国鉄581系電車 国鉄583系電車 | |
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基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 東日本旅客鉄道 西日本旅客鉄道 北海道旅客鉄道(運行なし) |
製造所 |
川崎車輛→川崎重工業 日立製作所笠戸事業所 日本車輌製造 東急車輛製造 汽車製造 近畿車輛 |
製造年 | 1967年 - 1972年 |
製造数 | 434両 |
運用開始 | 1967年10月1日 |
運用終了 | 2017年4月8日 |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067 mm |
電気方式 |
直流1,500V 交流20,000V・60Hz(581系) 交流20,000V・50/60Hz(583系) |
最高運転速度 | 120 km/h |
起動加速度 | 1.3 km/h/s(MT比1:1) |
減速度(常用) | 3.5 km/h/s |
減速度(非常) | 5.0 km/h/s |
全長 | 21,000 mm |
全幅 | 2,950 mm |
全高 | 4,240 mm |
車体 | 普通鋼 |
台車 |
DT32系/TR69系 インダイレクトマウント空気ばね台車 |
主電動機 | MT54形直流直巻電動機 |
主電動機出力 | 120 kW |
駆動方式 | 中空軸平行カルダン駆動方式 |
歯車比 | 22:77 (1:3.50) |
定格速度 |
72.0 km/h(全界磁) 116.0 km/h(40%界磁) |
制御方式 | 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁 |
制御装置 | CS15系制御器 |
制動装置 |
発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ 勾配抑速ブレーキ |
保安装置 |
ATS-S(登場時) ATS-SN・ATS-P・ATS-Ps(JR東日本所属車) ATS-SW・ATS-P・ATS-Ps(JR西日本所属車) |
国鉄583系電車(こくてつ583けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した動力分散方式の交直両用特急形寝台電車。
本項では、交流60Hz対応の581系電車についても解説を行う。
高度経済成長期のひっ迫する輸送力への対応および車両効率の向上を目的として開発された寝台電車である。
寝台設備を持つ動力車は、20世紀初頭にアメリカのインターアーバン(都市間電車)や1950年代中ごろに西ドイツの寝台気動車VT10.5形など数例が見られ営業運転も行われていたが[注 1]、静粛性の問題や昼夜兼行とする経済的メリットが存在しなかったことから、いずれも少数・短期間にとどまった。本格的な寝台電車は本系列が世界で最初のものである。
最初に投入された列車愛称にちなみ、月光形電車の呼称がある。
本系列の開発の経緯は、以下に示す1960年代の日本の鉄道の事情が関係していた。
これらの解決策として、昼夜兼行で使用可能な寝台兼用電車を設計することになったものである。
当初は寝台車の接客設備水準から昼行列車では急行列車の運用が想定されていたが[注 4]、昼行運用を平均時速が遅い急行列車で運用する場合は充分な転換時間が得られないことや居住性を考慮した上で「Bロネ[注 5]の3段化」が望ましい反面で大幅な定員減[注 6]がネックによる収入減になるなどの理由から、特急形電車として設計された[注 7]。速度の問題も軌道強化や複線化により寝台電車を特急として増発させ昼夜休まずに運用する構想が立てられ[6]、その結果として以下のメリットが発生した。
1967年(昭和42年)に直流・交流60Hzに対応する581系が、翌1968年(昭和43年)以降の増備は電動車を直流・交流50/60Hzの3電源対応とした583系が落成した[7]。
それ以前の国鉄特急形電車がボンネット形の先頭形状と低い屋根による速度感の強い外観だったのに対し、本系列は寝台スペースの確保のためにほぼ車両限界いっぱいまで広げられており車高が高く、車体側面を垂直[注 9]とし国鉄特急形電車としては初めて前面貫通路が設置された。
従来の特急形電車では静粛性から電動発電機 (MG) と空気圧縮機 (CP) を客室から遠ざけるため車両先端のボンネットに搭載していたが、本系列は先頭車の貫通構造と寝台列車では昼行列車以上の静粛性を要求されることから機器類と客室の分離は必須であるためクハネ581形では容量150kVAのMGおよび容量2,000L/minのC2000形CP[注 10]を搭載する側通路構造の機器室を運転台後位に設置した。
運転台窓配置は従来の特急型から設計変更され、前窓は151系や481系などの曲面ガラスを使わず、新幹線0系電車と同じく平面ガラスで構成された。側窓は0系同様に傾斜させることで屋根部との面変化を少なくした。ただし、0系は流線型であるため側窓の1枚は正面と側面を繋ぐ形で斜めに配置しているが、本系列では側窓を同表面で構成し在来線の車両限界の制約から0系よりも傾斜が強い[8]。このため側窓後部から屋根へのデザイン処理は独特となり、後に新幹線951形電車や新幹線100系電車でも採用された。
正面愛称表示器は、183系以降の貫通型・非貫通型先頭車のそれと比べ横長かつ天地の寸法が小さい。
塗色は在来特急車の窓周り赤色(赤2号)に代わって窓周り青色(青15号)とした[7]。この色は20系客車などの寝台車に使われているものと同じであるほか、当初は新大阪で東海道新幹線に接続するため新幹線と共通するイメージを持たせることも考慮された[8]。地色のクリーム色も青15号との相性から、在来特急車のクリーム4号からクリーム1号として落ち着いたイメージを持たせた。塗り分けは「こだま形」のものを踏襲したが、窓周りの青は寝台車としての性格を強調するため幅広となった[8]。また、運転台前面上部は反射防止のため青15号で塗装された。
客扉は戸袋ができるのを避けるため折戸とし、腐食防止のためステンレス製とした。また、側面出入口付近に本系列独自の正方形とした20コマ対応電動巻取式方向幕が装備され新製時より使用された[注 12]。
貫通扉のスタイリングは、開発担当する車両メーカー設計陣のほか鉄道車両工業会に当時設けられていた鉄道工業デザイン委員会のメンバーが加わって検討が行われ、貫通扉と幌を覆う構造・運転台の窓構成・大きな車体断面から先頭部にかけての形の変化などが議論された[8]。
貫通路方式は将来の列車分割・併合を見越したもので連結器もボンネット形で採用された自動連結器とカバーの構成から密着連結器に変更された。当時の特急列車は長距離輸送の主役であり、優等列車の先頭形状には優雅さが求められたことから、貫通扉・幌・さん板を隠す左右2分割式外扉を設置し[注 13]、表面の特急マークも外扉の左右2分割式である[8]。
デザインも含めてこれらは後年の国鉄特急形電車に影響を与えた[注 14]。
しかし、当時の電車特急は長編成での運行が基本であり分割・併合が実施されることはなく、後に正面デザインは前面貫通型をベースとしつつも貫通扉路を省略した先頭車(クハ481形300番台など)が登場することとなった[注 15]。なお、本系列は非貫通型先頭車登場前に製造が終了したため落成した先頭車はすべて貫通型である。
また腐食や寒冷地での隙間風防止の観点から外扉の溶接を実施した車両が存在し、中にはクハネ581-7(→クハ715-3)のような事故復旧時に非貫通型に改造された車両もある。
国鉄分割民営化前後、特急列車の短編成化と分割・併合運転が増加し、本系列も含め従来は使用することがなかった貫通型先頭車を活用する例がでてきた(詳細は後述)。また681系や285系のように設計当初から分割・併合を視野に入れ本系列に類似した外見・構造を持つ貫通型先頭車が登場している。
当初はB寝台車兼普通車(1969年までは2等座席・寝台)モハネ581形・モハネ580形・クハネ581形・サハネ581形と食堂車サシ581形のみが製造された。これはA寝台車(1969年までは1等寝台)については昼間に使用する際に特急列車用グリーン車(1969年までは1等車)に必要な居住性を確保する方策がなかったためである。食堂車についても車体断面形状・側窓・冷房装置等を他形式と同一とした。
B寝台車の寝台の配置は座席車としての運用を考慮し、20系までの寝台客車で標準としていた枕木方向に人が寝る片側通路式ではなく、座席車運用時に4人掛ボックスシートとして使用できる中央通路式で線路方向に人が寝る「プルマンスタイル」とした。そのため上段・中段寝台用にプルマン式A寝台車と同様の明かり窓を設置する。
単なるインテリアではなく体重を支える寝台を大きく移動させるため、その設計には苦心したことが伝えられている。例えば荷物棚の支えの腕は実際には上段の重量を受けるようになっていて、車体の構体に接続されている。また中段と上段は昼間は天井に収められているが、取り付け時には「荷物棚をいったんハネ上げておき、その時に斜め上から中段を下ろす。その後戻した荷物棚はその上から現れる上段の下側に収まる」と構造になっており「川崎車両の人が考えてくれた」という。他にも「いろいろな人がアイデアを出してできた車だった」という[9]。
寝台幅は従来の52cmから居住性改善のため、上段・中段寝台については70cmとし、下段については座席幅2人分を確保するため1等開放寝台並の106cmとなった[注 18]。
昼間使用時の4人掛ボックスシートについても、通常は特急車には片側向きの座席が期待される所にボックスシートではあったが、人間工学に基づいて設計された深い背ずりと1,970mmのシートピッチにより、その居住性は客車における一般型1等車(並ロ)に匹敵するものであり[注 19]、同時期の181系や485系グループなどの回転式クロスシートに対しても決して劣るものでなかった。ただしボックスシートの構造上リクライニング機能は搭載されていない。また、通路側の乗客に配慮して通路側の肘掛けには折り畳み式の小テーブルと灰皿が内蔵された。
食堂車を除く各車両では寝台使用時を考慮し、車端部にトイレは2基、洗面台は3基設置としたほか、開閉可能窓による外開式非常口を備えた乗務員室が設置された。これにより車体外観を含めて本系列の独特のスタイルが形成されている。
窓の日よけは、通常のカーテンや布製ブラインドでは寝台セット時に邪魔になるため、近畿車輛が「コンビット窓」として商品化した、2枚のガラスの間にベネシャンブラインドを仕込む方式とした[10][注 20][注 21]。ブラインドの上下は窓上部に設けたハンドルの手動操作による[注 22][注 23]。このブラインドはその形状・色彩から内装だけではなく外見上も良く目立つものとなった。これ以外にも、サシ581形から採用されたFRP製座席や、折りたたみ可能な片持式テーブルなどは、同時期以降における他形式の食堂車に波及した。
冷房装置は、風の吹出方向および車両限界の関係から新設計した小型のAU15形分散式冷房装置を寝台区画ごとに搭載。先頭車に8基、パンタグラフを搭載しない中間車は9基搭載するが、パンタグラフを2基搭載するためモハネ580・582形は4基に制約されることから、容量不足に対処するため機器室を設置した上で床置タイプのAU41形を3基搭載する。
Mn車(モハネ581・583形)には山岳区間での使用も考慮した抑速ブレーキを搭載した自動ノッチ戻し機構付きのCS15系制御装置を搭載し、ユニットを組むM'n車(モハネ580・582形)も含む8基の定格出力120kWのMT54系主電動機を制御するMM'ユニット方式を採用した。
交流電化区間では交流を直流に整流して用いる401系・421系電車から一貫した手堅い間接式の機器構成が踏襲されており、M'n車には主変圧器・主整流器などの機器とPS16B形菱形パンタグラフに降雪対策として押上げ力の強化や構造の簡素化を施工したPS16D形を搭載する。
台車は車重の増加に伴い、DT32系台車の板厚を増して軸受等を強化した上で枕ばねをベローズ式からダイアフラム式に変更したDT32D形(動力車)・TR69D形(付随車)を採用した。
これらの構成は前後して登場した485系グループと同等である。したがって本系列ともども485系グループとの併結、混結も可能であり、営業運転では分割民営化後に京都総合運転所所属車を充当した「シュプール号」において以下の実績がある。
どちらも加速力補強という観点から電動車比率が高められた。
動力車を寝台車に用いるという特殊事情から遮音・防振の対策は非常に徹底されており、その後に登場した寝台客車と比較しても遜色のない水準にある。
電化区間の仕様用途によって、以下の通りの製造が成されている[11][12]。
1967年・1968年に京阪神地区発着の九州直通特急列車用に製造されたグループで、電動車ユニットが交流60Hz対応。第11回(1968年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
日立製作所・日本車輌製造・川崎車両/川崎重工業・近畿車輛が製造を担当した。
1968年(昭和43年)10月の東北本線青森電化ならびに山陽本線・九州地区の増発にあわせたダイヤ改正に際して開発されたグループ。製造は1972年まで前述の4社に加え汽車製造・東急車輛製造も担当した。581系での使用実績の反映も含めて以下の設計変更や改良が実施された。
また、増備途中で主要機器の設計変更が行われた。以下の表に示す。
形式 | 車両番号 | 主制御器 | 主抵抗器 | 主整流器 |
モハネ583形 | 1 - 87 | CS15E形 | MR52B形 | |
88 - 106 | CS15F形 | MR52D形 | ||
モハネ582形 | 1 - 90 | RS22A形 | ||
91 - 106 | RS40A形 |
主変圧器の対応周波数に関係しない先頭車他の付随車は、581系から継続となった。
また583系登場と同時にサロ581形が、1970年にはクハネ583形が新たに製造された。
581系登場当初用意されなかった1等車(現・グリーン車)については、国鉄部内でも東北線昼行特急には不可欠[注 34]と考えられ、583系の開発と並行して座席専用車両のサロ581形が設計・製造された。
当初はA寝台車と1等車との設計も考慮されたが、国鉄職員で両系列の設計に関わった星晃は「寝台からリクライニング座席への転換方法についてアイデアはまとまった。下段はリクライニングシートを改造して水平に、側壁から仕切を引き出して個室にして、上段は天井に格納したものを降ろす方法だったと思う。だがモックアップを作っていては時間切れになる恐れが出てきたため採用を断念した」と後年雑誌インタビューで語った[1]。
1968年の3電源方式電動車の583系移行後も制御車はクハネ581形で増備されており、寒冷地である東北地区使用車は、警笛用シャッターや凍結防止用ヒーター回路が追加される等の対策が施工されていた。さらに東北地区では寝台特急の人気により編成を15両化することが検討された。しかし、15両編成にした場合クハネ581形の150kVAMGでは編成全体の電力容量を確保できないことから、1970年10月のダイヤ改正以降に増備される制御車は通勤形電車の冷房電源用として開発された210kVA MGを搭載する設計変更が行われ、新たに登場したのが本形式である[8]。
資料によってはクハネ581形が581系、クハネ583形が583系の制御車として製造されたように記述されているものがあるが、これは誤りである。
クハネ581形からの変更点は以下のとおり。
本形式は優先的に青森配置とされたため南福岡新製配置車は、最終増備となる27 - 30の4両のみである[注 36]。
本系列は以下の7回にわけて製造が実施された[14][15][要出典]。
配置 | 形式 | 日本車輌 | 近畿車輌 | 川崎車輌 | 日立製作所 |
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南福岡 | モハネ581 モハネ580 |
1 - 3 | 4 - 6 | 7 - 9 | 10・11 |
クハネ581 | 1・2・7・8 | 3・4 | 5・6 | ||
サハネ581 | 1 - 3 | 4 - 6 | 7 - 9 | 10 | |
サシ581 | 1 | 2 | 3 | 4 |
配置 | 形式 | 近畿車輌 |
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南福岡 | モハネ581 モハネ580 |
12 |
クハネ581 | 9 | |
サハネ581 | 11・12 | |
サシ581 | 5 |
配置 | 形式 | 日本車輌 | 汽車会社 | 川崎車輌 | 近畿車輌 | 日立製作所 |
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青森 | モハネ583 モハネ582 |
1 - 4・23 - 27 | 5 - 8・28 - 31 | 9 - 16 | ||
クハネ581 | 10・11・22 - 24 | 12・13・25・26 | 14 - 17 | |||
サハネ581 | 13・14 | 15・16 | 17 - 20 | |||
サロ581 | 1 - 4 | 5 - 7 | ||||
サシ581 | 6・12・13 | 7・14 | 8・9 | |||
南福岡 | モハネ583 モハネ582 |
32 - 38 | 17 - 19 39 - 45 |
20 - 22 46 - 48 | ||
クハネ581 | 27 - 30 | 18・19 31 - 34 |
20・21 35 - 37 | |||
サハネ581 | 27・28 | 21 - 23・29 | 24 - 26・30 | |||
サロ581 | 8 - 12 | 13 - 16 | 17 -19 | |||
サシ581 | 15・16 | 10・17・18 | 11・19 |
配置 | 形式 | 川崎重工業 | 日立製作所 |
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南福岡 | モハネ583 モハネ582 |
49 - 52 | 53 -55 |
クハネ581 | 38・39 | 40・41 | |
サハネ581 | 31 - 33 | 34・35 | |
サロ581 | 20 | 21 | |
サシ581 | 20 | 21 |
配置 | 形式 | 日本車輌 | 東急車輌 | 汽車会社 | 川崎重工業 | 近畿車輌 | 日立製作所 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
青森 | モハネ583 モハネ582 |
56 - 59 | 60 - 65 79・80 |
81 - 84 | |||
クハネ583 | 1・2 | 3 - 5 | 6・7 | 8 - 11 18 - 20 |
12・13 | 14 - 17 | |
サハネ581 | 36 | 37 | 46 | ||||
サロ581 | 22 | 23 | 28 | ||||
サシ581 | 22 | 23 | 28 | ||||
南福岡 | モハネ583 モハネ582 |
66 - 68 | 69 - 72 85 - 87 |
73 - 75 | 76 - 78 | ||
サハネ581 | 38・39 | 40・41 47・48 |
42・43 | 44・45 | |||
サロ581 | 24 | 25・29 | 26 | 27 | |||
サシ581 | 24 | 25・29 | 26 | 27 |
配置 | 形式 | 川崎重工業 |
---|---|---|
青森 | モハネ583 モハネ582 |
97 - 100 |
クハネ583 | 25・26 | |
サハネ581 | 53 | |
サロ581 | 33 | |
サシ581 | 33 | |
南福岡 | モハネ583 モハネ582 |
88 - 90 |
サハネ581 | 49・50 | |
サロ581 | 30 | |
サシ581 | 30 |
配置 | 形式 | 汽車会社 | 日本車輌 | 川崎重工業 |
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青森 | モハネ583 モハネ582 |
91 - 93 | 94 - 96 | |
クハネ583 | 21・22 | 23・24 | ||
サハネ581 | 51 | 52 | ||
サロ581 | 31 | 32 | ||
サシ581 | 31 | 32 | ||
南福岡 | モハネ583 モハネ582 |
101 - 103 | 104 - 106 | |
クハネ583 | 27・28 | 29・30 | ||
サハネ581 | 54・55 | 56・57 | ||
サロ581 | 34 | 35 | ||
サシ581 | 34 | 35 |
1985年3月、急行「きたぐに」に本系列を充当することになった際、同列車はA寝台の需要が高いことから[16]、同年2月から3月にかけてサハネ581形6両をA寝台車化する以下の改造が施工された[17]。
昼間使用時[注 37]は、普通座席車として使用される。
2007年に2、2010年に3・6が廃車。残存した車両も「きたぐに」臨時列車化による編成変更により、2012年までに全車廃車・廃形式となった。
車両番号 | 種車 | 改造施工[17] | 落成日 |
1 | サハネ581-25 | 広島工場 | 1985.03.20 |
2 | サハネ581-48 | 幡生工場 | 1985.02.26 |
3 | サハネ581-49 | 1985.03.30 | |
4 | サハネ581-50 | 1985.02.20 | |
5 | サハネ581-55 | 広島工場 | |
6 | サハネ581-56 | 幡生工場 | 1985.03.30 |
1989年(平成元年)にJR西日本が「シュプール号」用として、サロ581形に以下の改造を施工した区分番台である。
「シュプール号」のみならず「きたぐに」でも運用されたが、2010年までに全車廃車・廃区分番台となった。
車両番号 | 種車 | 改造施工 | 落成日 | 廃車日 |
101 | サロ581-12 | 吹田工場 | 1989.12.20 | 2010.08.20 |
102 | サロ581-27 | 1989.10.15 | 2007.06.06 | |
103 | サロ581-34 | 1989.12.20 | 2010.03.31 |
1983年(昭和58年)から等時隔頻発ダイヤを地方線区に波及させるため余剰となった本系列153両に寝台電車の基本構造を踏襲したまま客用扉増設ならびに運転台取り付け等による短編成化を行った上で419系・715系近郊形電車への改造を施工した。
本系列は1967年から1972年の間に434両が製造され、輸送需要の激増に大きく貢献した。しかし、以下のような問題点が生じてきた。
本系列は青森から西鹿児島(現・鹿児島中央)までを包含する広範囲の地域において、昼夜兼用で広汎に使用された。
国鉄時代は、南福岡電車区(現・南福岡車両区)→向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)・青森運転所(現・盛岡車両センター青森派出所)に配置された。本項では配置車両区別に解説するものとする[20]。
1967年(昭和42年)に581系44両(12両編成3本・予備車8両)が新製配置され、10月のダイヤ改正より以下の列車で運用が開始された。
運用は以下の形で設定された。
本来ならば夜行2編成・昼行2編成の計4編成必要なところ本系列では3編成で済み、昼夜兼行とする経済的メリットを証明した。
翌1968年(昭和43年)3月には予備車増強を名目に6両の追加製造が行われ配置50両(12両編成4本・予備車2両)となった。
大量増備が行われ141両(12両編成11本・予備車9両)配置となった。
運用面では「みどり」が485系化されたために日豊本線運用は消滅。以下の列車に充当された。
大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会に対応するため配置168両(12両編成14本)となる。
充当列車は「はと」の季節列車を定期列車化。新たに「明星」1往復が追加されたが、検修能力の関係から「明星」追加分は下り木曜日・上り水曜日運休という変則運用が採られた。
鹿児島本線西鹿児島(現・鹿児島中央)電化により、新たに「きりしま」のほかに九州島内の「有明」、本州内の「しおじ」にも充当されることになった。配置は232両(12両編成19本・予備車4両)。また、検修能力を改善した事により「明星」1往復の週1回の運休が解消された。
翌1971年には1編成分の製造が行われたために243両(12両編成20本・予備車3両)。
新たに「しらさぎ」で北陸本線での運用が開始されたが、冬期は降雪区間を走行することから一部車両に耐寒耐雪工事を行なって限定分離運用とされた[注 42]。
日本車輌製造と川崎重工業で12両編成1本ずつ計2本新造され配置は267両(12両編成22本・予備車3両)。
以後のダイヤ改正では、運用に以下の小変更が発生している。
1975年(昭和50年)3月10日の山陽新幹線博多開業に伴うダイヤ改正により、山陽本線から九州各線へ連絡する特急列車のうち、昼行列車が全廃された。南福岡区所属の本系列はすべて転出となった。
こうして、本系列誕生以来の車両基地であった南福岡電車区の配置は0となった。
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1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正で南福岡電車区から254両が転入し本系列の車両基地となった。また転入に際し、検修設備の関係からサロ581形を3号車から5号車へ、サハネ581形を2号車から4号車へ、4・5号車のモハネユニットを2・3号車へ組み替える編成変更を実施。当初は次の列車に充当された。
国鉄再建計画の一環として、オイルショック以降の鉄道輸送退潮や空港整備による利用客の航空機への転移に伴い、夜行列車の供給自体を調整した。この結果、在来の20系を置換えた2段式B寝台の新型客車のみでの運行で輸送需要がまかなえるようになり、居住性・メンテナンスなどに難のある寝台電車の必要性が薄れており、向日町配置車は夜行定期運用が減少した。
夜行では「金星」「明星」が終了。「雷鳥」もボックスシートが不評だったため2往復に減少など大幅な運用減により、12両編成5本と19両の計79両が余剰となりモハネ581・580形など初期製造の車両が定期運用から外れた[21]。余剰車は東灘信号場、野洲駅、二条駅などに分散留置された[21][注 45]。このうち、48両は715系0番台に改造された[21](詳細は次項で記述)。
このため編成組成も大幅に変更となり、従来の12両編成7本・10両編成9本・予備車のクハネ581形1両の計175両配置となった。
北陸本線系統の昼行急行列車は全廃となったが、夜行「立山」1往復は季節列車として残存。試験的に余剰車を投入し、本系列の格下げ運用が開始された。
山陽本線 - 九州地区での運用が終了となり、定期運用は「雷鳥」2往復と季節列車の急行「立山」のみとなった。
余剰休車が121両まで増加し、稼動車として残存する車両は85両(12両編成7本・予備車1両)まで減少した[22](前述の715系0番台改造から外れた31両と山陽本線 - 九州地区運用終了に伴って新たに90両が余剰[22])。
「雷鳥」「立山」の定期運用が終了し、新たに次の定期運用に投入された。
「立山」では運転時間が短く、12両中3両を寝台としても利用率は低かったため廃止。しかし、余剰車両の活用には有効であった結果から「きたぐに」に充当となり、編成もサロネ581形を組み込んだ12両編成となった。また、下り「きたぐに」のダイヤは改正前の「立山」のダイヤを米原経由に変更したうえで継承した。
この改正以後は「きたぐに」の新潟での間合い運用となる急行「庄内」や臨時「日本海」・「雷鳥」などの波動運用が増加した。
新潟寄のモハネユニット1組が減車され10両編成6本の計60両配置。419系・715系改造車両以外の余剰車はすべて廃車となった。
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東北本線全線電化完成による1968年10月1日ダイヤ改正を前に同年6月から青森運転所に84両(13両編成6本・予備車8両)が新製配置された。
編成出力は勾配区間を考慮して西日本地区の6M6Tから8M5Tに強化されたほか、9月9日からは「はつかり」に充当されていたキハ81系の改正に伴う転配ならびに改造日程などから、常磐線経由のまま前倒しで置換えられ[注 47]、以下の列車に充当された。
配置が132両(13両編成10本・予備車2両)となり増発が行われた。
本増備分から制御車が将来の15両編成化を見越したクハネ583形となり、従来車も差し換え対象となったためにクハネ581形は南福岡区に転属となった。
配置が167両(13両編成12本・予備車11両)となり、大幅に運用増となった。
「みちのく」は「常磐はつかり」を定期化する形で、「はつかり」の補完列車的存在であった。また、上野口の間合い運用で「ひばり」1往復にも充当。「はつかり」は1往復が東京発着となったが、東海道新幹線ホーム増設工事のため、翌1973年(昭和48年)3月31日をもって再び上野発着に戻されている[注 49]。
南福岡区より13両編成1本が転入[注 50]し総配置が180両となったが、予備車増強用のため定期運用に変化はない。寝台組立要員の不足から「ゆうづる」1往復が全車指定席の座席列車での運転に変更となったが、翌1976年(昭和51年)の3月に再び寝台列車に戻された。
上野口間合い運用の「ひばり」が485系に変更され消滅。また、翌1979年(昭和54年)10月1日のダイヤ改正でグリーン車の連結位置を183・189・485系と統一するため、6号車に変更した。
夜行列車の需給見直しが行われ「ゆうづる」1往復が季節列車に格下げ。
東北・上越新幹線開業により、東北本線の昼行特急列車は軒並み廃止となり、「はつかり」は盛岡 - 青森に短縮され、新幹線連絡列車となった。
この改正では、次の車両移動が発生した。
この結果、青森運転所の583系は配置174両・稼動車160両(12両編成13本・予備車4両)まで減少した。
改正直前に485系転配措置の関係から「鳥海」(とき_(列車)#特急の誕生と急行の黄金時代、いなほ_(列車)#羽越本線優等列車の創始を参照)にも一時的に投入されたほか、同年茨城県で開催された国際科学技術博覧会(通称:つくば博・科学万博)の臨時輸送に投入され、臨時快速「エキスポライナー」や列車ホテルとした「エキスポドリーム」に充当された。
定期運用列車に関しては変更はなかったものの基本編成が9両編成となり、多客期には青森方にモハネユニット+サハネの3両を組み込み対応する組成に変更となった。
またサハネ581形7両が札幌運転所に転出したほか、サシ581形全車と状態の悪い余剰車12両が廃車となった。この結果、配置両数が141両まで減少した。
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本系列では、東日本地区運用車両は青森運転所、西日本地区運用車両は南福岡電車区に配置されたが、国鉄時代には1975年の南福岡配置車両の向日町転属を除くと以下の転属経歴がある。
1987年の国鉄分割民営化では、以下の旅客3社に承継された[23]。
サシ581形はJR移行直前までに全車廃車となったほか、サロ581形も35両中20両が承継されたのみである。
JR北海道ではサハネ581形7両を承継したが、経年による傷みや改造計画自体の見直しから苗穂駅周辺で留置されたまま営業運転に就くことはなく、1990年(平成2年)に全車廃車された。また、台車のみがクリスタルエクスプレス トマム & サホロのキサロハ182-5101に流用されるにとどまったことにも表れているように、譲渡は国鉄時代の費用コストが掛からない内に改造種車として確保することが目的だったという[24]。
国鉄時代から引き続き青森運転所に所属し、夜行では「はくつる」「ゆうづる」、昼行では「はつかり」に充当された。その後の改正で若干の変化が発生した[25]。
2000年以降は以下の理由で急速に廃車が進行した。
2002年の東北新幹線八戸開業時点では9両編成2本と増結用中間車6両の計24両のみとなったが、後述する15両が転出したほか残存したモハネ583・582-83・94・98・サハネ581-46・52・サロ581-32の9両も翌2003年に廃車となり、青森運転所は1968年以来35年にわたる本系列の車両基地としての歴史を閉じた。
定期運用はないもののATS-Pが搭載されており首都圏各線への乗入れが可能なことや波動運用では広域での運行かつ高稼働率が期待できることから、秋田支社・仙台支社の要望もあり同年度中に、クハネ583-5・20・モハネ583・582-6・12・79・サロ581-33の9両は南秋田運転所(現・秋田総合車両センター南秋田センター)に、クハネ583-8・17・モハネ583・582-100・106の6両は仙台電車区(現・仙台車両センター)[注 54]にそれぞれ転出した。
転属後の経緯については、それぞれの所属区所ごとに説明する。なお、所属区所名称は、現名称もしくは本系列の配置終了時点の名称とする。
2003年2月24日に青森運転所から下表の編成が転属した[26]。
← 東京・上野 仙台・青森 →
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編成番号 | クハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
クハネ 583 |
N-1+N-2 | 8 | 106 | 100 | 17 |
当センター所属車はN-1+N-2編成となり、正式転入後には郡山工場(現・郡山総合車両センター)で徹底的な修繕工事が施工され、国鉄時代の状態が再現された。以後の検査も引き続き郡山総合車両センターが担当となったため床下機器・台車はグレーに塗装された。また2007年には首都圏でのデジタル列車無線整備にあわせてデジタル列車無線車上装置が搭載された。
2011年6月には東武鉄道直通列車へ充当されていた小山車両センター所属485系6両編成が253系1000番台落成・運用開始により用途廃止となったため仙台車両センターへ転出した。これにより仙台所属波動用485系は6両編成2本となることから、老朽化が進行していた秋田所属車を比較的車齢の若い当センター所属車で置換えるため同年8月18日に秋田車両センターへ転出した[28]。
2002年12月3日に青森運転所から下表の編成が転属した[26]。なお、現名称までの変遷は、南秋田運転所→秋田車両センター(2004年4月1日改称)→秋田総合車両センター南秋田センター(2021年4月1日改称)である[29]。
← 東京・上野 秋田・青森 →
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編成番号 | クハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
サロ 581 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
クハネ 583 |
20 | 12 | 79 | 33 | 6 | 5 |
当センター所属車は転入当初は保留車扱いながら波動用車として運用される珍しい形態が採られた[注 55]。また冬期の大雪や塩害など厳しい気候条件にある日本海側の奥羽本線・羽越本線での運用から、外観は雨樋の歪みをはじめ補修跡や所々に錆が目立ち、前灯のレンズ部分が黒ずむなど傷みが激しかった。そのためサロ581-33[注 56]・モハネ583・582-79は2006年6月1日で廃車[30]。残存した6両は2006年4月より秋田総合車両センターに入場し、1年かけて仙台所属車と同様に検査と車体全体の再塗装を含めた徹底的な修繕を施して2007年4月16日に出場し、同月20日から「わくわくドリーム号」で運用を再開した[注 57]。
← 東京・上野 秋田・青森 →
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編成番号 | クハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
クハネ 583 |
20 | 12 | 6 | 5 |
その後、特急「かもしか」に投入されることもあったほか、当初よりすべて国鉄特急色のため2001年に運転された「リバイバル月光」(新大阪 - 下関)・2004年に運転された「リバイバルつばめ」(品川 - 名古屋)などJR他社に貸出されるケースもある。
上述したように当センター所属車を仙台所属車で置換えるため2011年8月18日に仙台車両センターから転入[28]、廃車となる従来からの秋田所属車は同年3月25日に運転された甲子園臨時「秋田県立大館鳳鳴高等学校応援列車」を最後に運用離脱[32][33]。そして同年9月20日 - 21日にかけて長野総合車両センターへ回送され[34]、同月22日付で廃車された[35][36]。
← 東京・上野 仙台・青森 →
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編成番号 | クハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
クハネ 583 |
N-1+N-2 | 8 | 106 | 100 | 17 |
上述のように仙台車両センターから転入[28][36]してきた編成であり、編成番号も仙台時代から引き続きN1+N2とされ、転属後に愛称表示機ならびに行先表示幕・第2パンタグラフの交換(PS16H → PS16H改)が施工された[36]。運用はこれまでの編成と同様、主に秋田地区発着の臨時列車や団体列車「わくわくドリーム号」に投入された。
2017年4月8日に奥羽本線秋田 - 弘前で運転される団体専用臨時列車「さようなら583系」への充当を最後に営業運転を終了すると発表された[37]。ヘッドマークに「ありがとう583系」の特製ステッカーを貼り付けて運転後[38][39]の同月9日に抽選による車両展示会を秋田駅で実施[40][41]。同月27日に秋田総合車両センターへ自走回送された[42]。
クハネ583-8は2017年9月2日付で廃車となり国内譲渡された[43]。モハネ583・582-106は2017年10月14日付で廃車となり[44]、台湾鉄路管理局車両工場があった台北機廠跡地に建造予定の鉄道博物館で保存車となる予定[45](詳細は保存車に後述)。モハネ583・582-100は2018年3月1日付で廃車となり[44][46]、2022年10月1日現在はクハネ583-17のみが車籍を有する。
分割民営化時には10両編成(B編成)6本60両が承継され、引き続き向日町運転所に配置された[24]。
← 大阪 新潟 →
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編成 番号 |
クハネ 581 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
サロ 581 |
サロネ 581 |
モハネ 582 |
モハネ 583 |
クハネ 581 |
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B01 | 24 | 71 | 18 | 27 | 2 | 85 | 25 | |||
B02 | 28 | 74 | 73 | 34 | 6 | 78 | 35 | |||
B03 | 30 | 50 | 53 | 12 | 3 | 45 | 29 | |||
B04 | 22 | 75 | 68 | 29 | 4 | 87 | 37 | |||
B05 | 3-28 | 89 | 66 | 16 | 5 | 102 | 33 | |||
B06 | 36 | 88 | 70 | 25 | 1 | 101 | 3-27 |
|
国鉄時代からの急行「きたぐに」定期運用のほか、かつては「雷鳥」をはじめ「シュプール」・「シャレー軽井沢」・「東北夏祭り」・「あおもり」・金光教参拝団体列車(通称『金光臨』)・奥羽羽越沿線⇔京阪神修学旅行列車・寝台設備を活かした「ナインドリーム甲子園[注 58]」「エキスポトレインわしゅう」にみる列車ホテルなどの波動臨時列車運用にも投入された[47]。
「きたぐに」では繁忙期に別編成の電動車ユニットを組み込み増結。「シュプール」では485系との併結運転も行うなど編成変更も行われた。
「シュプール」廃止ならびに交換部品確保の点から2007年にB01編成が、2010年にB02・B03編成が廃車され3編成30両の配置となったが、その際に車両組み換えが行われ先頭車両はクハネ581形に統一された。
2012年3月17日のダイヤ改正で「きたぐに」臨時列車化ならびに短編成化(10両編成→7両編成)を実施。余剰となった電動車ユニット6両とサロネ581形3両[注 59]が同年8月までに廃車となり[48]、本系列による定期運用は終了した。
「きたぐに」は2013年1月7日の上り運転を最後に同月31日、JR西日本から廃止が発表された[49]。そして、京都鉄道博物館で保存されるクハネ581-35を除き同年7月までにすべて廃車[50]。クハネ581-35も2015年2月17日付で廃車となり本系列のJR西日本在籍車は全廃となった[51]。
なお分割民営化後は以下の改造が施工された。
1989年にB01 - B03編成へ施工。
また各形式ごとに施工された改造を以下に示す。
![]() | この節の内容の信頼性について検証が求められています。 |
画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
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クハネ581-8 | 福岡県北九州市門司区 九州鉄道記念館 |
近郊化改造後のクハ715-1として1998年(平成10年)に廃車。その後も解体を免れ九州旅客鉄道(JR九州)
小倉工場(現・小倉総合車両センター)に留置されていたが、2000年(平成12年)の小倉工場まつりのために修復工事が行われた[注 64]。 ただし、内装および窓・扉配置はクハ715-1のままであり、後位側扉・ロングシート・中吊り広告受の残置などがある。2003年(平成15年)の同館開館により移設。 |
![]() |
クハネ581-35 | 京都府京都市下京区観喜寺町 京都鉄道博物館 |
JR西日本吹田総合車両所京都支所所属の新潟方先頭車。国鉄色およびJNRロゴ復元などの整備をした上で2015年2月14日に吹田総合車両所から搬出[53][54]。 |
![]() |
モハネ583・582-106 | 台湾 国定古跡・台北機廠[45][57] | JR東日本秋田車両センター最終所属で本系列最後の稼働車だった中間車2両。2017年8月1日にさいたま市の鉄道博物館で譲渡調印式が行われた[58]。
同所に建造予定の鉄道博物館に寄贈。車両は既に海上輸送で台湾の現地に到着済である。 |
なお保存車ではないが、片町線(学研都市線)同志社前駅では1986年の開業当初から本系列の廃車体を2次利用した喫茶店を設置。後に休憩室へ改造されたが、2005年に施工された駅舎全面改修工事により撤去された。
画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
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サハネ581-19 | 北海道中川郡美深町 トロッコ王国美深 (旧国鉄美幸線仁宇布駅跡) |
宿泊場所として使用。本車を含む以下のサハネ581形5両はJR北海道への継承車で1990年(平成2年)の廃車後に道内の民間に転用。 | |
サハネ581-14・36 | 勇払郡むかわ町字汐見 ※解体済み |
ドライブインに転用され、サロ481-41とともにこの場所に移設された。閉店後は現場に放置され、横転するなどして状態も非常に悪く、2005年(平成17年)ごろに解体。 | |
サハネ581-15・18 | 北海道登別市 | ゴルフ練習場売店に転用。サハネ581-15は解体され、現存しているのは18番のみ。 | |
サシ581-31 | 青森県八戸市⇒千葉県いすみ市 | 障がい者施設「柿の木苑」⇒ポッポの丘
車体老朽化などもあり所有者が解体の意向を示したことから、移設し保存すべくポッポの丘への移送費用のクラウドファンディングを2023年に実施し、目標以上の資金の獲得に成功[59][60]。2024年3月17日より搬送を開始[61]、3月21日にポッポの丘へ移設。[62] | |
サシ581-6・8 | 宮城県仙台市青葉区 | ラーメンなどを提供するレストランとして仙台駅で営業していたが、現在閉店。解体されたかどうかは不明。 | |
モハネ583・582-95 | 宮城県大崎市 「たかともワンダーファーム」 ※解体済み |
前述した仙台駅構内脱線転覆事故による廃車。1990年(平成2年)キハ58 92・キユニ28 20・サシ481-27・サロ455-31とともに大崎市の「たかともワンダーファーム」が購入し館内施設として使用されたが、2008年9月に車体腐食のため解体。 | |
サシ581-32 | 千葉県市原市 | ||
サシ581(車両番号不明) | 埼玉県川口市 ※解体済み |
川口市立原町小学校近くの交差点。すでに解体され窓枠の一部のみ現存。EF60 116の前頭部もある。 | |
サシ581-29 | 神奈川県相模原市 ※解体済み |
淵野辺駅前の中華店に転用後、解体 | |
サロ581-26 | 京都府京田辺市 | ||
サシ581-10・30 | 大阪府大阪市住之江区 | ||
サロ581-20・サシ581-17 | 大阪府貝塚市 | ||
サシ581-3・15 | 兵庫県神戸市垂水区 | ||
サシ581-25 | 兵庫県加古川市 | ||
サシ581-34 | 岡山県加賀郡吉備中央町 | ||
サシ581-24 | 愛媛県松山市 |
国鉄末期に余剰車が大量に発生したサロ581形・サシ581形は、飲食店などの店舗に転用判明しているが、譲渡から30年以上を経過しており、2020年時点で現存するものは数箇所のみである。