国民抵抗軍(こくみんていこうぐん、National Resistance Army, NRA)は、ウガンダの旧反政府勢力国民抵抗運動の軍事部門で、現ウガンダ国軍であるウガンダ人民国防軍 (UPDF) の前身。
1980年に結成された2つの反政府勢力ヨウェリ・ムセベニの人民救済軍 (PRA) とユスフ・ルレのウガンダ自由戦士 (UFF) が1981年に統合して結成された。当初は27人でありムセベニの副官にはルワンダ難民のフレッド・ルウィゲマや後のルワンダ大統領となるポール・カガメなどがいた。政治部門も統合され、ウガンダ愛国運動から国民抵抗運動となった。2月27日のムベンデ県の兵営の攻撃から始まり、ミルトン・オボテ政権のウガンダ民族解放戦線 (UNLF) はオイテ・オジョク参謀総長が1983年にヘリコプター事故で亡くなるまで優勢であったが、スウェーデンに亡命していたムセベニの「オボテが北部人のみを優遇している」とする宣伝活動とUNLFの内部分裂で次第に弱体化し、NRAは抵抗議会で人心を掌握し少年兵を含む徴兵[1]で次第に勢力を増した。オジョクの後任にスミス・オポン・アカク准将が選ばれると、ランゴ族であったためにアチョリ族の不満が高まり、1985年7月のバジリオ・オララ=オケロ及びティト・オケロのクーデタに至った。1986年ムセベニの弟、サリム・サレー率いるNRA部隊がカンパラに迫ると、UNLF部隊は北へ逃れた。ムセベニは1月29日に大統領就任を宣言し、国民抵抗軍は正規軍とされた。UNLFはウガンダ人民民主軍 (UPDA)などに分裂しつつ戦闘を続けたが、停戦に至ると、それに不満をもったアチョリが神の抵抗軍 (LRA) に流れるなどして北部での人権侵害が継続した。後にムセベニはLRA幹部を国際刑事裁判所に提訴したが、程度の差こそあれ、NRAも同様の行為を行っていた[1]。
1990年以降のルワンダ紛争に際して、NRAのルワンダ人がルワンダ愛国戦線 (RPF) の主力であったため批判を受け、RPFがルワンダで政権を獲得すると、NRAは1995年憲法に伴いウガンダ人民国防軍に改編された。