退した(現在は復活)。
同市は、廃止時点において鉄道未通過である。そのため、鉄道を利用するためにはしまなみ海道もしくは航路にて本土に行く必要がある。
尾道線(土生港 - 尾道駅・新尾道駅) 福山線〈シトラスライナー〉(土生港 - 福山駅) 広島線〈フラワーライナー〉(土生港 - 広島バスセンター)
高規格道路
国道
主要地方道
一般県道
土生商船
瀬戸田運航
瀬戸内クルージング
芸予観光フェリー
弓削汽船
家老渡フェリー汽船
三光汽船
三光汽船
長江フェリー
因島市
因島北部
生口島
因島北部
生口島
福山大学生命工学部附属内海生物資源研究所
市内に専門学校はない。
同市廃止時点では、市内にその他の教育機関に該当する教育機関はなかった。しかし、同市が尾道市被編入後に広島県立三原特別支援学校瀬戸田分級が尾道市立大浜小学校跡地に移転した。なお、同校は2012年4月1日に広島県立尾道特別支援学校しまなみ分校と改組された。
才賀藤吉が1912年(明治45年)1月に事業許可をうけ7月因島電気を設立[22]。発電所(瓦斯力、出力30kW)を田熊村に建設し1915年(大正4年)5月事業開始。供給区域は御調郡土生村、三庄村、田熊村[23]のちに御調郡7ヵ村、豊田郡1町6ヵ村、愛媛県越智郡生名村に拡張した[24]。1922年(大正11年)5月に瀬戸内海横断電力に譲渡[25]。
2003年(平成15年)3月31日に、同市市制施行50周年記念により因島市名誉市民条例が制定される[9]。 同年9月22日に、実際に3人の同市出身者が選定された[9]。
氏名 | 生没年 | 出身地 | 選定年月日 | 表彰内容 | 脚注 | 備考 |
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本因坊秀策 | 1829年 1862年 |
外浦町 | 2003年 9月22日 |
同市が囲碁を市技に 選定する礎を創立。 |
[9] | 郷里の石切神社に同人の顕彰碑がある。 |
久保田権四郎 | 1870年 1959年 |
大浜町 | 2003年 9月22日 |
同市の道路や施設の 建設費用を寄付。 |
[9] | 広島県立尾道特別支援学校しまなみ分校 の敷地内には、同人の記念公園がある。 |
宮地茂 | 1914年 2005年 |
土生町 | 2003年 9月22日 |
福山大学と 福山平成大学設立。 |
[9] | 同人は広島県福山市名誉市民でもある。 |
2005年2月5日以後
自動車や軽自動車、二輪車などは福山市高西町に中国運輸局広島運輸支局福山自動車検査登録事務所や軽自動車検査協会広島主管事務所福山支所があり、同市を福山ナンバーとして統括している。 なお同市被編入時点では、福山ナンバーは中四国9県で唯一県名以外の地名が入ったナンバープレートであった[注 18]。
因島市の上水道の供給は、藤井川上水道企業団、不足する場合に福山市から「友情送水」を受けていた。このため水道料金は高めの価格となっており、1970年時点では広島県で一番高い水道料金(6トンまで450円、以後1トンあたり90円)となっていた[28]。